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2006年03月31日
UFOはなぜ墜ちたのか
木原善彦『UFOとポストモダン』(平凡社新書、2006)
米国を情報発信の中心としたUFO神話の変遷から、社会状況や大衆の心理の変化を読み解く試み。UFO史に残る目撃事件や文書、レポートを取り上げていて、それはそれでおもしろいのだけど、その背後にある社会心理の分析が分かりやすいポストモダン思想の入門のようになっていてグッド。説得力もある。
すこぶるおもしろいので、タイトルのまずさが気になった。正しく内容を表していて情報としては過不足がないけど、これでは売れないんじゃないのか。「UFOはなぜ墜ちたのか」とか「なぜ宇宙人はグレーだったのか」とか「UFOはなぜ消えたのか」、そういうのが流行のタイトルだろうし、手に取ってもらえるタイトルじゃないかと思う。
1938年のラジオ放送「宇宙戦争」で起こった有名なパニック事件というようなものがありはするものの、UFO神話には、ほぼ明確なはじまりがある。UFOを目撃したとされる1947年のケネス・アーノルド事件がそれで、これは当時極秘の計画だったプロジェクト・モーガルという連結気球の誤認だったことが、後に確認されている。ソ連の核実験を探知するために高く上げられた縦に連なった巨大な気球だったらしい。
その飛び方を「皿が水切りするような(flew like a saucer would if you skipped it across the water, flat like a pie pan)」と形容したところから、その目撃談を聞いた記者が「flying saucer(空飛ぶ円盤)」と誤って大々的に新聞で伝えたところから、空飛ぶ円盤は生まれた。
この事件を嚆矢としてUFOの目撃談が続くなか、コンタクティと呼ばれる、異星人と交信する人々が現われる。
著者はUFO神話を3つの時期に分ける。最初にUFO目撃談が大々的に報じられたケネス・アーノルド事件から、ぱたっとUFO目撃談が途絶えるまでの1947年から1973年を「UFO神話前期」とする。このころの異星人は、
- 人類よりはるかに進んだ超文明からやってきて、非常に高度な技術をもつ
- 白人、金髪で善良
- 核戦争の危機を免れて、人類に警鐘を鳴らすためにやってきた
というもの。続く1973年から1995年までは、UFO目撃談はほとんど見られなくなる。かわって、異星人に誘拐されて脳にチップを埋め込まれるアブダクションや、牛などの家畜が屠殺されるミューティレーションが話題になる時代で、これを著者は「UFO神話後期」と分類する。このころのUFO神話は、
- 人間を家畜のように扱う悪玉エイリアン
- 古文書や歴史的遺物に異星人の証拠を求める(1968年の『未来の記憶』や1995年の『神々の指紋』)
- メディアの網目に埋め込まれた情報や偽造文書がUFO神話を支えるようになり、目撃談や事実から神話が浮遊しはじめる(UFO神話の文書化)
今でもテレビドラマの題材にさえなっているUFO墜落事件、ロズウェル事件もこの時期に起こっている。ロズウェル事件が象徴的なのは、墜落したUFOの遺物を回収したと発表した軍の情報を報じた翌日に、同じ新聞の1面で「気象用観測装置でUFOではなかった」と誤報であることが伝えられたにもかかわらず、訂正情報は伝播せずに第一報だけが一人歩きしてしまうという、現実からの乖離が起こったこと。
UFOを科学的に研究する価値があるかを調査する政府主導のプロジェクトが立ち上がり、1969年には『コンドン報告』として米政府は公式に空飛ぶ円盤の存在を否定。これが最終的な決定打とはならず、UFO神話は再生産に再生産を重ねて積み上げられていく。
UFO神話と似たような話にバミューダートライアングルもある。大西洋のある海域、バミューダートライアングルと呼ばれる三角地帯では謎の海難事故が多発するという神話。これは、名もないある大学図書館員が丹念に資料を精査して虚構でしかなかったことを明らかにした。明らかにしたにもかかわらず、やはりその後もまことしやかに語りつがれる都市伝説となった。
あるいは、「ロンメル報告書」。報告書ではミューティレーションは、すべて単なる病死などとして否定した。人間業と思えない鋭利な切り口などと言われた家畜の死体を調べてみて、続報で「普通の死」と伝えられても、もはや第一報は取り消せない。
メディアの情報が現実を覆い尽くす。それが後期UFO神話時代の特徴。
言説の組織化は「政府が秘密裏に……」という政府陰謀説と結びつき、さらに増殖する。そこにある強迫的な衝動を、著者は「合理性の非合理」と呼ぶ。
陰謀論者は起きている出来事のすべてに偶然性や非合理性を認めず、すべてをたくらんだ誰かをイメージします。しかし、ここにあるのはただの非合理で断片的な信念ではなく、むしろ逆に、偶然を含めたすべての出来事を合理的に説明しようとする強迫的な衝動です。つまり、陰謀論もまた、非合理なまでの合理が生んだ「合理性の非合理性」の極致なのです。
前期後期のUFO神話は、それぞれの時代の社会不安を色濃く映し出している。前期UFO神話の時代とは、ハーバーマスの言う近代のプロジェクトに対する楽観が、2度の大戦やホロコースト、原爆といったカタストロフィックな体験を通じて崩れ去っていくさまを反映している。ヨーロッパの背中を見て走ることもできない、先端を走らざるを得ない米国の不安が、そこにはあったという。
アメリカ自身には近未来図を提供してくれる存在が欠けていました。もちろん、科学技術に裏付けられた近代のプロジェクトが描く青写真はあったのですが、近代のプロジェクトに対する不信という事態が生じたことで、そこに描かれた未来と現在との間に微妙なひびが入っていました。そのひびから偶然垣間見えたのが天空の光点だったのです。それは、核に代表される新しい超科学技術と疑似科学的超科学技術とのはざま見えた光でした。
第三次世界大戦や最終核戦争といったものは、ぼくが子どもの頃にはよく喧伝されていた。核は、人類にはコントロール不能な不気味な存在として人々の脳裏に焼き付いていた。だから、超銀河文明からやってくる異星人たちは、人類をより高い存在へと導く、先導者としてイメージされた。ラエリアンムーブメントという生き残りもある「UFO教」の多くは、異星人を究極の技術文明の体現者としてあがめている。そこには、神→近代技術文明→異星人という尊崇対象の変遷がある。
前期UFO神話は1973年ごろに目撃談の激減という事態で終焉を迎える。ここから著者は、近代への不信、このまま近代を推し進めるのか、それとも立ち止まって考え直すべきなのかという岐路に立ったときに「大衆文化が与えた答えは、近代のプロジェクトの放棄ではないか」と捉える。このまま科学が発展し、社会は豊かなユートピアになるとギリギリ信じていた時代は終わった。
前期から後期UFO神話の時代に移るとともに、恐怖する対象も変わっていく。たとえば1960年代のアメリカで知的発達障害者を肝炎ウィルスに故意に感染させる実験があり、社会的スキャンダルとして発覚した。そうした人体実験スキャンダルがいくつかあり、その社会不安は「人間を家畜のように扱うエイリアンの視点と重なる」という。1968年にG・R・テイラーが書いた『生物学的時限爆弾』という本が象徴しているように、信用のならない「怖い科学」は核物理から生物科学へと変わったという。
生物科学への不信は、やがて環境ホルモンへと連なる一連の遺伝子系の都市伝説を生み出していく。こういうのも含め、人々の関心や不安の対象が外宇宙から内宇宙に向かい始めたという指摘。ミューティレーションは埋め込み不安や、内面に異質なものを感じていた人々の不安を映し出している。
フーコーの言う刑務所の監視システム「パノプティコン」の話がおもしろい。フーコーの『監獄の誕生』はいまだに読んだことがないけど、いろいろと読みかじった限りでは、フーコーの指摘は、外部権力による統制が、近代では規律の内面化という形で自発的な自己監視によって取って代わられたということらしい。監獄の監視塔(パノプティコン)にいる監視者は囚人からは見えないけど、監視者側から囚人たちは一望のもとに見わたせる。このパノプティコンに相当する「自己モニター」を組み込んできたのが主体が近代人にほかならない。ところが、情報化社会が高度化すると、その主体というものの境界線が曖昧になってくる。年齢、性別、国籍、職種、年収、家族構成といったふうに個人は断片的なデータの寄せ集めになる。アイデンティティーは外部からモニターされ、データベース上で分散管理されるようになる。カード社会では追跡可能な(しかし誰かが誰かを追跡しているわけでもない)購入データ履歴がすべて残る。こうして、超パノプティコンと呼ぶべきシステムが登場する。各個人をデータベース化し、可能な行動の選択肢を管理しているのが現代社会。この超パノプティコンへの違和感は、いまでも多くの人々が感じ取っていて、それが個人情報に対する過剰な反応になって現われているんだろう。
もうひとつ人間の内面、自我の統一性を脅かすのは無意識の存在。自己の言動を統合的にコントロールできると想定されていたのが近代的自我。そこからはみ出す部分にスポットライトがあたり、それを示す実例、見世物的なパフォーマンスとして学術的な装いをまとったショーが登場した。それが多重人格ブーム。
後期UFO神話で現実から遊離した言説は、1995年以降のポストUFO神話では、さらに次の段階へと進む。言説が現実を反映しないばかりでなく、虚構が現実を塗り替える時代となる。それはたとえば、アポロ計画による月面着陸はなかったというような言説で、これは虚構が限界まで達した後の、現実の虚構化、倒錯的なハイパーリアル化だという。
さらにゾッとするのは、『華氏911』は薄められた陰謀論だという指摘。「カルト的な陰謀史観と現実の政治的状況が地続きとなったことを示している」と著者は言う。確かに、華氏911には、頭の悪い人たちの陰謀論と笑い飛ばすこともできないし、かといって政治的リアリティもあまり感じられないという中途ハンパなものを感じる。
1995年以降のポストUFO神話の時代には、身の回りのあらゆるものが「エイリアン(異質なもの)」となっていく。Y2K問題の大騒ぎは、実際のリスクを計算した騒ぎだったというよりも、もはや神話と呼べるものだったと著者は指摘する。UFO神話の題材は、人称をともなった「彼ら」から非人称である「それら」へと移り変わっていく。環境ホルモンやビデオテープの世界にのみ生きると言うスカイフィッシュなど。
ハイパーリアル化に関する、興味深い例が2つ。
サブリミナル効果という都市伝説。研究が進むにつれ、アカデミックな世界では、初期の報告の信憑性がますます疑わしくなっているのに、政府が公的に禁止令を出したことで、いまだに広告業界では真実として語られている。
アメリカでは半分以上の水道水にフッ素混入されている。きっかけはマンハッタン計画で、核燃料の処理工場から排泄されるフッ素が安全だと証明するために微量のフッ素を混ぜたところから始まった。今では陰謀論説は消えて、いつの間にか虫歯予防という全然関係のない都市伝説となって残っている。今では日本やヨーロッパの歯科医までもが「水道水にフッ素を」と唱道するまでになっている。虚構が現実を動かす、ハイパーリアル化。
プリオンにしろ環境ホルモンにせよ、あるいは人類月面未着陸説にせよ、人々がこれらの問題を論じるときのフレームが、ポストUFO神話の時代には、それまでとは大きく変わっている。アームストロングが月面を歩いたかどうかは事実かどうかという問題であるはずなのに、いつの間にか信念の問題にすり替わってしまった。まずある事実があって、それに関する調査や議論があって、専門家の意見が形成されるというのではなく、いまや個々人に信念があって、それらの意見をサポートする専門家がいて、多数の「事実」が併存しているような状況になっている。
UFO神話の3期の分類が、日本社会を論じた大澤正幸の分類と対応している。大澤は、連合赤軍までの1972年を理想の時代(理想との対比で現実を捉える)、サリン事件までの1995年を虚構の時代(虚構との対比で現実を捉える)、そして1995年以降を不可能性の時代(現実を体験できない)とした。
いつものことだけど、読後感想というより、できの悪いまとめノートになってしまった。
UFOの墜落は、近代のプロジェクトに突きつけた「ノー」だったという解釈は妥当だと思うけど、ぼくは、その大衆の感情的判断に「ノー」を突き返したい。楽観していいとは誰も思わないだろうけど、今の段階で近代化を否定するなんて愚かにもほどがあるというものじゃないか。もうひとつ、ハイパーリアル化とか言うポモ用語を使って言い訳してはいけないんじゃないか。オカルトはオカルトして、寝言は寝言として排除しないでどうする。人類が月へ行ってない、そう思うのは自分の勝手だなどという人間たちには放射能たっぷりの月の石でも食わせてやれ。
投稿者 ken : 11:25 | コメント (1) | トラックバック
2006年03月30日
孔子の電波
マックス・ウェーバー『社会主義』(講談社、浜島朗訳、1980)
1918年、老境に入ったウェーバーが、ウィーンでオーストリア将校団の聴衆の前で行なった社会主義批判の講演。
経済政策の決定や、生産組織の設計・経営といったことは、お金持ちが名誉職としてやるか、高給取りの専門家がやるかのどちらかしかなく、近代的な社会・経済システムは必然的に官僚制度を生み出す。長期間の訓練を受けた専門家でないと、もはや細分化され高度化された個々の生産に関する十分な判断能力をもちえないから。ウェーバーはそう言って、官僚制論を軸に社会主義を批判する。
生産手段の私的独占を禁止して、それで国が生産手段を所有したとしても、そこにいるのは官僚であり国家であって、結局、労働者は浮かばれない。経営者相手にストはできるが、国家に対してはストはできないから、むしろ悪い。
資本主義は歴史的必然として崩壊に到るとする3つの資本主義批判、窮乏論、恐慌論、二極化論は、どれもぜんぜん当たってない。
いまとなっては、どれも歴史が証明してしまったことかもしれないけど、1918年の段階では、意味のある批判だったんだろうか。解説によると、所有と経営の分離を説くバーナム流の経営論、テクノストラクチャの優位性を説くガルブレイスの見解、資本主義と社会主義の両方が高度産業社会として接近していくのだとする収斂理論、理論的知識の優位とテクノクラートの支配を予見するダニエル・ベルの脱工業社会論などの主張と軌を一にするもの、なんだとか。ふーん。
浅野裕一『諸子百家』(講談社、2004)
近年新たに出土したという竹簡も使い、老子、荘子、楊朱、孔子、孟子、墨子、恵施、公孫龍、鄒衍、孫子、韓非子という11人の思想家を、彼らが生きた時代とともに描き出す。「彼ら」といっても、実在した1人の人間であったケースばかりではないし、かなり実像と違って日本に伝わっているような場合もあるらしい。温故知新とうそぶきながら、実は田舎モノで儀式の執り行い方なぞ知りもしなかった孔子の電波っぷりにビックリ。乱世を終わらせるには古代の王朝の儀礼を取り戻せばいい、という原因と結果が転倒したような主張も、言われてみればなるほどヘンだ。というか、孔子はかなり山っ気のある変人だったというわけか。そんな変人のタワゴトが、日本で、なぜありがたがられたかについての経緯がおもしろい。
絶対的な価値判断などないのだと喝破する恵施の考えに、ちょっと共感。あるいは孫子の兵法にも人間洞察の深さや、戦争という暴力に冷徹な計算を持ち込んだクールさで感心するところはあるけど、どの思想家の思想も、まあ、そんな思想が流行した時代もあったのねというぐらいの話で、歴史的意義以上のものはなさそう。
易性革命というのは、古代中国からの伝統だと思っていたけど、場合によっては臣下が主君を弑逆しても良いのだとハッキリ言ったのは孟子が最初らしい。
宮崎市定『隋の煬帝』(中公文庫、1987)
骨肉の争いというより、肉親や兄弟間の殺し合いや裏切りがあたりまえという、何とも恐ろしい南北朝時代の末期に登場した暗愚な暴君の生涯を、前後の歴史を含めた時代背景とともに描いた楽しい読み物。読みやすく、きわめておもしろい。宮崎先生の本は、ほかに2冊買ってどこかに眠っているはずなので、期待がふくらむ。
投稿者 ken : 11:41 | コメント (0) | トラックバック
2006年03月22日
瞬間最大視聴率56?
ノンビリと散歩したり、夫婦そろって博物館で宇宙線を眺めていた時間帯、世間は野球のことで大騒ぎだったらしい。後からネット上のニュースサイトで知った。アメリカの超大国的エゴむき出しの誤審騒ぎは知っていたけど、瞬間視聴率56%となるほど日本じゅうが沸き立っていたとは。浮世離れはいまに始まったコトじゃないけど。
どうしてもWindowsにガマンならなくなって、一度は消したcoLinuxを入れ直した。今度はちゃんと設定しよう。Gentooにしようかと思ったけど、いちいちノートPCでコンパイルなんてしてられないので、やっぱりDebian。
投稿者 ken : 23:50 | コメント (0) | トラックバック
2006年03月21日
国立科学博物館
上野の国立科学博物館へ。特別展でやっていたナスカ展は、1400円とやけに高いし、イマイチ見る気にならず、常設展だけ見てみることに。常設展は概して子ども向け。科学雑誌ニュートンの立体版といったところ。最新の知見を紹介するというより、理科の教科書的な話ばかりなので、ちょっと期待はずれ。考えてみたら、仕事でナノテク展などといったものを取材しているぼくは、ふだんから最新技術の博物館巡りをさせてもらっているようなものだ。
1つだけ感動したのが宇宙線観測のための霧箱の展示。
宇宙線が突き抜けるときに、その軌跡がスーッと白い糸のように現れて、すぐに文字通り“霧消”する。アルコールを蒸発させて帯電した微小粒子を箱の中に浮遊させておき、そこに電極をかけるかなんかして霧が上から下に流れるようにしておいただけの装置。そこを宇宙から降り注ぐ荷電粒子が通過すると、その軌跡に沿って粒子が引き寄せられて白い糸がふわっと現われる。地下2階でも建物や人体を貫通して、実際に宇宙線が降り注いでいるんだなってことが目の前で見て分かる。こんなに簡単に見えるものだとは思わなかった。
最上階での展示も、ちょっと良かった。前々から読んでみたいと思っていた江戸時代の百科事典、『和漢三才図会』の実物とか、杉田玄白の『解体新書』の展示が興味深い。ちょっとぐらいページを繰ってみたかった……。電子を使わない、歯車と稼働部品の組み合わせによる機械式“計算機”関係の展示もおもしろい。9元連立方程式を解くことができたという1944年製の機械は、出来損ないのパイプオルガンのようにも見えた。詳しい解説がなかったので仕組みはサッパリ分からなかったけど、1本1本の筒がアルゴリズムそのものを体現しているんだということは分かる。そのむき出しのアルゴリズムに、近代的なブラックボックスのコンピュータよりも、かえって人間の知恵そのものを感じる。潮の満ち引きの水位予報のために気象庁が1930年から1960年まで使っていたという“ケルビン式潮候推算機”は、複数の滑車を組み合わせてサイン関数の合成をやってのける。よく分からないけど、なんかすごいアイデアだ。
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人力で1アンペアの電流を発生中。 |
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宇宙線の軌跡を観測できる霧箱。秒間10~20本程度、白い糸がスーッと現われては消える。 |
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化石の多くはレプリカ。まあ、そんなもんなのか。 |
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インテリアによさげな植物の化石。動物が陸上にあがってからは裸子植物は被子植物に負け始めるという話だっけ。 |
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おお、イデオロギー性が感じられる展示。博物館って教育機関だし、洗脳機関でもあるわけだ。 |
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江戸時代の万年暦時計。そういえば、“一刻(いっとき)”というのは昼夜をそれぞれ6等分した時間のこと。ということは、夏と冬では一刻の長さが違うのか。知らなかった。 |
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江戸時代の百科事典『和漢三才図絵』。これ、いま電子書籍版で販売されていて、いつも購入ボタンをクリックしそうなところまで行くんだけど……。 |
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零戦の模型。かなり精巧に出来ている。外国人2人が、すごくマニアックな議論を戦わせていた……。そばに、後の東大工学部となる、日本初の工学系の教育機関の紹介があった。日本が近代化、工業化を進めた時代のエリートたちの、ノート、論文、設計図などを多数展示。 |
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9元連立方程式を解くことができたという1944年製の計算機。アルゴリズムの概説ぐらいは展示してほしい。 |
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潮の満ち引きの水位を予測するための、計算機。気象庁では1960年まで現役として使っていたというから驚き。滑車が滑らかに上下する様子を見てみたかった。 |
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むかしの人が考える「コンピュータ」って、こんな感じだ。バビル2世が使っていたのは、これの親玉。えーと、これは何だっけ……。 |
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不忍池の向こう側に見えている、このヘンチクリンな建物は何? |
投稿者 ken : 23:45 | コメント (3) | トラックバック
2006年03月20日
ロースクール
約1年ぶりに会うケンタロウと飯田橋の居酒屋へ。日々、睡眠が足りなくなるほど激しく勉強しているらしい。ロースクールに入れば、もはや法曹界の入り口に立ったも同然という感じかと思ったけど、そんなに甘いものではないらしい。
法律の話はなかなか楽しい。
投稿者 ken : 23:23 | コメント (0) | トラックバック
2006年03月18日
ローリーズカット
代々木公園でたっぷりジャグリング練習をしたあと、妻と待ち合わせて溜池へ。マイクの誘いでステーキハウス、ローリーズへ。マイクが新しい恋人を連れてきた。
ローリーズは、内装も店の雰囲気も、きわめてアメリカン。サラダの作り方、ステーキのもってきかた、食後酒の案内、どれもアメリカン。唯一、オードブルの海鮮盛り合わせの量だけがジャパニーズ。エビが2匹って少ないよ……。
ワゴンに入った焼きたてリブステーキを「カーバー」が好きなサイズに切ってくれる。一瞬聞きまちがえたかと思って「カーバーですか?」と聞いたら、カーバーだと言った。そんなところまでアメリカンかよと思っていたら、そのカーバーは中国人だった……。東京ってところは……。
少しだけナパ産のワインを飲み、たっぷり肉を食って、チョコレートケーキまで食べてお腹いっぱい。
投稿者 ken : 23:31 | コメント (1) | トラックバック
2006年03月16日
司法試験クイズ
司法試験クイズがちょっとおもしろい。マルバツ選択方式なら、民法あたりは割と常識で正解できる。「善管注意義務」とか聞き慣れない法律用語もあるけど、文脈から何となく意味を推測できる。
20問中10問ぐらいまで続けて正解して気を良くしていたら、常識に反するようなビックリする問題が次々と出てきた。解説で条文や判例を読むと、それなりに納得できたりして感心。法律って良くできてる。
やや引っかけっぽいけど、たとえばこんな問題。
X男はY女と婚姻する意思はなかったが、Y女はX男の署名欄にX男の氏名を記入しX男の印を押して婚姻届を市役所に提出した。この場合、X男はこの婚姻を取り消すことがで きる。
なんと正解は「取り消せない」。なんでやねーん、そんな無体な……と思って解説をみたら、婚姻の取消事由は法に規定がある以外はできないということ。じゃあ、こんな場合の正義はどうなるんだと思ったら、正解は「人違その他の理由によって当事者間に婚姻をする意思がないとき」(742条1号)にあたり、そもそも婚姻関係が成立しておらず、無効だということ。
うーん、注意深く読めば「婚姻届を提出した」としか書かれていなくて婚姻が成立したとは言ってない。でもなぁ、「取り消せるか?」と問いかけるためには婚姻関係の成立を暗黙の小前提として必要としているんだから、ある意味これは問題文自体に間違いが含まれている。こういう出題形式って、引っかけっぽくて良くないと思う。これはクイズだから? それとも実際の短答試験でもこんなものなんだろうか。
Xが死亡し、X所有の不動産をBCが共同相続したが、Bが相続を放棄したため、Cが同不動産の所有権を取得した。Cが登記を移転しないでいるうちにBの債権者DがBの持分 について差押をした場合、CはDに対して所有権の単独所有を対抗できない。
常識的に考えると、CはDに文句を言えなさそう。ところが、答えはまったく反対。いわく、「相続の放棄の効力は絶対的であり、放棄した者への権利移転はまったくなかったものとみなされる(最判昭42.10.20 Sシリーズ5・153頁)」という判例があるんだとか。相続問題は後を引きやすいから、こうなってるんだろうなぁ。
会社法はどんなもんだと思って出題形式として「定義」のところをクリックしたら、いきなり「発起人」の定義を入力せよと来た。マルバツじゃないのか……。「会社を登記した人」と書いたら、ぜんぜんそんなことじゃなかったらしい……。っていうか、考えてみたら、「登記」という言葉の使い方はきわめて不明瞭だ。発起人の定義の模範解答は「会社設立の企画者として定款に署名した者」だそうで、「署名がなければ法律上は発起人として認められず、擬似発起人として責任を問われうる」ということ。ふーん。
法科大学院に通っているはずのケンタロウは元気かしら。ここを見てたらメールでもちょうだいな。
投稿者 ken : 23:28 | コメント (0) | トラックバック
2006年03月15日
人嫌い
isolatr.comが、ちょっといいなと思った。IMやSNSは、急激に人間の距離感を狂わせたんだと思う。IMは歴史が長いぶん、ICQが登場したころとは少し違った間合いの取り方が一般化しているように思う。IMではバディーリスト上の人々にあえて挨拶をせず、ただただ「オンラインとオフラインがときどき変わってるらしい」という情報だけで、相手の消息を知るような、そのぐらいの間合いの取り方が一種のマナーとして確立している(と思っているのはぼくだけで、ぼくがlonerなだけなのか)。SNSはどう変わっていくんだろうか。
「君子の交わりは淡きこと水の如し、小人の交わりは甘きこと甘酒の如し。君子は水を以て親しみ、小人は甘を以て絶つ」「君子は和して同せず、小人は同して和せず」なんてのがある。
投稿者 ken : 23:17 | コメント (0) | トラックバック
2006年03月12日
コンラッド宿泊
妻の後輩の結婚式の二次会で汐留に。ご招待客割引があるということだったので、パーティーのあとはコンラッドホテルに泊まった。眼下には浜離宮、目と鼻の先にレインボーブリッジが見える、眺めのいい部屋。機密性の高い部屋ということもあるかもしれないけど、すごく静かな部屋だった。夜の汐留あたりは、まだ人が少ない。異様にクリーンで人工的な一角。東京と思えない。知らない都市、未来都市にでも旅行に来たような感じ。
投稿者 ken : 23:46 | コメント (0) | トラックバック
2006年03月04日
買い物
新宿へ買い物へ。A店でのジャケット、セーター、シャツ3点のお値段が、U店でのチノパン3本の値段の約7倍。U店の春物ジャケットは見るからに安っぽい。
X店でお好みともんじゃを食べた値段と、K店でコーヒーとケーキを頂いた値段がほぼ同じ。
モノの値段って。
投稿者 ken : 23:24 | コメント (0) | トラックバック
2006年03月01日
私の嫌いな10の人びと
中島義道『私の嫌いな10の人びと』(新潮社、2006)
最近こういう本ばかり手に取ってしまう。心には悪意と憎悪が満ちていて、それを浄化してくれる人が必要なんだな、きっと。毒には毒を。
- 笑顔の絶えない人
- 常に感謝の気持ちを忘れない人
- みんなの喜ぶ顔が見たい人
- いつも前向きに生きている人
- 自分の仕事に「誇り」をもっている人
- 「けじめ」を大切にする人
- 喧嘩が起こるとすぐ止めようとする人
- 物事をはっきり言わない人
- 「おれ、バカだから」と言う人
- 「わが人生に悔いはない」と思っている人
端的に言えば、この人は鈍感な人が嫌いと言ってるだけだ。でも、偽善的、独善的、自己満足的な人々は、不誠実なわけじゃなくて鈍感なのだ。だからそのことを責めても仕方がない。だけど、あまりにも世の中に鈍感な人が多すぎる。
鈍感でない人は、コミュニケーション上、下品な言葉を避ける傾向にあるから、「おまえは愚鈍だ。おまえは偽善者だ。自家撞着と自己欺瞞のカタマリだ」などとは決して言わない。そもそもマシな人たちはボンクラを相手にしない。それで、自分がバカであることに気づかないほど愚鈍な人間は、ますますつけあがる。そういう状況をみて、「おい、誰か何とか言ってやれよ。言わないなら、よーし、オレが言ってやらあ」てなもんで、一定の割合で、こうやって嫌われ者になる人がいるってことなんだろう。
そういうものを読んで、溜飲を下げるぼくのような人間がいる。代わりに嫌われてくれてありがとう、と言いたいけど、そう言った時点でぼくも立派な嫌われ者になってしまう。
こうした価値観から導かれる帰結であるところの常軌を逸した行動様式を、この先生は断固として貫いている。誠実というほかない。「学者はみんな人格破綻者だ」と言ってしまう学者先生らしくて、いいなぁ。