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2007年04月30日

ジプシーとは誰か

水谷驍、『ジプシー――歴史・社会・文化』(平凡社、2006.06)

非常におもしろい。

起源も歴史も謎に包まれているジプシーとは誰のことで、どういう人々なのか、ということを解き明かす試み。インド起源という仮説が有力だったりするものの、この本の結論は、

彼らは、歴史や文化、さらには出自を共通にする「ひとつの民族」というよりも、各国の歴史のなかで形成されて、その過程でいくつかの特徴を共有するにいたった多様な人間集団と考えたほうが適切なのではないか。

というもので、その形成プロセスとは、以下のようなものだったのではないかと著者は指摘する。まず背景として、

中世封建制が解体されて近代社会が発展していく過程で資本主義的生産関係を基礎とした国民国家が形成されるが、それは同時にひとつの価値観のものとに包摂された「国民」の形成過程でもあった。その価値観の基本となったのが、キリスト教、定住生活、そして勤勉な賃労働である。

という近代国家の形成があった。その過程で「国民」として包摂されずに近代社会からはみ出し、漏れ落ちていく人々がいた。

近代資本主義社会はつねにある種の「隙間」があって、主流社会によって烙印押捺されて排除・排斥されたこうした人間集団にも居場所があった。このような隙間にあって地域社会に不可欠なさまざまな「サービス」を提供することによって、そこに生活基盤を得て再生産されていったのである。主流社会の側も、隙間を埋めるという経済的な機能を果たすかぎりにおいて、このような人間集団の存在をつねに許容してきた。こうして、今日見られる「ジプシー」と呼ばれる人間集団が近代ヨーロッパ社会に広く形成され、再生産されてきた。

サービスというのは占いだったり、お祭りのときの歌や踊りだったり、あるいは専門性の高い工芸品の職人だったり、鍛冶屋だったり。必要不可欠だけれども、常に必要とされるものではないようなサービスの提供者として、ジプシーたちは新たな顧客を求めて旅をしていた側面もあるという。

15世紀ごろから近代にかけてヨーロッパで起こったのと似たようなプロセス、つまり主流社会からこぼれ落ちて流浪の民が発生するというプロセスは、明治期に日本でも起こったのではないか著者は言う。日本にはクグツやサンカと呼ばれる人々がいた。

サンカと呼ばれる人々は、幕藩体制から明治へと移行していく時期、つまり日本における封建制から資本主義体制への移行の過程で広く発生した貧民・流民層が時の政治権力によって「サンカ」さらには「山窩」とレッテルを貼られて排除、排斥され、その結果として主流社会とのあいだで特異な関係を形成するにいたった人間集団である。

ジプシーをインド起源とするなら、サンカはジプシーではないけれども、「ジプシー近世流民説」に立てば、その日本版がサンカではないかという指摘。日本資本主義も、ヨーロッパ資本主義と同じようにジプシーを作り出したのではないか、という。日本では江戸末期に興隆する貨幣経済の波にのまれ、土地を捨てて逃げ出した「走り百姓」と呼ばれる人々が多く出たという。

ジプシーとサンカの類似性は、主流社会から排除されたという点だけではなくて、ロマン主義小説家に取り上げられた点でも似ているという。例えば、イギリスの作家、ジョージ・ボロー。

ボローの作品は現代機械文明の人為制に「野生」や「自然」を対置する十九世紀ロマン主義の風潮とぴったり一致した。十九世紀以降の詩人や作家の多くが、軽蔑と嫌悪の対象ではなく、愛着と憧憬の的としてジプシーを描き出し、これに永遠の生命を与えた。それはジプシーの実像を語ると言うよりも、この時代を特徴付けた都市化と工業化の現代社会にたいするこれら作家たちの幻滅を、失われた古きよき時代にたいするノスタルジアを表現したものだったのである。

日本では1903年生まれの元新聞記者、三角寛がサンカを題材に小説を多く物し、人気を博したらしい。サンカの実態が知られていないことでかえってロマンチシズムの入り込む余地があったという。誰にも支配されず、誰の干渉も受けずに生きる自由人と書けば聞こえはいい。

三角寛は小説だけでなく、実地にサンカの集団に入り込み、「サンカ社会の研究」という論文も書いたという。出版当時は科学的な研究として受け取られたものの、現在では彼の研究のほとんどが捏造であることが判明しているという。

皮肉なもので、間違いだらけの「科学的研究」についても日本のサンカとヨーロッパのジプシーは似ている。日本の三角寛に相当するのは、ゲッティンゲン大学の若き歴史学徒、ハインリッヒ・グレルマン。グレルマンは、それまで300年近くも謎に包まれていたジプシーと呼ばれる人々についての初めて「科学的」な研究論文、「ジプシー――ヨーロッパにおけるこの民族の生活と経済、習慣と運命、ならびにその起源に関する一試論」というものを1783年に発表した。

グレルマンの仕事は主観的で恣意的な議論ばかりで、結局のところ、それまでヨーロッパで流布していたジプシー像の集大成にすぎず、実証的な研究と呼べるものではなかったらしい。であるにも関わらず、その後、グレルマンの文献が繰り返し参照されることになる(ヨーロッパ人の文献主義ってやつは)。

そもそもヨーロッパではなぜ突然15世紀になってジプシーと呼ばれる人々が登場したのか。肌が浅黒く、「エジプト人」と呼ばれたことが、そもそもの始まりで(ジプシーはエジプト人がなまったもの)、そういう意味では最初からずっとジプシーたちは誤解されてきたということだ。現在では例えば、

ジプシーの伝統や習慣と一般化されれてきたものが、一部の集団のそれにすぎなかった。インド起源とされてきた習慣や伝統がじつはバルカンその他の地域に起源があったことなどが明らかにされてきた。

という。単一の民族でもなければ、伝統や習慣すら共有していない。そもそも流浪の民というイメージが強いのに、実際のジプシーの放浪民の比率は約20%。そんな基本的な事実ですら主流社会の思い込みである可能性が大きいという。ジプシーと呼ばれる人々の人種的な構成がミックスであるのは、例えば、

雑多な貧民層・流民層は外国出身だけでなく、有利となればことさらに外国人風を装ったものもいたに違いない。

というような事情があるからではないかという。ジプシーには肌が黒いのも白いのもいた。

比較的共通性があるのは言語で、ジプシーの多くは、サンスクリット語起源のロマニ語の各種方言を使うという。そこからインド起源説が唱えられていて、有力な仮説として現在も一定の説得力をもっているという。ほとんど言語学的な証拠だけであるものの、だいたいジプシーの起源と足跡についての、現在もっとも妥当な説明は、こんな感じらしい。

まず、1000年前後にインド北部から戦争などの理由で数万単位での人の移動が起こった。その人々はバルカン半島までたどり着く。14世紀になるとオスマン勢力がバルカン半島に侵攻し、徴税のためにジプシーの遊動を嫌った。それで、オスマン支配下でジプシーたちの定住が進む。これが現在、西ヨーロッパよりバルカン半島にジプシーが多いという事実を説明する。19世紀半ばになると、ルーマニアでジプシー奴隷制が廃止され、再びジプシーは新天地を求めてヨーロッパ北西部や東部、スカンジナビア半島、さらに南北アメリカ大陸に移動する(カルデラリの大侵攻)。こうしてヨーロッパ全体で600~900万人、アメリカに100万人という現在のジプシーの世界的な分布ができあがる。

日本ではサンカが差別的扱いを受けてきたというけれど、ヨーロッパでジプシーたちが受けた迫害に比べると、まだしも人間的だなと思った。ヨーロッパでのジプシーたちの迫害のされようというのは、ナチス・ドイツによるユダヤ人の扱いのような感がある。キリスト教の聖書のすばらしい教えにより、殺戮が正当化されたりする。ジプシーたちは捕獲され、追いやられ、殺されてきた。『黒いスイス』という本によれば、20世紀になってからもスイスではロマ族と呼ばれるジプシーの子ども達を施設に隔離するために国家ぐるみで誘拐を繰り返していたというし、ホントにひどいもんだ。

全世界に1000万人いるとなれば、ちょっとした国家規模の人口ということになる。ヨーロッパで言えばギリシア、チェコ、ハンガリーあたりの人口と同じぐらいだとか。ところが、ジプシーには共有する歴史や伝統もなければ、言語すら異なるという事情があって、ユダヤ人などと違ってジプシーを代弁する代表者というものが、長らく存在しなかった。そのために、ジプシーの人権は長らく顧みられることなく、司法による過去の迫害認定もつい最近になって、ようやく行われたのだという。

ジプシーの本を読んだついでに「ジプシー・キング」について調べてしまった。彼らってホントにジプシーだったのね……。

投稿者 ken : 23:48 | コメント (1)

2007年04月26日

1枚のRAWからHDR

うちの近所にある古びた牛乳屋さんを帰宅途中に撮ってみた。カメラはNikon D80、レンズはNikkor 50mm 1.4D。ISO 400/F5.6/1.8秒。電柱にカメラを押しつけて2秒間息を殺してみた。

1枚目はRAWで撮影したものをDxO Optics Proでふつうに現像。2枚目は高彩度、高コントラストで現像。3枚目は+1ev、0、-1evと露出を変えて現像した3枚の写真をPhotomatix Basicで何も考えずに合成してHDR画像を生成。

けっこう不思議な色になった。しかし、このHDRはやりすぎだ。

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投稿者 ken : 23:40 | コメント (0)

2007年04月16日

ムスメは9カ月に

ムスメは9カ月に。

つかまり立ちを始めたなと思ったら、あっという間に伝い歩きし、伝い歩きを始めたなと思えば転び、転んでるなぁと思って眺めていると、つかまっている椅子から手を離して独り立ちしてみたり。子どもの進歩は早い。

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パッと手を離して立つようになったと思っていたら、すぐに10秒や20秒は立つようになった。ここ数日は、どこかにつかまることなくいきなり地べたに座った状態から立ち上がるようになった。20~30秒は立つようになったし、手にしたおもちゃをブンブン振り回すようにもなった。見ていると、どうも「立つ」ことは、「笑う」、「バブバブ言う」、「つかむ」とは独立した動作であるらしく、「立ちながら○○する」というのは、難易度的には立つことと変わりないらしい。

「バイバイ」の仕草を真似るようにもなったし、「パッパッ、マッマッ」とも言うようになったし、もはや人間である。

先週から通い始めた保育園では、朝、園に残していく別れ際にわんわん泣かれてちょっと切なかったけど、今朝忘れ物を取りに帰って20分後に園に戻ったら、もう保育士たちとご機嫌に遊んでいた。それはそれで、ちょっと悲しい。

成長するさまを見るのは楽しい。

投稿者 ken : 23:18 | コメント (2)

2007年04月14日

ややベジぐらいで

蒲原聖可、『ベジタリアンの医学』(平凡社)

冒頭には、この本は科学的検証を目指したとある。

本書は「ベジタリアンになれば、みんながハッピーになる」とか「動物実験は即刻廃止すべき」とかいった主張を展開する目的からではなく、「科学的根拠(エビデンス)」という視点から、ベジタリアン食を医学・栄養学的に検証した内容になっています。

確かに科学的論文をたくさん集めて検証はしているけど、どうにも強いバイアスがかかっている気がしてしょうがない。著者は自分がベジタリアンであるかや、これまでどういう立場で食の問題に携わってきたかを明かしていないという時点で、すでに公正さに欠ける印象を受けるんだよなぁ。主観的な主張は一見注意深く取り除かれていて抑制した文体で書かれているけど、言葉の端々に「ベジタリアン擁護まずありき」というニオイがプンプン漂っている。

例えば、もう聞き飽きたけど、畜産は環境負荷が高いという議論。北米の場合、穀物と同じエネルギーを得るためには家畜に最大10倍の穀物飼料を与えなければならないという指摘。その結果、「環境に10倍の負担を強いる計算です」とある。環境に対する負担というのが科学的な指標であるのか、もしそうだとすれば、それは何を意味しているのかハッキリさせてほしい。

牛の発生させるメタンについても、「地球温暖化に関して無視できない量になっている」という指摘はまだいいにしても(いや言い過ぎじゃないかと思うけど)、「このまま畜産業を規制せず、家畜の肉を食用として利用していると、牛のゲップで出るメタンの地球温暖化作用によって、人類が滅びるかもしれないというわけです」とか言われたら、もう笑うしかない。科学的な論文を大量に引用しておいて、こういう科学的検証とはとても言えないような主観的な、誇張された主張を忍び込ませるのは科学的に不誠実な態度ではないだろうか。

もっとも納得いかないのが、

ベジタリアン食による具合的な効能効果として、肥満、狭心症や心筋梗塞などの虚血性心疾患、高血圧、高脂血症、糖尿病、前立腺ガン、大腸ガンなどが少なくなるのです。

という主張。肉食は飽和脂肪酸やコレステロールが多くなりがちだというのは分かるけど、それは脂身の肉を食べ過ぎて食物繊維を取らないとこれらの疾患にかかるリスクが高まるという意味でしかないのじゃないか。成人病の一番のリスク因子は肥満だというし、だとしたらこうして並べ立てている疾患は肉食による結果なのか肥満による結果なのか、よく分からない。トートロジーっぽく見える。肉食は太る、太ると病気になる。じゃあ、太ってない適正体重の人で、野菜や果物を豊富に取る非ベジタリアンはどうなんだ、と。

そもそもベジタリアンは健康に留意する人たちだから、食生活は正しく肥満も少ないだろう。酒もたばこもやらない人が多いに違いない。そういう影響を排除して補正した研究もあるようだけど、引用されているデータを見ている限り、それは一部にすぎないようだ。

笑ってしまうのが「ビーガン」と呼ばれる絶対菜食主義者。ベジタリアンの基本的な定義は「肉を食べない」ということだけで、卵や牛乳を摂取する人(ラクトベジタリアン、オボベジタリアン)、魚を食べる人(ペスコベジタリアン)など、さまざま。いちばん原理主義的なのは動物性の食品を一切退けるビーガン。

ビーガンというのは、かなり注意して栄養を摂取しないと必須の栄養素が欠けてしまう。ビタミンB12についてはサプリメントを摂ったりしないと健康を害する食生活になるらしい。カルシウムや必須アミノ酸の吸収度も低いため、調査研究によって明らかにされた吸収度を上げる工夫が必要なんだとか。

ベジタリアンといえば「ナチュラルな食生活」というイメージがあるけど、栄養学の発達を待って初めて可能になる食生活なんだから、きわめて人工的だ。肉食のしすぎは悪いかもしれないけど、進化上食ってきたものが悪いわけがない。良質のタンパク質でミネラルも豊富。じゃなきゃおいしいと感じるわけがない。

著者は繰り返し繰り返し、北米の栄養士会が発表したガイドラインを引用する。

適切に準備されたベジタリアン食は、健康に有益であり、必要な栄養素を満たしており、いくつかの疾患の予防や治療にも利点がある。

まあ、そのとおりなのでしょう。ベジタリアンはかつて誤解されていて、無茶なダイエット(というのは節食という意味じゃなくて食の構成という意味)で子どもを栄養障害や発育障害に陥れた親のニュースが多数センセーショナルに報じられた過去から、ベジタリアン食では人間に必要な栄養素はまかなえないという世間の誤解が、特に北米にあるというのは分かるし、それは医学的には誤解である可能性が高いというのも分かる。しかし、そのことと、肉食を断つことに積極的なメリットがあるかどうかは全く別の話。

比較しないといけないのは、自分が食べるものについてあまり気を遣っていない一般的な「非ベジタリアン」ではなくて、「適切に準備された非ベジタリアン食」を食べる健康派の非ベジタリアン。特定の疾患で統計的に有意な差が出るかどうかではなく、トータルな平均余命で比較しないと意味がない。肉食が罹患リスクを下げるような疾患はないのだろうか、そういう研究がないのは、むしろ社会的なバイアスがかかっているのではないのだろうか。

バイアスがかかっているんじゃないかというのは、例えば、著者のこういう文章を読むと疑いたくもなる。

私見ですが、アメリカでは少なくとも、都市部在住で中間層以上のベジタリアンのほうが、たとえばテキサス州でステーキとファーストフードしか食べたことのない中間層以下の非ベジタリアンよりは、味覚が確かでしょう。さらに、個別のケースでは、ベジタリアンとして育った子どものほうが、しっかりした味覚をもっているようです。

「味覚が確か」とか「しっかりした味覚」が何を意味しているのか不明。いや、何となく言わんとしていることは分かるし、ある意味まったく同意するのだけど、こんな主観のもとに、いくら研究調査を進めても、あるいはデータを集めても、そりゃベジタリアン食に都合のいい結果しか出てこないよなと思う。こういう態度って、かつて肉食こそあるべき食事の姿として推奨してきた栄養学の人間と同じじゃないのか。つまりイメージで言ってるだけで科学とは関係ない。貧しくて肉を食えない国の奴らとは違って自分たちは肉を食って健康的だと思ってた。ところが日本食がブームになったりすると一気に肉食が攻撃される。科学的装いをまとっているけど、結局は「何を食うか」なんて時代時代の流行に左右されているだけとちゃうんかいな。

一般的な栄養学の入門書として、とてもタメになった。しかし改めて考えてみると、ぼくの食生活は脂質とコレステロール、塩分が多めだろうというこれまでの認識は変わらないにしても、肉を食べ過ぎなどということはなさそうだなと思い至った。朝ご飯を観察してみると、実は動物性食品はバターだけということもある。そもそも、日本人は伝統的にペスコベジタリアンに分類していいいぐらい、魚介類をよく食べている。大豆もよく食べている。アメリカ人とはだいぶダイエットが違う。

ところで著者によると、19世紀なかばの造語である「ベジタリアン(vegetarian)」という言葉を菜食主義者と訳すのは適切ではないそうだ。この単語は「vegetable + arian」ではなく、元々はラテン語由来の「ヴェゲトゥス(vegetus)」という言葉からきていてvegetusというのは「完全な、健全な、生き生きとした、活発な」という意味だそうだ。これはいくら何でも無茶な主張だ。最初に命名した人が、ラテン語を意識していたかどうかは分からないけど、英語話者に聞いてみたら、日本人同様に「まさか!」と言うに決まってるじゃないか。

ベジタリアンが胡散臭いのは、実際にはたいした科学的根拠もないのに「自分は覚醒した正しいライフスタイルを送っているのだ」というナチュラリストやエンバイロメンタリストに通じる、不遜で傍目には痛々しい選民意識が潜んでいるからだと思う。環境活動家の浅薄さ、スピリチャル系の皮相さ、そういうものに似たものを感じてしまって、どうも一部のベジタリアンには嫌悪感を催す。

「正しく食べよう」ということは、偏食せず、多くの品目を食べ、野菜や果物を豊富に取りましょうということでいいんじゃないかと思う。まあ、ぼくは反省するべきところが多々あるけど……。

投稿者 ken : 23:09 | コメント (0)

2007年04月13日

パチンコ、特許

佐藤仁、『パチンコの経済学』(東洋経済新聞社)

高校生のころパチンコ産業は「オモテ10兆、ウラ10兆」と聞いたけど、いまやパチンコ産業は30兆円の市場規模。出版の2兆円市場なんて鼻くそみたいなもんだし、比較的大きなアパレルでも20兆円。で、そんな巨大産業なのに、いわゆる業界全図的な本では、その概要すら紹介されることがないという謎に包まれた世界。

というわけで、パチンコ業界で長年要職にあった著者による業界解説の本書は貴重な本だ。パチンコやパチスロには興味がないけど、産業としてのパチンコや、それを取り巻く諸問題には関心があるよ。

パチンコ産業は80年代から90年代にかけて成長が著しく、それは射幸性を高めた機械の導入が進んだからだという。ところがパチンコ人口自体は横ばいからじり貧に転じている。つまり、パチンコは大衆の娯楽から一部のマニアが大金をかけて大きく勝ったり負けたりするギャンブルになってしまった。ところが、それでは未来がないので再びギャンブル性の高い世代の機種は、よりゲーム性の高い機種へ置き換えられようとしている。さて、いったん離れた顧客はホールに戻ってくるのか。

警察と業界のいびつな関係とか、新規参入を不当な特許戦略で拒む業界の閉鎖的な体質、パチンコ機開発メーカーは高い利益率を上げるのにホールは薄利であるうえに顧客獲得競争で疲弊、まあ、もともと換金方式というグレーなやり方で違法性にふたをしてきたような業界だから自浄能力とか体質改善とか、そういう動きが出づらい。

パチンコ産業がどうこうという視点ではなく、世界的な動きであるというゲーミング産業という文脈で、著者はいろいろと提言している。視線が高い。何でも、ライトなギャンブル産業は世界的には合法化の動きにあって、非常に成長している分野なのだとか。海外の事例紹介を交えて日本のパチンコ産業が進むべき方向性の1つを提示しているのは、非常におもしろい。

しかしなぁ、ギャンブルが巨大産業……、そのことにゾッとするものを感じる。巨大なる無駄。産業は人間の生活の糧になる何かでなければならない。そんな気がしていたけど、でも、よく考えてみれば、ハリウッドの映画産業だって人間の腹を満たしたり、渇きをいやしたり、病気を治したりはしない。アパレル業界だって寒さをしのぐ衣服を売ってるというわけじゃない。

無駄な生産や消費ということでいつも思い出すのがイエメンのカート。

アラブの中でももっとも貧しい国の1つ、イエメンではGDPが300ドルもない。それなのにGDPの3割とか4割はカート関連の産業だという。カートは向精神薬の一種で嗜好品。軽い麻薬だ。日本人が仕事帰りにアルコールでノミニケーションするように、イエメンの男たちは昼間っから友人たちとカートを口に含んで語らい、夕方には恍惚とした気分のなかで過ごすという(在イエメンの外務省職員の手記が参考に)。

なんたる無駄! パチンコ産業なんて、イエメンのカートみたいなもんじゃないか! と、思っていたんだけど、まあ人間はパンのみにて生きるにあらず。映画も見ればパチンコもやれば、ジャグリングもやるんだしなぁ。

それにゲームと同じでギャンブル機器は海外に売れる。日本のメーカーなら、いい機械を作れると思う。観光資源としても非常にいいと思う。

丸島儀一、『キヤノン特許部隊』(光文社)

新宿に行ったとき、ついでに寄ったカメラ屋で何となく買った本。Map Cameraにはカメラに関係している本は何でも置いてある。土門拳の仏像の撮り下ろし本とか初めて見たけど、土門拳ってエッセイストとしても才能のある人だったんだ、知らなかった。

カメラ屋においてはあったけど、この本はカメラやレンズ設計の話が詳しく出てくるわけではない。むしろ、戦後、カメラ事業で成功しはじめていた経営陣が「売ってしまえばそれまで」のカメラよりもランニングコストで食っていける事業としてコピー機をはじめとする事務機器ビジネスに乗り出し、グローバルカンパニーに成長する様を描いた本。その成長の陰には丸島という特許マンがいた。

なんかプロジェクトXに出てきそうな人だなと思ったら、ほんとにプロジェクトXで取り上げられたことがあったらしい。プロジェクトX 挑戦者たち 第6期 突破せよ 最強特許網 新コピー機 誕生

なんと言ってもおもしろいのは第1章。特許でがちがちに守られたゼロックスのコピー機で使われている「カールソンシステム」とは違う「NPシステム」でコピー機を実現したキヤノンの技術者と、その後のゼロックスとの特許戦争の話が圧巻。非常にプロジェクトXな浪花節だ。

丸島氏が、最初はおっかなびっくり渡米していたところから、徐々にタフニゴーシエーターに成長していく様が興味深い。プレゼン上手で滔々と持論を語り、時には脅しをかけてくるアメリカ人に対して、丸島氏は堂々と渡り合うようにまでになる。英語はむしろ自分では使わず、必ず社内の通訳を連れて行く。英語が分からないわけではないので通訳を待つ間に考える時間を稼ぐことができる。あるいは戦術として、通訳の誤訳を指摘して相手にプレッシャーをかけるということもやったらしい。おまえ、この人がそんな無茶なことを言うわけがないだろう、おまえの誤訳だ、と叱りつける。そうすると日本語の分からない相手でも何か怒っているということは伝わる。英語で反論するよりよほど効果的だという。なるほど。身内に対してなら激怒しても、後で事情を話して謝れば済むわけだ。

クロスライセンスを結ぶときの駆け引きがおもしろい。例えば、製品開発のためにある会社の特許が必要だとしても、足下を見られないために、決して「これこれの事業をやるので特許がほしい」などと言ってはいけないという。まず、相手の製品をばらして自分のところの特許を使っていないかを調べる。もし使っていたら、難癖をつけてからクロスライセンスに持ち込む。したたかな……。

この本が書かれたのは少し前で、ちょうど日本でも知的財産戦略大綱が出てプロパテントが騒がれ出したころ。そうした日本の特許政策に対して、かなり厳しい批判をしている。ただアメリカ追従のプロパテントには国家戦略が欠けている、と。

もともとレーガン時代にアメリカがプロパテントに傾いたのは、プラザ合意以降、円安を背景に日本が対米輸出を浴びせかけて貿易黒字をふくらませていた時期。日本の護送船団方式を駆逐し、官民をあげてプロパテント政策で先端産業のアドバンテージを確保しようという政策は、露骨に日本を標的としたものだったという。アメリカは時代時代でプロパテントとアンチパテントの間を揺れていて、それは常に国益に沿う形でバランスを取ってきた。ところが日本のプロパテント政策は、そうした国家レベルでの視点が欠けているという。

日本版バイドール法についても片手オチだと指摘する。日本では産学連携が課題と言われて久しい。産学協同の研究成果によって得られた特許を「国は放棄できる」と定めているのは全然弱すぎて、むしろ国が特許を一切保持できないようにするべきだという。

そのほか、特許侵害の損害賠償裁判のときには、米国のように実損の3倍程度の賠償責任を負わせる懲罰的損害賠償が必要だとか、今後の技術の世界ではともかく標準準拠が重要だとか、傾聴すべき提言をいくつも語っている。

アメリカ人と対等に渡り合うためにと、アメリカ人のようにウイスキーをあおり、ステーキを食べる生活に切り替えたという話に時代を感じる。いまアメリカ人はヘルスコンシャスでライトな食生活を志向している。丸島氏は今でもステーキを食うそうだ。

投稿者 ken : 21:09 | コメント (0)

2007年04月08日

読後感あれこれ

網野善彦、『中世再考』

これは、おもしろい本だ。中世の日本の庶民は、一般に思われていたよりも貧乏ではなかったし、抑圧されてもいなかったし、移動の自由もあった、「市民」的な存在だった。活発な市場経済だって江戸に始まったわけではないぞ。ということを、民具調査や限られた文献による調査から明らかにする。日本昔話じゃないけど、中世の日本の庶民といえば農民しか思い浮かべないけど、漁民や都市民、移動民がたくさんいたし、大陸や半島との交易によって財をなしていた人たちも相当いたらしい。

飯倉晴武、『地獄を二度も見た天皇――光厳院』

やっぱり気になる動乱の南北朝時代。

吉田太一、『遺品整理屋は見た!』

自殺者や孤独死する老人がいっぱい。惨殺現場も。しかし総じて想像できる範囲の話ばかりでタイトルから期待するほどはおもしろくなかった。それより、あまりにも文体がブログっぽくてビックリした。最近はオチのない短い文章が流行しているのか。陳腐な人生訓や、とってつけたような優等生的な政策提言にも鼻白む。

友野典男、『行動経済学――経済は「感情」で動いている』

人間は新古典派経済学が前提する合理的な「経済人」などではなく、様々なバイアスを受けて行動する。その法則を探りだし、モデル化しようとしてもがいている比較的新しい研究分野のコンパクトな入門書。めちゃくちゃおもしろい。非常に多数の実験や研究成果が紹介されている。

Daniel Gilbert, "Stumbling on Happiness"

誰しも、過去に自分がどう感じたか、未来にどう感じるかを想像するときには現在どう感じているかに強く影響される。そのために判断を誤る。それは不幸だと思う。ぼくはもっと合理的になりたいし、そのほうがより幸せだと思うんだけどなぁ。

Steve Cohen, "Win the Crowd: Unlock the Secrets of Influence, Charisma, and Showmanship"

マジシャンが書いた対人コミュニケーションのハウツー本。いかに自分を他人に見せるかについて徹底して考え、さまざまに実践してきた人。うーん、長年の経験から血肉となったノウハウってのは、やっぱり重みがある。それがそのまま他の人でも使えるかは別として。別に「ビジネスマンのあなたには、このテクニックはこう使える」と、無理にビジネスマンに当てはめなくてもいいのに。

島田卓、『インドビジネス――驚異の潜在力』

そろそろインド本も1冊ぐらいは読もうと思って手に取ったけど、1冊目としてはイマイチだったかも。「インドでビジネスやるってのはねぇ」というインド通オヤジの自慢げなアドバイスを聞かされただけという感じ。2ページに1箇所ぐらい「日本語がヘン!」という朱を入れたくなるほど酷い日本語だった。インド駐在が長かったからなんだろうか。

投稿者 ken : 22:31 | コメント (0)

DxO Optics Proのレンズ補正

手ぶれ補正付きの高倍率ズームレンズ「AF-S DX VR Zoom-Nikkor ED 18-200mm」は便利だけど、広角側の歪みがひどい。エッジの色がにじむとか、周辺の光量が落ちるとか、解像感が足りないとかいうことは我慢できるけど、幾何学的な歪みにはどうもぼくは敏感なようで、直線が直線として写らないのが、どうにも耐えられない。

倍率11倍で文句は言えないけど、あまりにもゆがむので、広角ズームを買うべきかどうかと思っていたのだけど、カメラの師匠にそんな話をしたら、「それはおまえ、DxOとか、そういうソフトを使うんだよ」と教えてもらった。

試用版を入れて使ってみたら、このDxOってのがスゴい。マウスカーソルを乗せれば、違いは一目瞭然。DxOはレンズごとに歪みデータを持っているので、EXIFデータを見て歪みをすべて直してくれる。色収差もパープルフリンジもビネッティングも、何もかも直してしまう。それってほどほどのズームレンズでも、神のような描写力のレンズにしてしまうってことじゃないのか? すごすぎる。今後メーカーはレンズ設計にお金をかけるよりも、むしろボディ内でソフトウェア補正する方向に進化するべきじゃないのだろうか。


左の窓枠とか右の銀色の柱とか、バシーッと補正されている。右真ん中に写ってる緑の鉢植えの葉っぱもクリアになっている


ぐにゃーんと曲がってしまった梁もガラスケースも、あるべき直線を描いている。文字もクッキリ


見よ、天板の歪みがすっきりストレートアウトされる様子を


これは50mm単焦点レンズで撮影した新橋。さすがにほとんど幾何的な補正は不要

投稿者 ken : 20:25 | コメント (2)

2007年04月07日

スペイン語と英語

以前YouTubeにアップロードしたビデオ(Knoppix 5.1.1. with Beryl)に何語か分からないコメントがついた。

que efectos tan mediocres... he visto mejores efectos en beryl como el que quema las ventanas cuando se cierran, ademas que resolucion tan grande para la demostracion..

queとかlaとかあるので一瞬フランス語かと思ったけど、efectosとあるので、ポルトガル語かスペイン語かなと思った。でも、どっちか分からない。

何語か分からないけど意味はよく分かる。ぼくがアップロードした映像に対してefectos(エフェクト)が平凡だ(mediocres)と言ってる。tanは強調の副詞だろうということまで分かる。デモンストレーション(demonstraction)なら、もっと高い(tan grande)解像度(resolucion)のほうがいいってことまで、何となく分かる。

欧米の言語なんて、ほんとに似たようなもんだなとつくづく思う。自動翻訳でも、かなりちゃんとした英語訳が出てくる。

自動翻訳されたテキスト:that so mediocre effects… I have seen better effects in beryl like which burns the windows when they are closed, in addition that so great resolution for the demonstration.

英語母語話者でスペイン語だのフランス語だのが話せるのなんて、たいしたこっちゃないなぁと改めて思った。

4月になって書店に一気にラジオ語学講座の本が並び始めたので、何かやってみようかなという気になっている。

投稿者 ken : 23:38 | コメント (2)