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2005年12月27日

ジョークは4次のメタ表示に埋め込んだ矛盾

ニール・スミス著、今井邦彦訳『ことばから心をみる――言語学をめぐる二十話』(2003、岩波書店)

翻訳や注釈がひどくて、とても読みづらい本。もともと言語学徒か言語学を目指す学生に向けて書かれたエッセイという感じだから内輪ネタや専門的すぎる話も多い。というマイナス面は気になるけど、反面、ふと手にとった部数2000部の業界紙のコラムを読むようで、おもしろい。実際この本、刷り部数は2000部ぐらいじゃないかしら。

20の言語を操るサヴァン症候群の患者、クリストファーの研究に興味をもって買ったようなものだけど、著者が引き出す結論は、とても刺激的。いわく、クリストファーは確かに語彙を覚えたり、不規則変化する動詞を覚えたりするのには天才的な能力を発揮して、うらやましいほどの容易さで次々と言語をマスターするという。ところが、形態論的な言語習得はできても、統語論的な言語運用となるとかなり怪しくて、結局のところ英語の文法を使って他言語の語彙を当てはめるという、ふつうに誰もがやる間違いを犯すという。というところから、言語処理は脳内にある複数のモジュールによって行なわれていることがわかる。これは第一言語の獲得は普遍文法のパラメーター調整によって行なわれ、それが臨界期を過ぎると固定されるというチョムスキーの理論をサポートするという。

こうしたモジュールによる機能分担を「乖離」と呼ぶらしい。言われてみればなるほどだけど、第二言語習得の「訛り」も乖離を示すという。14、5歳ごろから第二言語を習得すると、ネイティブ並みに言語を運用できるようにはなっても、発音に訛りだけは残るのがふつう。これは、発音と文法獲得の臨界期が異なることの証で、これも言語処理がモジュール化されていることの強い証拠となる。

言語障害だけじゃなく、高次の認知障害をもつ患者の研究も興味深い。キャプグラ妄想、ウィリアムズ症候群、自閉症、失語症など、これらはすべて特定のモジュールに遺伝的、あるいは後天的ダメージを受けて起こる疾患だというのは、すごく説得力があって、そこから導かれる仮説もとてもおもしろい。

自閉症患者が「相手が自分と同じように、独自の考えをもっている」という“心の理論”を欠いた人々だというのは知らなかった。外界-他者-自己という、健常者がもっている対立構造がわからないという。他者に心が存在するということがわからないから、「自閉症」というのか。「「「この人はこう思っている」とぼくは思ってる」と、この人は推測するだろう」というように、相手の心を忖度するというのは、実は単に相手の考えを読むばかりじゃなくて、それを反映した自分の心、さらにそれを読み取る相手、さらにそれを……、という入れ子構造になっている。健常者が瞬時に行なっている、こういう合わせ鏡的な暗黙のコミュニケーションが、自閉症患者や3歳児にはできない。

4歳児はごっこ遊びをして、誰それの「ふり」ができる。これはつまり相手に心があって、「自分が医者のフリをすれば、この人はぼくを医者と思うはず」と考えるからで、これは実はけっこう高度な、人間やチンパンジーにしかできないことと言われている。ニホンザルにはできない。自閉症患者にはできない。

3歳児が「サリーとアン」テストに合格しないのは知っていたけど、自閉症患者も同じらしい。サリーとアンの人形を使った実験で、サリーとアンが二人とも同じ部屋にいて見守っているなかで、実験者が鍵を場所Xに隠す。その後、アンは部屋から出され、鍵は別の場所Yに隠される。ここでアンが部屋に戻ってくる。ここで被験者に質問をする。「アンは鍵がどこにあると思うか、サリーに聞くとなんと答えるでしょうか」。すると、健常者ならXと答えるところ、3歳児も自閉症患者もYだと答える。

相手の心が自分の心に想起され、それがさらに相手の心に……、という入れ子構造の話でおもしろかったのが、ジョークの解析。「見えざる世界が存在することは間違いない。ただ問題はそれが市の中心からどのくらい離れているか、何時まで空いてるか、だ」というウッディー・アレンのジョークはなぜおもしろいのか、あるいはおもしろいジョークに必須の条件とは何かを、著者はいくつかの研究成果をひいて説明している。ジョークに必須なのは、ひとつは前後の命題間の不調和、もうひとつは少なくとも4重の入れ子構造の外層に矛盾した命題を含むこと、になるらしい。

このn次のメタ表示に関して、実は成人健常者でも個人間に差があるのじゃないかということが、前々から気になっている。こいつは自分の発言をオレがこう受け取る―とこいつは予想している―けど、実はオレはこうだと思ってる―という食い違いを、こいつは想定している―とオレには思えないというような場面がある。反面、端で見ている第三者が、さらに1次上のメタ表示で「こいつわかってないね」と一瞬の目配せを送ってきて、そこではちゃんと合わせ鏡が平行になる感じがあったりする。うまく書けないけど、入れ子構造が共有できていないなと思えるとき、コミュニケーションが急に重たく感じられる。

文化的な差異もあるように思う。アジア人と話していて、どこかホッとするのは、この入れ子階層の数が一致しているからで、アメリカ人と話していて違和感を感じるのは、アメリカ人には入れ子の階層が浅い人が多いように感じているからじゃないかと思ったことがある。言わずもがなの暗黙のコミュニケーションというのは、相手の心の読み合いだけど、相手の心を読む段数が一般的に言えばアメリカ人は日本人より少ないと思う。うーん、いや、読み合う流儀が異なると、瞬時に構成されるはずの入れ子構造が立ち上がらないということかもしれない。

言語と色の関係、共感覚を論じたエッセイや、類人猿は言語能力にかかわる論争で「証拠なし」とズバッと言い切るエッセイもおもしろい。言語の指示機能とモノの存在にまつわる哲学的な考察や、そこにある素朴な言語観の誤りを指摘するようなエッセイも、門外漢にはおもしろい。

共感覚が科学的に確かめられたもので、一貫性や再現性があるというのは初めて知った。ランボーの母音の色に関する詩は、単に茶目っ気だと思っていた。確かに「あ」は赤いとか、「う」は青い、「え」は茶色、というように、ぼくにも音(字)と色の結びつき、数字と色の結びつきが感じられることはあるけど、そういうのは単に思いこみの産物だと思っていた。共感覚を語るヤツらって、胡散臭いから。

ストループ効果の実験なんかを自分でやってみると、色と言語が何らかの干渉を起こすと信じないわけにはいかない。

色と言語で言うと、もうひとつ驚いた事実。日本語の色の基本語彙は「赤白黒」の3色で、明るい(ak)、暗い(kr)などの語彙も赤黒の対立から生まれた形容詞という話になっている。で、こうした基本色は文化間で数は異なるのだけど、なんとそこには一貫した法則があるという。白と黒しかない言語はあっても、白と赤という言語はなく、3つの色彩語彙がある言語には、必ず赤が含まれる、とか。色が4つなら、緑か黄色が追加され、その次には必ず緑か黄色の他方、そして青というように階層性がある。言語による光の周波数の範囲指定って、きわめて恣意性が高くて、言語間を貫いて構造や説明原理はほとんどないのかと思っていたけど、そんなことなかったんだ。

投稿者 ken : 2005年12月27日 23:00

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