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2006年12月29日

ロウアーミドル

4140016825「明治」という国家〈上〉〈下〉

司馬 遼太郎
日本放送出版協会


晩年の司馬遼太郎が「義務感のように感じて」明治を語った本。何回か連続した講演をまとめた口語文体の本で、読みやすい。語るほうも肩の力が抜けていて、寄り道、雑談いっぱい。ぼくは昔から本論から離れて寄り道してくれる先生が好きだった。司馬氏が語る人物談は本当におもしろい。

日本には明治という時代があったのだと、ある時期の動きを一国の歴史上に位置づけるというよりも、西欧列強に植民地化されてゆくアジア圏の辺境に、きら星のごとく世界史に登場した文明を語っているという感じ。モンゴロイドのある民族が、不格好ながらも自らの意志で独立国家を作り上げたという事実は、日本の歴史上だけで語るような話しではなく、世界史的にも意味のあることだというのが司馬氏のメッセージ。

4121015894階級にとりつかれた人びと――英国ミドル・クラスの生活と意見

新井 潤美
中央公論新社


郊外を意味する英語のsuburbiaには、単にロンドン郊外を意味するだけじゃなく侮蔑的なニュアンスを含んでいるという。日本語の「いなか」という言葉にも、ややネガティブな意味が込められることがあるけど、そういう話ではなく、suburbiaはロンドン郊外に住む、ロウアーミドルと呼ばれる階級の人々の生活様式や習慣を軽蔑して指す言葉。イギリスには中流といってもアッパーミドル、ミドルミドル、ロウアーミドルの区別がある。ロウアーミドルと呼ばれる層がどうやって誕生し、なぜ、どんな風にアッパーミドルからコケにされてきたのかが、よく分かった。ロウアーミドルって、上昇志向はあるんだけど、いかんせん能力も教養も金もなく、上流階級の真似をしてみるんだけど不格好。芸術も分からない。アッパーミドルは、自分達はアッパーではないかもしれないけど、かといってロウアーミドルとは違うのだ、という意識を強くもっていて、そのためにわざわざ劇場でロウアーミドルを笑いものにするような芝居を見たりする。笑われるのはロウアーミドルが実際より背伸びをして気取るからであって、むしろワーキングクラスの人々のほうが好ましいと考えられている。

ジョージ・オーウェルだとかメリーポピンズ、あるいはミスター・ビーンズだとか馴染みのある例で、イギリス人に抜きがたく潜んでいる階級意識をひもとくあたりが、かなりおもしろい。オーウェルには『1984年』を代表とするSF小説の一群と、階級小説とでも言うべき一群の小説があるという。客観的には自らはアッパーミドルの仲間入りをしたけれど、一生かかって、そのことを繰り返し小説で自分に確かめるような物語を書いていたという。上昇志向がある若者が結局は挫折して終わるといった皮肉なストーリーを多く物し、「ロウアーミドルはどうあがいてもロウアーミドル」というイヤな小説を書いたという。自分は抜け出したくせに。

読んでいて思ったけど、いまの日本ってロウアーミドルとアッパーミドルの乖離みたいなのが起こっているんじゃないかと思った。1億総中流といっても、もともと上流の人達はいたし、今でもいる。で、そうじゃなくて本当の中流部分、ここは確かにフラットだったのかもしれない。みんな右肩上がりに給料が上がったし、公立の小中学校のクラスでは親の職業は多種多様だった。

ところがこの階級の区分がクッキリしはじめているように感じる。底辺ホワイトカラーのロウアーミドルと、勝ち組と呼ばれる都市部の高所得者層のアッパーミドル。勝ち組だなんていったって、本当の金持からしたら大した金をもってるでもないし、まして上品ぶったところで上流なんかでもない。高給取りだといっても、せいぜいが会計士、医者、弁護士といった程度の話のミドルクラス。でも、この層の人達は底辺ホワイトカラーとは、明らかにライフスタイルが違って来ているし、差別意識とは言わないまでも、「ロウアーミドルとは違う」という意識を持ち始めているように思う。

投稿者 ken : 23:26 | コメント (1)

2006年12月26日

前後3世代

義理の祖父と祖母が相継いで他界。96歳と95歳と高齢だったから、家族も落ち着いているけど、やはり穴があいたような寂寥感は募る。

死者と向きあうと、いろいろと考えさせられる。祖母のほうとは生前に会ったことはなく、ほとんど知らないままだっただけに「どんな95年だったのだろうか」と断片的な逸話から想像してみる。95歳ともなると、もうほとんどの知己は先だっており、家族以外では、その死を弔うべき人も少ない。そのぐらい長生きすると、肉体より先に、社会的な存在として人は、ひっそりと消えていくということなんだろう。

0歳児の娘は95歳の曾祖母とはすれ違いになってしまった。96歳で逝去した曾祖父とも、ギリギリ生前に1度だけ手を握りあったけど、たぶん2人とも、そのことは分かっていないという状態で、これもすれ違い。

近しい家族が集って、0歳と95歳の間に挟まれていると、4〜6世代ぐらいの長い時間が急にリアルに感じられてきた。0歳の娘が95歳まで生きたとしたら、そのときまた0歳の曾孫と手を握り合うぐらいはできるかもしれない。すると、0歳の娘を中心に見ると、前後3世代までは手を握るぐらいはできる。合計6世代。人類学では1世代は30年で計算するらしいけど、すると180年だ。江戸300年なんて言っても、そんなもんか。

集まった家族はみな、0歳の娘が95歳になる95年後には、すでにあの世。それどころか、95歳になった娘を覚えているのは近しい家族だけになっているはず。ということは、そのころには、いま祖母のために集まった家族の誰一人として、世間の誰にも覚えてもらえていないという世界になっている。曾祖母の上の世代の人ともなると、よほど家系を大事にするお家か、社会的な業績でもない限り、ふつうは何ひとつ知らないもの。

死者を前にして、「いずれはみんな死んで、誰からも忘れられる」という当り前の事実に突き付けられた気がした。今ぼくの知る周囲の人々はほとんど例外なく、100年後には完全に忘れられている。漠然と「昭和の人なんて、想像も付かないね」と括られるに違いない。100年後には人々の記憶から消える。300年もすれば、たぶん名前と生没年程度の痕跡以外は全部消える。人間の生なんて、夏の暑い日に1日だけ池に湧いて消えていく微生物と何も違わない。池には何の影響もないし、湧いても湧かなくても何も変わらない。

そんなことを思う一方、「これは道中の魔除けです」と葬儀屋が棺に小刀を載せたりするのを見て感じる違和感なんてのもある。95歳のおばあちゃんが魔物相手に振り回せるように思えない。いや、そういうことじゃないんだろうけど。

なんでも三途の川を渡る例の「道中」、6箇所で1銭ずつを誰だかに渡す必要があるとかで、6枚の硬貨を棺に入れて一緒に火葬する……、のだけど、それは本来の形で、今は火葬場の施設の関係で、不燃物は棺に入れちゃいけないらしい。だから、1枚の紙ペラに、安っぽいコピーで6枚の古銭が印字されたものを棺に収める。似たような話で「道中楽に行けるように」と願って杖を入れたり、笠を入れたりする。手には手甲をはめ、足には足袋。

確かに今でも死者に対面して気持ちに整理をつける葬儀では、心の中で「さようなら」と誰しもつぶやくだろうし、どこかに旅立つんだという感覚は持っているから、そういう気持ちを表現する儀式はあったほうがいい。でも、どれもこれも江戸グッズというのは、どうなんだろうか。いや、日本語でも英語でも死後の世界の言葉は古語というか擬古文だったりするのと似た話で、そのほうがリアリティがあるということなんだろうか。見たこともない古銭の、それも質の悪いコピーにリアリティも何もないとも思うけど……。

そっか、リアリティがないから「あの世」なのか。500円玉じゃダメだ。「新500円玉は通用するのか?」とか思ってしまうから。こうした儀式に古い文物が残るのは、慣習というのは変化の速度が遅いからとかいう理由じゃなくて、むしろ、そのほうがこの世とあの世の距離を表現できるからに違いない。

ぼくが死んだら棺にはボールを7つ入れてほしい。それだけあれば、たぶん道中は退屈しない。といってるぼくは、90歳ぐらいまでは生きてやろうと思っているけど。

投稿者 ken : 23:23 | コメント (4)

2006年12月23日

ボーダレス化

YouTubeで1つの動画を巡って日米のユーザーが交流したり(例えばこれ)、flickrでは住んでいる大陸の違うアマチュア写真家たちが互いの写真を巡って感想を述べあっていたりしていて、すごい時代になったなと思う。

2、3年前にはすでにSNSのはしりのfriendsterとかorkutがあったけど、そういう場所では、こんなに国境を超えたコミュニケーションはなかった。それどころか言語の違いを巡って、ユーザーグループが対立してたり、遠慮してたりしていた。friendsterはマレーシア人に乗っ取られたし、orkutはブラジル人に乗っ取られ、ポルトガル語だらけになってしまった。それを見たアメリカ人はかなり反感を感じていたように思う。日本人は無理に英語を使ってorkutでは萎縮していた。

YouTubeもflickrも、映像があるから違うんだと思う。映像は言葉を超える力を持ってるなとつくづ感じる。これまでもメールや掲示板では、いくらでもボーダーレスな交流をしていたし、チャットをしている人やビデオチャットをしている人はたくさんいたけど、そういう人は、もともとリアルの世界でも交流していたような人達で、いまYouTubeで「結果的に交流することになった」ような層とはだいぶ違う。

たいへん結構なことだ。グローバリズムまんせい。

投稿者 ken : 11:35 | コメント (4)

2006年12月20日

世界を見る目?

4794214049世界を見る目が変わる50の事実

ジェシカ・ウィリアムズ
草思社


目次には、こんな「事実」が並ぶ。

ぼくは数字好きだから、何かおもしろいと思える統計でもあるかと思って古本屋で買ったけど、どれもこれも、当り前っぽくてツマラン。

この程度の事実の羅列で世界を見る目が変わるのだとしたら、それはナイーブ過ぎると思うんだけど、どうやら著者は真剣なようだ。読者をバカにしていると思う(あるいはバカしか読者として想定していないらしい)。「ほら、先進国のあなたは知らなかったでしょう。私達は特殊な世界に生きているのよ」と得意気に言う感じが、何と言うかホワイトバンド的な頭の悪さ丸出しで、読んでいてイヤになる本だった。当り前のことをウィットのかけらもないレトリックで並べたてて得意になるばかりで、じゃあ、何ができるかという提言がほとんどない。これじゃあ、中学校の優等生の作文だ。

他国の文化的伝統について語るときにも、たぶん著者が気づいていない欧米人特有の自文化至上主義がにじみでているように思えて、そのことでもウンザリ。

目次に50の事実が掲載されていて、そういうのをパッと眺めるのはいいことだと思う。本文を読まなければ、そんなに悪くない本なのかもしれない。

投稿者 ken : 23:04 | コメント (2)

2006年12月18日

夜の写真

カメラ好きは自然の風景や列車なんかを撮る人が多いけど、ぼくには断然、人間を撮るのが楽しい。

それにしても、F1.4というレンズはすごい。夜の街でも、まったくフラッシュなしでガンガン撮れる。ガンガンぴんボケも量産するけど、まあそういうのも雰囲気があっていい。

おーえさん、チンピラくさいぞ。「でもオレ、ふつうよか稼いでるぜ」(本人談)
いい表情だ
深夜の歌舞伎町
うーん、手持ちじゃこんなもん?
露出もひどい、手ぶれもひどい。でも、これはこれでいい
そっか、どうせ被写体ブレすることが分かってるので、こううときは壁にピントを合わせればいいのか
どん底
カメラマンの大橋さんに言わせると「うーん、整いすぎだね」という写真。「露出変えるかホワイトバランス変えるかして世界観出さないと」と言われた。なるほど、さすがプロ!
最近のぼくはネクタイ。勤め先は丸の内だし、まるでサラリーマン
カメラマン大橋氏。暗い店内でもキレイに撮れる
大橋氏の作例。うーん。
大橋氏の作例。ふーん……。
大橋氏の作例。さすがプロ、なんかいい
ぼくの作例。おーえさんは、なかなか写真撮りがいのあるオヤジっぷりだ
これがこの日の最高のショット。笑っちゃいけない。「肺癌? なんだよそれ」というコピーを付けてポスターにしたいな
こんな顔も

投稿者 ken : 23:50 | コメント (2)

2006年12月16日

ムスメの0才?

ムスメの写真を顔の横に持ってきて「これ似てる?」と妻が言う。まあ、ムスメだから似てるよなと一瞬なんと答えるか考えて「うーん」と言ってみた。よくよく見ると、それは現在のムスメの写真じゃなくて、三十数年前の妻が0才のときの写真だった。てっきり、自分のムスメの写真と思い込んでしまうほど似ている。髪の跳ねかたまでソックリ。

上の写真は三十ン年前。下は2006年

投稿者 ken : 11:38 | コメント (3)

2006年12月15日

警察裏物語

4862380077警察裏物語

北芝 健
バジリコ


ちょっと警察が好きになった。

「裏」物語というより警察官の現場話や武勇伝が主体の本。章構成や文章がダラしなさすぎて、本としての体裁をほとんどなしていない。明確なオチのないエピソードも多くて、ブログのような感じ。聞き書き? 編集者は何をやってるんだ……。というマイナス面はあるけど、話の内容自体は結構おもしろい。警察官や刑事の素顔や、現場や取調室での刑事たちの行動や被疑者とのやりとりは、あまり一般に知られていない部分で興味深い。あまりに赤裸々に語る北芝氏の存在を、ひょっとしたら疎ましく思う人も警察組織のなかにはいるんじゃないだろうかという気がするぐらい。そういえば、経歴詐称疑惑がかけられたのは、そういう妬み・怨みを買ってのことだったような気もする。

最近北芝氏はテレビにもよく出ているらしいけど、地上波テレビを週に1度見るか見ないかというぼくにとって、北芝氏と言えばサイゾーの連載の人。とにかくエロくて腕っ節が強くて、ストリートワイズの塊といった印象。その動物的嗅覚で警察官の人間模様や警察組織全体の、上っ面を見ているだけでは目に見えてこないような構図というか見取図をパッと描いて一般人に見せてくれる手際の良さがある。なるほど、刑事ってそんな風に考えて行動する人達なのかとか、キャリアとノンキャリアの微妙な関係だとか人事上の慣例、あるいは警察組織に多い熊本県人たちの話だとか、同じ元警察官といっても、ぼんやりしてるだけの人間だったら、こういう組織の裏の構図は一生かかっても見えて来ないんだろうなと思う。

北芝氏の警察組織や元同胞に対する愛情は深くて、組織が持つ腐った部分を弾劾するのも、それでより良い警察になってほしいという思いがあってこと、というのがよく伝わって来る。だから、この人の苦言はとても爽やかだし、正論が多い。

ひとつ強烈に印象に残った話。東大卒なのにあえて「自分の力を試したい」とノンキャリアで警察官になった人の話。青白きインテリは厳しい現場で、まったく芽が出ないまま組織を去ったという。北芝氏は、人間というのは進むべき道を誤ると能力がある人でもそれを発揮できずに終わるんだなと、しみじみと思ったと書いている。キャリアは経済犯や政治犯を扱う捜査2課。殺人、強盗など凶悪犯を扱う捜査1課の課長というポストは必ずノンキャリアの叩き上げの刑事が抜擢されるらしい。そもそも人種が違うわけだ。

投稿者 ken : 23:07 | コメント (0)

2006年12月12日

マーケティングの神話

4006001355マーケティングの神話

石井 淳蔵
岩波書店


消費者には意識するしないにかかわらず明確なニーズがあって、マーケティングというのは、それを調査・分析し、製品開発に活用すること、という自明のように思えるマーケティングの前提というのは、実はかなり怪しいですよ、というところからスタートする、ちょっと変わったマーケティング入門。

第1章の事例がおもしろい。

例えば花王のアタック。洗濯用洗剤は、ぼくが子どものころには特大コーンフレークかというほど巨大な箱に入っていた。それが1990年代に花王が少量でも洗浄力の高い洗剤を開発し、小型化される。小型洗剤がヒットとなってからは「スーパーで買って持ち帰るときの負担を軽減」だの「家での置き場所が少なくて済む」だの「流通のコストの削減」だのと、あたかもそれが開発の目的であったかのように語られる。ところが消費者というのは、そもそも小型化が可能だなどと思っていないから、小さくしてほしいなどというニーズはなかった。花王にしても、小型化は開発の主眼ではなく、結果でしかなかった。技術開発の面から見ると、小型化には洗浄力を高める酵素の研究開発があったものの、むしろ花王がCMでこだったのは酵素パワーを訴える「白さ」であり、洗浄力だった。

別な例にサンヨーの静御前という洗濯機がある。1987年に登場したとき、時代背景として「家事の夜行化」、「集合住宅における騒音問題」があり、そのために静音化のニーズが消費者にあり、水流の研究を始め、商品化にこぎつけたというようなストーリーが、もっともらしく語られる。でもこれは、この本のタイトルにもなっている「マーケティングの神話」というべきもので、静音などという評価軸が重要だなどとは、消費者はまったく思いもしていなかったし、開発したサンヨー側も認識していなかった。グループインタビューをしても高速洗濯、洗浄力、経済性のどれに重点を置くか決められなかった。

こうした例は消費者に聞き取り調査をしても、そこからニーズを探り出すということには、おのずと限界があり、ヒット商品開発には開発した人々すら気づかなかったような偶然が関係していることを示している。マーケティング関係者が語るもっともらしいストーリーは、後から作ったお話に過ぎないことが多い。

もとの商品の利用目的からは想像もしなかった利用形態が出てくることなども含めて、ヒット商品というのはマーケティングの理論や調査から出てくるほど簡単なものじゃない。1980年代後半に流行したTOTOのシャンプードレッサーは、中高生の朝のシャンプー目的で使われ大ヒットとなった。でも、もともとは若い開発担当者が作った思い付き的な商品で、販売予測は渋かった。据え付けも難しく、工務店も熱心でなかった。つまりTOTO自身も当初は製品の意味を理解していなかった。日本の洗面台の変化を見ると、「洗面台のボールサイズ拡大→水が跳ねなくなる→洗面と歯みがき以外の用途に使いはじめる」という大きな流れがある。さらにこれに三面鏡の衰退という変化もあって、シャワーのついた大きな洗面台は時代の当然の帰結であるかのように後から振り返ると思える。でも実際にTOTOが、「消費者による意味の読みかえ」とも言うべき変化に気づくには製品発売後数年かかったという。

商品開発の現場にインタビューした数々の事例は大変におもしろい。でも、以降の章で展開される理論というか、ヘ理屈が……、なんともできの悪いポストモダン的お話という感じで脱力。ポストモダンで読み解くというからには、文章や修辞のドライブ感とか、お話としての楽しさがないとダメだと思うんだけど、どうも下らない。読んでいて「為にする議論」感が強すぎて辟易。例えば、商品の1次的な利用価値と2次的な利用価値に本質的な違いはないという強弁。著者は入浴剤の例を挙げて、ぷちぷちと音がする属性は、もともと入浴剤にとっては2次的な価値でしかなかったのが、他社製品との差別化要因、競争的価値になっているという。

1次的価値で差がなくなってくると、2次的な競争価値が決まるというのは、学者先生に言われなくても当り前のことで、性能差がなくなったパソコンを消費者がデザインで選んでいるなんていうことは、現場の誰でも知っていること。ビジネスマンにしてみれば常識みたいなことを、くどくどと言うだけならまだしも、1次的価値と2次的価値に本質的に違いはないとまで言われると、もう何が言いたいんだか分からない。いいよな、学者はモノを売って生活してないからなと思ってしまう。マウスカーソルを動かせないマウスとか、温浴効果のない音だけの入浴剤とか、洗浄効果のない洗剤とか、それはもう別ジャンルの商品だろう。1次的価値というのはその商品が成立する必要不可欠の条件。それが2次的価値と本質的に違わないわけがない。言葉遊び、理屈遊びもほどほどにしてくださいよ、と言いたい。そんな遊びから、役立つ方法論や知見が得られるわけでもなし。

というように、学者先生が現代の複雑なモノ・サービス作りの現場を見て、むりやり理論を考えてみましたという現状追認の本に思えてしかたなかった。こんなことなら、むしろ標準的なマーケティング理論の本を読んだほうが良かったかもとすら思った。標準的アプローチが通用しづらくなっているとは言っても、やるのは無駄とまではこの本でも言ってないし。

投稿者 ken : 23:20 | コメント (2)

2006年12月02日

イトコのお兄ちゃん

面倒見のいいイトコのお兄ちゃんに連れられてお散歩。慶応キャンパスにはじめて足を踏み入れた。イチョウが、美しく色づいていた。

投稿者 ken : 23:31 | コメント (2)

2006年12月01日

50mm単焦点とのおつきあい

仕事で持ち歩くときにも50mmの単焦点レンズをカメラに付けるようにしている。もともと手持ちのズームレンズも17-50mmということで、よく考えてみたら仕事で使っているのは50mmのテレ側ばかり。だったら、あまり違いがない。どっちにしろ、今の仕事での用途では、被写体に寄り切れなくてトリミングすることになる。画素数より鮮明さや明るさ命なので、明るいレンズのほうがずっと有利ということもある。ダンゼン軽いし。

仕事の移動中にもガンガンシャッターを押すようにしている。たいていの技能というのは数をこなすことで伸びると信じている。数をこなさないと、そもそも何が課題かすら分からないもの。AEモードの違いやシャッター速度優先のとき、いったい1/10秒、1/20秒の違いがどれほどのものなのか、そういったことは実際にに何度も撮影していくことで感覚的に覚えるしかない。あえて逆光で撮影すると、どういう絵になるかということも、いろいろ実験的に撮ってみるるまでよくわかっていなかった。

「50mmは肉眼で見た視野にもっとも近い」という意味がよくわかった。両目を見開いてファインダーをのぞくと倍率が1倍で、とても見やすい。左目は裸眼、右目はファインダーごしなのに、両目で見ている像が違和感なくつながっていてカメラなしで風景や人物を見ているような感じになる。で、見えている像の一部分に対してフレームがかかっていて、どの部分を自分が切り取ろうとしているのかがよくわかる。逆に久しぶりにズームの広角で17mmをのぞいてみたら、左目と右目が見ているものの大きさがあまりに異なるので、自分がどのあたりを見ているのかが分かりづらい。右目の像だけやたらと小さく見えるのだから当然。

いろいろ撮ってみると、やっぱり「これは50mmでは撮りようがない」と思えるような限界もある。

投稿者 ken : 23:03 | コメント (0)