« 2005年06月 | メイン | 2005年08月 »
2005年07月30日
裸ジャグラー、オンエアーへ?
新宿中央公園のナイアガラの滝へジャグリングの練習に。むしむしと暑い。時折小雨がぱらついたりして、猛暑という感じではないけど、ずっと低温サウナに入っているような、そんなじめじめと暑い天気だった。じっとしていても汗がにじむ。練習に来ていたシガるさんも、小林さんも、休憩の合間に練習するような、そんな感じ。隣にいたサッカーのリフティングをジャグリングにしたような芸、「フットボール」の人々も、活気があるようなダレてるような。
トリッキーなリフティングが異様にうまい人がいるなぁと思ったら、ヘブンアーティストの資格(というのか?)をもった芸人さんだったらしい。なんじゃそりゃ、っていうぐらいうまい。
あまりに楽しそうにボールを蹴っているので、ちょっとやらせてもらってみた。「その靴じゃムリですよ」と笑われたけど、それなりには蹴れる。サッカー部だった中学生のとき、練習なんてまともにした記憶はないけど、リフティングだけは楽しくて結構やったもの。しかし、パフォーマンスでやるリフティングは足の甲をつかうインステップキックでも、親指の付け根あたりを使うインフロントキックなんかともちょっと違うらしい。つま先でやや引っかけ気味に蹴る。
あまりに汗だくでTシャツがびっしょりになったので、半裸になってみた。水泳をやめてから、腕以外の上半身は、すっかり貧相になってしまったけど、同年代のビール腹のことを思えば、「脱いでも犯罪じゃないだろう」というぐらいに大丈夫な身体だろうと自分では思っていたりして。夏の公園なんて半裸はいっぱいいるもんだし。
4ボールや5ボールのシャワー(というのは日本式お手玉で、一方にくるくる回転するジャグリングの投げ方)を投げていると、汗だくの脇がツルツルすべる。我ながら気持ち悪い。
ツルツルべたべた言いながら、クラブ(は棍棒みたいなやつ)を投げていたら、カメラを構えた2人組みがよってきた。「公園のジャグラー」として被写体になってくれということかと思ったら、そうじゃなくて深夜のフジテレビの取材だった。
「戦後60年。日本はどう変わったか」。そんもん戦後の半分しか生きてない人間に聞いてどないすんねん……。と、思いつつ、現代日本社会のことやら憲法問題のことやらしゃべり始めたら、10分ぐらい経っていた。乳毛がちろりんと出た裸のまま、赤黄青のクラブをもってしゃべる汗だくのジャグラー……。絵にならない。「えぇえぇ、個人的には改憲すべきだと思ってますよ」。偉そうにしゃべるジャグラー。絵にならん。
フジテレビのディレクター、ぼくと同じ年だったけど、ある先入観をもって取材しているフシがありありと伝わってきて、ちょっと編集が心配になった。ディレクターの頭には「戦後60年。なんか日本やばい?」という問題意識があるんだろうけど、それが漠然としすぎていることが、質問の曖昧さから伝わってくるように思えた。ぼくが「なんのかんの言って日本は恵まれてますよ。先進国、途上国、どこでもいいですが、どこの国と比較して悲観するほどの状況だっていうんでしょうね」というような意味のことを言ったら、それに対して「おっしゃるのは物質的には、ということだと思うんですよね」と返ってきた。政治的に不安定で物質的に欠乏が日常の暮らしをしてみてから言おうよ、そういうセリフって、と思う。
夜は東大のジャグリングサークル、マラバリスタの練習に参加。途中渋谷で上履きを購入。これで体育館でもピルエットの練習がやりやすくなった。妻が海外出張中なのをいいことに、朝から晩までジャグリング。
妙にクラブのうまい外国人2人組が来てるなぁと思ってみていたら、やたら背が高いほうの一人が5クラブで、がっつがつトリックを繰り出したり、2人で10クラブのパッシングをやったり、3ボールで見たこともない激しいトリックを繰り出したり。
「Get the Shoe」というドイツ人のプロジャグラーだったらしい。汐留で何やらショーをやってるらしい。どおりで。そういえば、この人たちのマーシャルアートジャグリング(動画へのリンク)は、あほくさくておもしろい。
マラバリって東大生の集まりの割に、みんな英語が全然できないので、片言でやりとりしている様子。でも、ぜんぜんジャグリング用語は通じる。もともとジャグラーはパターンを伝え合うときに「サイトスワップ(投げる高さ)」とか「カウント(イベントの頻度)」という数字でしゃべるので、ワンツースリーが言えれば、どこの国のジャグラーとも意思の疎通はできそうなところがあるのだけど。
それにしても、いきなり2人がペアになって投げ合うパッシングで、初対面の2人がサクサクと投げあえちゃうのってスゴイことだと思った。ぼくはパッシングのことはよくわからないけど、音楽で言えばアドリブのセッションだ。基本のコード進行だけ、ちょっと打ち合わせておけば、あとは、それぞれの持ち味でワラワラとクラブを投げれる。適当にトリックを入れたりピルエット(回転)したりできるらしい。パッシングは楽しそうだ。
プロジャグラーだから、技量はやっぱり圧倒的だし、ワザのバリエーションも豊富。一般受けしないか、あるいは成功率が低くて人前では見せられそうもないトリックを次々と見せてくれた。そういうときだけ、みんな練習する手をとめてワラワラと集まってきたりして。
しかし、プロジャグラーたちに「WHOA!」と言われるようなトリックを繰り出せるマラバリの子たちもすごいよな。
投稿者 ken : 23:34 | コメント (0) | トラックバック
2005年07月29日
お酒の夢
同期の一人が転職が決まったらしい。同期入社の26人中、ついに残るは2人となった。取り残されたような気分。
その同期の転職先が、某アンニョン系純利1兆円企業(って1個しかないやんか)で、そこの企業文化が、すごく韓国韓国してるという話。「お酒いけますか?」「上下関係厳しいですけど大丈夫ですか?」と何度も聞かれたらしい。アメフト体育会系の彼は大丈夫だろうけど、ぼくはついて行けないかも……。
それでじゃないかと思うけど、2年半ほど続けている禁酒を、ふとしたきっかけで破ってしまってお酒を飲みまくるという夢を見た。夢のなかなのに、ものすごく後悔しつつ、ものすごく何かをおそれていた。
投稿者 ken : 23:39 | コメント (3) | トラックバック
2005年07月28日
港区いいとこ一度はおいで
週刊東洋経済が3大都市圏住みやすさランキングをやっているので見てみたら、関東圏のトップは渋谷区。渋谷も人が住むところだったのかと、なんか意外な結果。渋谷は会社関係も増えてて確かに職住近接という意味では、住みいいところなのかもしれない。で、じゃあ、うちの港区はどうなんだとランキングを見てみたら、2位が成田市、3位が浦安市とある。何じゃそりゃ。4位が新宿区。意味がわからん。
いったい港区は何位で、利便性、安全性、富裕度など、それぞれどういう評価なんだと細かい字で書かれた表を探してみたけど、どこにも港区は載ってない。千代田区、中央区、港区ははずされていて、評価対象は東京20区なのだった。
千代田区を外すのは、まだわかるけど、渋谷区が入って港区が入らない理由はなんだ? 人口でいえば、渋谷区19万人、港区17万人と、さほど変わらない。昼夜間人口比率でいうと、確かに港区は526%と、千代田区の2374%や中央区の898%に次いで高く、「仕事の街」という感じであるには違いない。新宿区や渋谷区は昼夜間人口比率がともに280%程度だから、「500%超の区は除外しました」というのは一見もっともらしい。でも、港区の17万という人口は決して少なくない。2位にランクしている成田市なんて10万人、3位の浦安市だって15万人と、むしろ港区より少ないぐらい。
各種統計データからもっともらしい数字を出しているとはいえ、偏見と主観に満ちたランキングじゃないか。まあ、もともと「住みやすさ」なんて、そういう主観的なものだろうけど。
投稿者 ken : 18:00 | コメント (0) | トラックバック
2005年07月25日
おお壁よ
本村凌二『優雅でみだらなポンペイ――古代ローマ人とグラフィティの世界』(講談社、2004)
おお壁よ! こんなにも多くの落書き人の愚行によって力を貸したことによっておまえは崩れ去ってしまわないのだろうか。
落書きという愚行に力を貸したポンペイの壁は、突然のヴェスビオ火山の噴火によって降り注いだ火山灰に埋もれた。そして、その後2000年近い時間、土中に眠り続け、落書きを後世に伝えるタイムカプセルとなった。そんなことを知るよしもなく、「おお壁よ!」という落書きが、ポンペイの町の壁には、少なくとも4箇所刻まれているという。
流行の詩歌、飲み屋の女を取り合う男どもの舌戦、選挙広報活動の名前ポスター、娼婦街のエロいメッセージ、子どもたちが練習したアルファベットの羅列、不動産広告、見せ物の興業告知ポスターと、どの落書きも興味深く、古代ローマ人の生活や文化、政治制度を伝えている。
にしても、なかなかにアーティスティックな筆跡が多い。
投稿者 ken : 23:00 | コメント (0) | トラックバック
2005年07月24日
会社はだれのものか。数学の歴史
岩井克人『会社はだれのものか』(平凡社、2005)
前作の『会社はこれからどうなるのか』から、やや視点を変えてはいるものの、基本的には同じテーマを扱った会社論。第一部の頭で、会社とは何かをもう1度振り返ってみようと言ってるあいだに主張は終わり、最後の「会社とは社会のものなのです」という命題をとってつけたような印象もある。前作で繰り返し説明されている会社の所有の二重構造や、モノとしての側面とヒトとしての側面を併せ持つ不可解な「法人」というものを理解していれば、会社が誰のものであるのかという答え、あるいはどう答えるべきかということは、ある意味自明。そういう意味では、ライブドアとニッポン放送の買収茶番劇をみて「会社って誰のもの? 株主主権って善なの? 悪なの? グローバルスタンダード?」と疑問を抱いた人で前作を読んでいない人が読むべき会社論入門の本という感じになっている。
結論は「会社は社会のもの」であるのだけど、そう単純に答えて終わるような話だったら本なんて書く必要はない。この命題は、真偽がどうこうというより、それはつまり、会社のあり方や、企業社会はどうあるべきかという問題を考えるときに出発点となる話でしかない。
会社は、社会や個人、集団の結節点であり、それは営利の企業活動だけを行なうものではない。もともとコーポレーションは、僧院や大学といった非営利の、いまで言えばNPO的な寄り集まりからはじまったという。だから株式やお金だけに還元できる即物的な存在などではないし、そんなものであった試しは一度もなかった。
会社の健全度を指標化する参考値でしかなかった数字が一人歩きをはじめ、数字をようすることが経営者の手腕であるという倒錯が、何度も指摘される。株主が儲かればいいのなら、製造業者は研究費を削って研究所を閉鎖すれば3年ぐらいは見かけ上は儲かる。あるいは食品業者なら、味の基準や安全管理の基準をさげればいい。あるいは先行き不透明なベンチャー企業なんて、モノになるかどうかわからないアイデアに引き続き投資するよりも、起業当初より価値が増えてるんだったら、もうばら売りにして、そのお金を株主で山分けすればいい。でも、会社ってそんなものじゃないでしょ、という割に人間くさい話。もちろん、こうした話は短期的な利潤追求が長期的な利潤を損なうという意味で、相変わらず利潤追求の目線の違いにすぎないという論理もありえるのだけど、それだけに還元できないのだと著者は繰り返し主張する。
CSRとかSRIといった社会福祉に資するような活動が最近の会社で盛んになっているけれど、そうしたドライな利潤追求からみたら不利となるような活動は、企業の競争力を落とすのではないか、という懸念に対して、「みんながやれば問題ない」という。だから、最近のCSRバブルはいいことだ、と。
たばこ会社が環境問題に取り組んでいるなんて話を聞くと、眠たいこといいやがってと思うんだけど、でも、企業は社会奉仕を最初はブランディングのためのポーズではじめるとしても、それはそれでいいのじゃないかという気がしてきた。人間社会に道徳や倫理があるように、法人にも、法人がひしめく企業社会にも、法人に道徳や倫理をもとめるべきだし、利己主義的で株主の顔色しかみないような法人は、身勝手な人間が人間社会でうまくやっていけないと同じように、うまくやっていけないような、そういう金融や法律の仕組みや、会社文化を作っていくことはできるように思える。いや、ぼくはむしろ必然的にそういう秩序が生まれてくるのではないかという気がする。ただ儲かっている会社よりも、いい製品やサービスを提供しているとか、社会的に有意義な会社に投資をしようと思うような経済的に不合理な感性が、人間には生来備わっているように思うから。
森毅『数学の歴史』(講談社学術文庫、1968)
数学は古代ギリシアに生まれ、その後も確かな歩みで発展してきた、なんてことはない。自然科学は素朴に事実だけを積み重ねる営みではない。2000年(あるいは3000年)の数学の歴史というのは「発展」などという言葉で総括できるような単純な歩みではなかった。数学の歴史には、人間社会や地域の文化、時代思潮といったさまざまな要素が影響を及ぼしてきた。文明や民族ごとに異なる特質をもった数学が、互いに影響を及ぼしあってきた。
数学史を、そんなふうに大きな歴史の流れに重ねて描いた本を読んだのは初めてだけど、複雑多様な歴史のプロセスから、大きな流れと意味を抽象する森先生の力強さや鋭さに、岡倉天心のアジア論に通じる深い知性を感じるものでござました。天心同様に、しびれるような詩的なフレーズが随所にちりばめられてもいて、読んでいて何度も鳥肌が立つような本だった。
しかし、こんなに難しい本を読んだのは久しぶりかも。数式も幾何学図形も一切登場しないのは、一般向けの自然科学系読み物ではよくある話で、それは、数学的知識が十分でない人も読者として排除しないという配慮だったりする。ところが、この本。数式がひとつも出てこないというのに、読者に要求する数学的知識の高さは尋常じゃない(笑)
そもそも、ギリシアで数学がはじまったという単純な考えを、森先生は採らない。ギリシア数学の起源はエジプトにあったし、その発端自体は、他の古代文明がもっていた数学と異なるものではなかったろうという。にもかかわらず、何をもってギリシア数学は偉大であったのかというと、それは「体系」と呼ぶに値するものを備えたこと、そしてその完全性がひとつ。自分たちの世界観や哲学を表現しうるほどの体系となった。もうひとつは、近代数学に通じる概念に到達したこと、だそうだ。
古代ギリシアというのは、現在ギリシアと呼ばれる国と地理的に完全に一致するわけではない。「ギリシアで生まれた数学」がたどった運命を、ざっくり総括したこんな言葉が印象的。
歴史はもっと皮肉であって、「民主的」アテナイは観念論イデオローグとしてのプラトンを出したが、学問的生産が行なわれたのは「神権的」アレクサンドリアであり、「文化的」ローマにいたってはギリシア数学没落の責任者である。
アルキメデスがローマの兵に殺されたのは象徴的な出来事だと言う。いまでもヨーロッパ人は、自分たちはローマを介して古代ギリシアの正統な後継者であるような顔をしているけど、ヨーロッパなんて歴史の大部分を通して、文化的、文明的にそんなに立派な場所だったわけじゃないよな。
古代において、ギリシアが実用や応用を忌み嫌ういっぽうで、中世、つまりアラビア世界においては数学は、何よりも商人たちにとって実用のツールだった。森先生のこんな言葉が、数学発展の意外な面を教えてくれる。
ギリシアが現世から遮断された純粋性の中に体系を見いだしたのと反対に、イスラム人は課題に密着することによって問題解決の技術に数学を見いだした。(中略)そして、この思弁的でない世界で「数概念」は成熟した。負数や無理数に「数」としての権利を獲得させたものは、哲学や体系ではなく、この日常性であった。
商人たちのプラグマティズムが「虚ろな数」に権利を獲得させた。むはー、いいなぁ、笑える。こういう出自を考えると虚数とか超越数に必要以上に神秘を見ようとする小川洋子的憧憬って、やっぱりお笑いだ。
現代数学が本格的に花開くのは17~19世紀ヨーロッパ。森先生はざっくり総括して、それぞれの世紀を、端的にこう呼ぶ。17世紀は「原理の世紀」。それに続く18世紀は、オイラー、ラグランジュ、ダランベールらの輝かしい成果があふれだした、「事実の世紀」。そして19世紀は「体系の世紀」。20世紀は後世の人の評価待ちとしながらも「方法の世紀」かもねと。
あらゆる数学分野でその名を冠した基本定理がある、というほどの業績を残したオイラーはもとより、19世紀に革命的な数学を創始したようなガウス、コーシー、アーベル、ガロア、ロバチェフスキーらすら、森先生は、創始者としては、あまり評価していないらしい。こうした数学者たちは、啓蒙主義時代の数学者たちの後継だという。先人が蒔いた種によりもたらされた果実を収穫したのであれば、真に革命的であったのは、種を蒔いた啓蒙時代の先駆者たちだというわけか。
そういうわけで、森先生はライプニッツの「超時代性」をものすごく評価している。形而上学ですら記号化しようとしたライプニッツこそ、後に続く数学の土壌を準備したというのはまだわかるような気もするけど、モナドやエネルギー概念やら、二進法の話やら、それがいったいどれほど数学と関係するのか、よくわからない。
大学で数学の勉強というと、18~19世紀に現れたきら星のごとき数学者たちの定理なり概念を理解することだという印象がある。基本定理には数学者たちの魂が刻まれている。では、20世紀、あるいは21世紀にはそうした天才的数学者はどこに行ってしまったのか。いまでも数学という営み自体は行なわれているはずなのに、どうしてわかりやすい形で、たとえばガウスやガロアのように彼らは輝いてみえないのか。日本で言えば小平邦彦、広中平祐のような人々でさえ数学関係者しか名前を知らないのじゃないかというほどマイナーだし、300年の難問を解いたワイルズだって、一時ニュースになって忘れ去られる。
現代社会にとって数学は何なのか、数学者とは何者かということについて、終章の「いかに、数学は現代につきささっているか」で、森先生はペシミズムとも恬淡とも言えないトーンで、こう書いている。
数学技術者の爆発的増加ばかりか、社会そのものが数学と結合することを背景として、<数学の大衆化>が必然となる。功利主義にしても、かつては大数学者の頭と魂に潜んでいた思想の微妙なゆらぎを、外的な構築として顕在化し、大衆の眼前においたのだった。そしてそのことはかえって、「数学者」の個別価値を突出させなくもする。そして数学が物質化していく中で、「数学の魂」を懐かしむことは、現代人にとって気恥ずかしいことだ。これが現代人の贖ったものだった。こうして現代人にとって、数学は彼につきささっている。いまではすでに、数学は社会構造の一部であるから。
「気恥ずかしいこと」と言ってるけど、ここに数学者の嘆きのようなものを読み取るのことを、ぼくは深読みとは思わない。
投稿者 ken : 23:08 | コメント (0) | トラックバック
2005年07月23日
ラビラント
地震ぐらぐら。洗濯機の搬入中だったのに、エレベーターが止まった。業者さんご苦労さん。
新しいドラム式洗濯機と、エアコンが同時に来た。涼しい日が続いているのでエアコンはあまり感動がないけど、洗濯機のほうはスゴイ。
地震で電車も止まったらしい。出かけなくてよかった。
夜、ぶらぶら散歩。涼しい。四の橋商店街のせんべい屋が、すごくレトロな店構えでいい味を出しているのでのぞいてみた。店主に聞いてみたら昭和14年創業なんだとか。おかきと豆を購入。
前から気になっていたイタリアンレストラン、ラビラントへ。なぜか男のぼくに渡されたメニューにだけ値段が書かれている。その値段が、ことごとくバラバラで1985とか2431とか中途半端な数字ばかり。消費税計算というわけでもなさそうだし、意味がわからん。
サクラ肉のサラダ、白身魚のサラダ、豚肩肉と蛤クロケット、ブイヤベースなど。彼女がデザートを2種類も頼んだので、食い過ぎだと思ったけど、デザートは「上品にもほどがある!」と言いたくなるほど小さかった。エスプレッソもおいしく、満足なお食事でございました。
投稿者 ken : 23:42 | コメント (0) | トラックバック
2005年07月19日
殺人雑誌
殺人マニア向け(?)雑誌『実録! マダー・ウォッチャー』(洋泉社)が届いたので早速読んでみた。
子どものころから、人を驚かせたり、眉をひそめさせることにかすかな快感を覚えるぼくの最近のお気に入りの発言は「趣味は殺人です」だったりする。それはこの雑誌を監修した柳下さんのホームページにあったセリフ。柳下さんみたいな筋金入りの殺人マニアからしたら、ぼくごときはまあ殺人検定五級とかになるんだろうけど。
悪趣味を装う衒いというのもあるけど、内心では「そんなの悪趣味だ」と眉をひそめる感性の鈍い人々を嗤うという歪んだ心理もあったりする。悪趣味も何も、我々人間はみんな人殺しを内に飼っているじゃないかと思う。
人間の歴史は人が人を殺してきた歴史だし、合理的、理不尽とを問わず、いまも昔もたくさんの人間が数え切れない人を殺してきた。そういう人間の暴力の普遍性を考えるなら、自分のなかにも同じ傾向があると考えない理由はない。殺人者は我々(自身)の中にいる、という巻頭辞に、ぼくは同意する。
数十万年前に数十種存在したとも言われるヒト科の霊長類、ホミニドが、ほとんど全部絶滅し、その後にぼくらホモ・サピエンスとなる種族だけが生き残ったのは、人間という種がもっとも好戦的で残虐だったからなのだという説明には、ぼくは一定の説得力があるように思う。白昼夢から目覚めて、ふと我が手をみてみると、鮮血に染められていて呆然とする、というような、ホラー映画にでもありがちなモチーフそのままだ。好戦的で血に興奮する種族だからこそ、いまだに格闘技が盛んという話がある。
ちょうど普段は地下で胎動しているマグマが吹き出す火山の噴火のように、殺人事件や虐殺事件、テロは、人間の内なる暴力性が顔をのぞかせる吹き出し口のようなもの。
おぞましいと言って目をそらすのは、ある種の人々にとっては上品な態度だと思う。でも、もし暴力について意味のある話をしようとするなら、暴力から目をそらすなんて、誠実な態度とは言えないと思う。
軍隊の存在が事実でも必然でもないかのごとく言いつのり、近代国家に暴力など不要だと理由もなく主張し、建設的な、たとえばシビリアンコントロールについての議論にもたどり着けないような、そういう欺瞞的で夢想的な平和主義者と、このへんはパラレルな話じゃないかと思う。暴力は不可避的に存在する。それをむやみに断罪することが暴力の根絶にはなるはずがない。暴力の諸相を知ることは、なんにせよ最初の第一歩じゃないかと思う。
ところが、暴力は理性を拒む面が強い。暴力は、近代社会という理性の構築物のなかにオリのように残った異物のように感じられる。我々の内なる暴力性は、排除も理解も拒む。だから、「殺人」はゾッとするようなおぞましさとともに、得も言われぬ蠱惑的な響きをもつのだと思う。いったいどれほどの小説、映画、芸術作品が現実に起こった殺人事件を題材にしてきたことか。眉をひそめながらも、みんな殺人事件に興味津々じゃないか。裁判にかけられる殺人犯をみて「あんな人でなしは殺してしまえ!」と殺人鬼のようなことを思うじゃないか。殺人を憎むあまり死刑制度廃止の議論に反対する人々は、同時に殺人を望んでるというんだから矛盾した話だ。
殺人に対するときに人々が見せる矛盾に似たものが、家畜殺しにもある。屠殺場見学に行こうとぼくが周囲を誘ったとき、この誘いにみな眉をひそめたものだ。それはまあ当然の反応だと思う。だけど「残酷だと思う。自分は耐えられない」というコメントほど、この矛盾をハッキリ示しているものはなかった。何を言ってるんだ、毎日まいにち豚も牛も間接的に殺して食っておきながら、今さら誰のどういう行為が残酷だと言うんだ。目をそらすのは好きずきだけど、そういう矛盾に気づかない鈍感さのほうがぼくにはよほど怖い。ちょっとベールをかぶせるだけで残虐さを覆えるとでも思っているのだろうか。相手の痛みを想像するところから暴力に対する自覚やコントロールがはじまるんだとしたら、こういう想像力の欠如こそ、他方で暴力を増長させるリソースとなっているのではなかろうか。
自分が目をつぶっていれば相手の痛みを見ずにすむなんて冗談じゃない。目を開けて、痛ましい姿を見ようじゃないか。ルワンダで、隣人のフツ族によって家畜同然に農具で殺されまくったツチ族の姿を見ようじゃないか、、、、いや、家畜が殺されるところさえ見たことがないわけだ。やっぱり、ここに、ぼくはどうしても現代人、平和な先進国の住民が抱えている矛盾を感じずにいられない。
日々世界で起こる現実の暴力から目をそらす一方で、いまや映画も小説も暴力でいっぱいというこの矛盾。これは昇華なのか、カタルシスなのか、それともやっぱり欺瞞的現代人に対する挑発なのか。
と、自称平和主義者を嫌うあまり、残虐嗜好の言い訳めいたことを書いてはみたけど、もちろんぼくには、有り体に言って怖いモノみたさの悪趣味もあるわけだったのだけど、肝心のこの本、『実録! マダー・ウォッチャー』は、やや期待はずれに終わった。テレビや新聞が報じないというセンセーショナルなうたい文句の割に、内容が薄い。海外ネタを多く扱っているということをのぞくと、週刊誌のルポとたいして違わないじゃないか。それにライター陣も筆力にすごく差があって、とても読めたものじゃない記事が……。加古川大量殺人事件の現場ルポなんて、ただ「行ってきました!」以外に何も書かれていない小学生の遠足日記レベルだし。
巻頭カラーの現場写真だって、ただうつぶせになっている死体が並ぶだけで、どうということもない。グロテスクな死体写真を集めた実験的なサイト、grotesque.comで、かつて見た写真に比べれば、平和なものばかり。
しかしまあ、タイで幼児を誘拐しては内臓を食っていた間抜けな小心男の話だとか、イタリアの悪魔信者でカルトと化したヘビメタ集団の話だとか、オランダのイスラム系移民が起こす不穏な殺人・暗殺事件だとか、銃乱射事件を起こしたネイティブアメリカンの話だとか、よくもまああるはあるは頭のおかしくなりそうな事件が次々と。殺人事件の詳細を知ってゾッとするのは、実行犯の狂気が恐ろしいからというよりも、濃度こそ違え、同じ狂気を自分のうちにも感じることのほうだったりして。完全に動機が理解不能という殺人事件は、むしろ少ない。
投稿者 ken : 23:21 | コメント (10) | トラックバック
2005年07月18日
バンタイ
新宿へ。ぶらぶらと買い物。くるぶしより下までしかない短い靴下を買った。夜、歌舞伎町のタイ料理屋「バンタイ」へ。ロケーションは悪いけど、料理はおいしい。
投稿者 ken : 23:34 | コメント (0) | トラックバック
2005年07月17日
親戚まわり
暑い。梅雨明けらしい。お昼、新宿センチュリーサザンタワーのほり川で叔母と和食。結婚式のご報告やら写真見せやら。初めて行く店だったけど、眺めもいいし、内装もキレイだし、食事もまあ上品でおいしいし、おもてなし系には使えそうなお店だった。鉄板焼きもお寿司もおいしそう。
夕方、叔母その2、およびその家族の住む三宿へ。渋谷からバス。最近、ちょっと三宿がアツいと言うけど、本当かしら。三軒茶屋に足が向かなくなって久しい。
246から、ちょっと入ったところにある一軒家。歩いて5分も入らないのに、高速の車の音もまったく届かず、閑静なもの。噂には聞いていたけど“ステキなオウチ”。隣も空いたのでついでに購入したけど、「誰も使ってないのよねぇ。よかったら泊まりに来て使ってね」とかいう。いったい、いくらぐらいお金をあまらせている一家なんだろうか……。
久しぶりに会う伝順おじさんが、足が痛い、足が痛いとびっこを引いていた。すぐに足がつるという持病だとか。かつて、チョイワルオヤジを地でいくような、ダンディーでやんちゃっぽいイケてるおじさんだったと思ったのに、やっぱり寄る年波ってヤツなのか、そこはかとなく「おじいちゃん」という雰囲気が出てきている。中学生だか高校生だかの孫がいるわけだし、無理もないけど。
いとこのショーケイが「遅くなって申し訳ない」と結婚祝いをくれた。そんな気を遣ってくれるなんて、こっちのほうこそ申し訳と思うのだけど、こういうのは、そういうものなんだろうな(どういうものだ?)。
レイジョーとも久しぶりにゆっくりお話。口さがないオバ連中には「仕事をスローダウンして、何してんだかねぇ」なんて言われていたけど、ぜんぜん生活は楽しそうに見えた。お茶と書道を習っているんだとか。あんまりパソコンしないなんて言ってたのに、いつの間にかブログを始めていたらしい。
夜は太子堂にあるイタリアン、ペペロッソへ。ナポリタンなんかが出てきそうな昔の喫茶店風店構えだけど、料理はけっこう本格的でどれもおいしい。さすが食いしん坊一家、目の付け所がちがう。それにしても一家全員が驚くべき食欲と食へのこだわりで、ガスガス注文してモリモリ食う。オマールエビのパスタと、アンチョビとオリーブオイル、ニンニクでシンプルに焼いたメバルがうまかった。ひととおり食べ終わったと思ったら、さらに「ピザ食べようか」と追加注文。さらにデザートを食べて家に戻ると「メロンはつるんとしてるから、入るよね」と、まだ食う。なんて家族だ……。
投稿者 ken : 23:33 | コメント (0) | トラックバック
2005年07月16日
焼き肉パーティー
結婚式の2次会で、幹事や出し物やらを手伝っていただいた関係者を招いて焼き肉ホームパーティー。埼玉では有名だというサイボク(埼玉牧場)のお肉を、築山さんがどっさり買ってきてくれた。ブタもソーセージもカルビも、うまい。彼女が作るカリフォルニアロール系のナンチャッテお寿司も好評。
藤倉さんが「アポロは月に行ってない!」と力説する、その力説具合が楽しかったり。
夜、はじめてのDVDダビング。パソコン雑誌編集者が今ごろ何を言ってるんだって感じ。で、リッピング(といっても自分たちの結婚式のDVDなのでCSSはかかってないけど)はさっくりできるのに、なぜか書き込みができない。違うソフトでもダメ。なんだかヘンだと思ったら、ぼくが買ったドライブは今どき珍しいコンボドライブというヤツで、CD-R/RW/DVD-ROMには対応しても、記録型DVDには対応しないのだった。がっくし。デスクトップで改めてコピー。
投稿者 ken : 23:32 | コメント (4) | トラックバック
2005年07月13日
21円で落札
2年ほど前に買ったプリンタ、hpのdeskjet 948cをヤフオクに出したら、めでたく21円で落札された。インクがややかすれ気味で交換が必要とはいえ、ふつうに使えるカラーインクジェットプリンタが21円……。ああ、モノあまりの国、ニッポンよ。って、あまらせまくってる本人が言うのも何だけど。
粗大ゴミで200円出すよりマシとかいう問題じゃなくて、気分なのかな。手間で言えば粗大ゴミもヤフオクも微妙だし。どこかで誰かが活用してくれるなら、という贖罪意識か。
途上国どころか、アメリカの田舎町のしょぼいオフィスなんかだったら、間違いなく現役で使ってるだろうというようなモノじゃないかとも思う。アメリカの田舎町、つまりニューヨークのマンハッタン島と、カリフォルニアのサンノゼ以外ということだけど。
投稿者 ken : 23:02 | コメント (0) | トラックバック
2005年07月12日
締め切り直列
しかし、仕事というのは重なるときには本当に重なりまくるものだ。巡り合わせが悪すぎて、惑星が直列に並んでいる偶然のように締め切りがキレイに並んでいる。すごい偶然だ。まるで昨日締め切りが決まったかのように……。先週末3倍だった当社比の生産性が、週明けからは10倍になっている。ぐはぁ。
投稿者 ken : 22:04 | コメント (0) | トラックバック
2005年07月10日
Freespot初体験
青山へ。今さらのようにFreespot初体験。電源も無線LANもあるカフェで、急に頼まれたアルバイト原稿をバリバリとアップ。コーヒーがぶがぶ。
投稿者 ken : 18:42 | コメント (0) | トラックバック
2005年07月09日
そんな漢字は読めません
加納喜光『この漢字が読めますか?――日本語の奥は深い!』(PHPハンドブックシリーズ)
動植物名、地名、著名な人物名、隠語、業界用語と、どっかで見たことあるような難読漢字のオンパレード。いちおう一通り読み終わったけど、もう一度頭から読んだら、やっぱり2、3割ぐらいは読めない漢字だと思う。
はじめのうちこそ全部覚えようと3度ずつ読み返したけど、漢字検定を受けるぐらい気合いある人じゃないと、これをすべて読めるようになるなんてムリだ。そもそも、読み方どころか、それが何を指しているのか知らないモノも多い。「薯蕷芋」がとろろ芋ってのはまだいいけど、「顳?(ひかがみ)」って何だ。膝の後ろのくぼんだ部分を指すんだって。そんなの初めて聞いた。
この手の本って、ただ難しければいいだろう的に難読漢字を集めただけのものになりがちだけど、そういうのに比べると、この本は良心的。初級クラスの単語は、オトナの日本人として読めないとちょっと恥ずかしいというレベルのものが並んでいる。
語源や漢字の成り立ちを中心に語られるコラムが出色だ。該博な著者の垂れる古今の日中漢字事情のウンチクには、もううっとり。ググったら5秒で出てきそうな浅い民間語源学をとくとくとひけらかす連中の鼻っ面に投げつけてやりたいような本だ。1年近くかけてトイレの中で読んだ本だから、いい感じに芳香剤の香りが染みついてる。鼻っ面にキンモクセイの香りをぶつけてやるよ。
たとえば「桜」。この字の旧字体は「櫻」。「2階のオンナが気にかかる」と覚えろと高校の国語教師に教わったのを思い出すけど、この字の右側は2つの「貝」と「女」が組み合わさった、嬰児の「嬰」。これは赤ん坊を表わす。“木偏に赤ん坊”の「櫻」は、もともと赤ちゃんの唇のようなプリッとしたサクランボの実を表していて、「櫻」はサクランボを指す字だった。ところが、それを誤解した日本人が、櫻の字をサクラに当てるようになった。ところが、この間違った用法が、桜の木とともに海をわたって中国に逆輸入され、いまでは中国人ですら、何の疑いもなくサクラを指す文字として「櫻」を使ってるんだとか。いにしえの日中の文化交流や文化誤解の話がおもしろい。「鮭」とかも、割と知られた話だけど、日本人が間違えてサーモンを指す字として使ったために、いまでは中国人も、これをサーモンを指す字として使っているという話。
あるいは、武士の「武」。ほこがまえは、武器や戦争にかかわるものを示し、中に入った「止」は、これは足を表している。だから意味はウォーリアーになる。そう言われてみると、象形文字としての漢字の味わい深さがにじみ出てくるような、そんな字だ。知らなかったよ、漢字っておもしろいよ。
象形文字は単純に絵としておもしろいだけじゃない。漢字は文化を背負っているから、その解題は古代中国の文化を思わせる。たとえば「県」。これ、「首」という字がひっくり返っている。木に吊られた首を絵的にあらわした象形文字なんだとか。ひよえー。恐ろしい。なんちゅう字だ。「梟首(きょうしゅ)」というさらし首の刑罰の様子を表している。
意味で組み合わさったものもおもしろい。たとえば「罪」と「罰」。これは、なんでこんな字を書くのか。上の「四」の部分は「あみ(網)」を表わす。悪事(非)を網でとらえるイメージ。天網恢々疎にして漏らさずだよ、と、そんな意味が込められている。罰のほうの下にあるのは、「言」と「刀」。これは判決の言葉と、刑罰の刀を表している。
もうひとつ驚いたモノ。「騒」という時。馬にノミがつくと、かゆくて馬が暴れ回るからということらしい。知らなかった。虫はあちこちにいる。「濁」の右側、「蜀」は何やら動植物にこびりつく虫のことだったらしい。それで水がこびりつくイメージから「濁」という字が生まれた。なぜか虫が入っている「虹」の字。むかし、中国人は虹を生き物と捉えていたってこと。
いやぁ、漢字っつうのはおもしろい。白川静の本でも眺めてみるか。
投稿者 ken : 13:06 | コメント (2) | トラックバック
2005年07月08日
ビッグサイト連チャン
2日連続で東京ビッグサイト。デジタルパブリッシングフェアの隣でやってる国際ブックフェアと文具フェアが楽しすぎる。しかし、忙しいときに限って、本当にいろいろ重なるものだ。今日はよく動いてよく働いた。当社比3倍の生産性だ。じゃあ、いつもは何だって話だけど。
投稿者 ken : 23:59 | コメント (0) | トラックバック
2005年07月04日
殺人雑誌
新聞広告でみかけた柳下毅一郎監修の『実録! マーダー・ウォッチャー(2005 summer issue)』(洋泉社)が気になる。広告には、こうある。「目を背けるわけにはいかない。テレビや新聞が伝えない、世界で起こった衝撃と実録の犯罪誌」。どうやら季刊のムックらしい。ルワンダの虐殺やら、アメリカの銃乱射事件やら、いろいろと詳細にレポートされているんだとか。
実は売れてるんじゃないだろうか。アマゾンで検索したら在庫切れ。サブカル猟奇系季刊雑誌、うーん、刷り部数は5000部とか? もっと売れるのかしら。
わざわざネット上の書店巡りをしてオーダーしてしまった。楽天ブックスって会員登録なしで、ふつうの通販グッズのように本が買えるのね。いいかも。
柳下毅一郎って山形浩生の同級生で、マイナーなオカルト小説なんかを翻訳してる人だったような。と、そういうヘンなつながりで、ちょっと内容を信用してみようかという気になった。
どうしよう、1週間ぐらい食べ物が喉を通らなくなったら。いや、ぼくはそんな繊細な人間ではないのだけど。
検索してみたら、柳下さんは特殊翻訳家を名乗っていて、最近は殺人が趣味らしい。もちろん実行じゃなくて、資料集めや調査・研究だとか、そういったこと。『世界殺人ツアー --殺人現場の誘惑』という本が、ちょっとおもしろそうだ。
投稿者 ken : 11:00 | コメント (5) | トラックバック
2005年07月03日
2000年前の落書きと今日のニュース
本村凌二『優雅でみだらなポンペイ――古代ローマ人とグラフィティの世界』がおもしろい。約2000年前、ローマ帝政時代の一地方都市の選挙戦の様子やら、円形闘技場の外で起こったヌケリア人とポンペイ人の乱闘騒ぎというような話を読んでると、今日の国内ニュースの都議選関連と、横浜スタジアムの外で起こった阪神・横浜ファンのけんかにダブったりして。今の日本では剣を抜いて相手の腕を切り落としたりはしないけど、やってることは同じようなもんやんか。
ローマ時代の投票率ってどのぐらいだったのだろうか。
投稿者 ken : 23:42 | コメント (0) | トラックバック
2005年07月02日
ナマ森田君
土曜日だというのに彼女が早起きして、バタバタとでかける準備をしているので何かと思ったら、バーゲンだとか。かいがいしく「うーん、食べるものないけど、お茶飲む?」などと、こちらの様子をうかがってくる。ダンナをほったらかして女友達と出かけることに、多少の罪悪感でも感じてるらしかった。
ぼくはといえば、「よし、1日じゅうジャグリングやるか」と、もうやる気満々。お昼過ぎにジャグラーが集う代々木公園へ行って夕方までまったりと練習して、夕方から夜にかけては東大駒場のマラバリスタの練習に参加というフルコース。4、5時間も投げると、けっこう疲れるものだけど、今日は「あの森田君」がマラバリの練習に参加していたので、ぼくはもう見とれるばかりで自分の練習は全然という感じだった。
日本ジャグリング界の期待の星のひとり、森田君のジャグリングは、噂どおり激しかった。まるっきり別次元。ぼくと別次元なのは当然としても、マラバリの上級生たちのジャグリングと比べても、同じことをやってると思えないほどの激しいレベルの高さ。圧倒されるとか、ホレボレするとか、そんなのじゃなくて、笑ってしまうというぐらい凄かった。動きが美しい(けど、なぜかザンバラ頭)。動きが速くて正確(でも、なぜか靴を履かない人らしい。やや落ち武者のような風貌)。ちょっと練習を休んでいるときに近寄って話を聞いてみたら、噂どおり謙虚を絵に描いたような人柄だったけど、言葉の端々に、うちに秘めた負けん気と情熱のようなものが感じられた。来年の世界大会は出るらしい。「出るからには勝ちたいですよね」と爽やかに笑っていた。
投稿者 ken : 20:37 | コメント (0) | トラックバック
2005年07月01日
7月になった
最近Firefoxを使ってて気づかなかったけど、ぼくのこのブログ、IEやOperaだと右のカレンダーとかがある欄のレイアウトが崩れてしまっているじゃないか。どうでもいいといえば、どうでもいいけど。
7月だなぁ。Julyだなぁ。
7.1.05と書くと日本人には何じゃそりゃ、なんだけど、イスラエルでは、2005/7/1をそう表記するらしい。年が頭に来る表記では年が当然上位概念としてとらえられているのがわかるけど、末尾に付け足すのってどういう感じなんだろう。7.1. of 2005なのか。どっちにしても、大切なのは、あくまで7.1のほうということだろうか。名字と名前の順序が日本をはじめとするアジアでは、西欧諸国と逆だけど、何か関係があるんだろうか。って関係あるわけないけど、でも、対象のとらえ方、分類の仕方の違いが順序に現われるという同じ現象なのだから、なにか通じる原理がありそうにも思える。
ずっと1年近く目標にしてきたジャグリングの5ボールカスケードで100キャッチを超えたので、rec.jugglingという世界中のジャグラー(主に英米なので全然世界じゃないけど)が集うネットの掲示板で「やったよ」という報告をした。それで伸びを示すグラフのURL(http://d-code.org/images/5cascade.png)を入れておいた。そのグラフを見た人々のなかには、意味は問題なく了解するだろうけど、「2005/07/01」のような表記に面食らう人もいたのだろうなぁと、想像していた。
アメリカに限らず、いまだにJulyだのJuilletだのJulioだの言ってる西欧諸国だけど、数字で月をとらえず、個々に名前で呼んでいるのって、要するにかつて日本人が皐月、水無月、睦月、文月だの言ってたのと同じことじゃないのか。グローバリゼーションを主導する国が尺だの文月だの言ってるよーなもんで、いかにアメリカ人の言うグローバリゼーションが利己的な覇権主義でしかないかがわかる(ウソ)。いやグローバリゼーションは是、だと思ってるけど。
Julyの語源ってジュリアス・シーザーだから、日本で言えば「源氏月」ぐらいか。カンベンしてくれよ。だいたい、Sept-、Oct-、Nov-、Dec-って、それぞれ7、8、9、10の接頭辞だから、2ヶ月ずつずれている。ずれた理由が太陰暦から太陽暦に移行したことによるっていう、いったいそれはいつの時代の話ですかというほど大昔のもの。いい加減にしてくれよ、と思う。
コミュニケーション上の実利だけを優先して、独自の文化を捨てるのか、捨てさせるのかっていうセンチメンタルな議論もあるけど、尺貫法を捨てて、それで日本人は日本の文化を捨てたってわけじゃないんだし、月の呼び方ぐらい合わせようぜ、とアメリカ人に言いたい。「肉の値段がキログラムじゃわかんないわっ! あたしたちはポンドでいいの、ほっといて!」とかいうイギリス人も何とかしてくれ。
そんなことより、ネット上の情報に日付を書かない人が多くてうんざりする。年号も入れてくれよーと、よく思う。 。