2008年01月28日
ロジック
Logic, Graham Priest, 2000
Oxford University PressのA Very Short Introductionシリーズの1冊。
スマリヤンの本は0.5ページで放り出し、矢野茂樹の論理学の入門書は購入してそれっきり。ホワイトヘッドもクワインも、いつ買ったか覚えていないぐらい放置状態。論理学や言語哲学って興味はあるけど、ぼくにはどうもダメらしい。それで、論理学っぽい本で軽いものを読んでみたくて手にした本がこれ。
しかし、あまりにも基本的なことしか書いてなくて肩透かしを喰らった印象。短い各章で、それぞれいくらかの論理演算記号や概念を導入して、古典的なパラドックスが、実は大したパラドックスじゃないんだよということを平易に説明してある。悪い本じゃないんだろうけど、もう2度とこのVSI シリーズは読まないことに決めた。前に読んだ聖書入門もそうだったけど、あまりにも素っ気ないし、いくら何でもベリーショートすぎる。
ほかの本も読んでみる気になったという意味では、VSIは、確かにその存在意義を果たしてるのかな。イントロだし。
2008年01月23日
エスペラント---異端の言語
「エスペラント---異端の言語」(田中克彦、2007)
あまりにおもしろくて珍しく読み返してしまった。
エスペラント自体は、さすがにどうでもいいけど、エスペラントというフィルターを通して見えてくるものがたくさんあるという意味で興味は尽きない。まず1つは、エスペラントという人工言語は文法や語彙という純粋に言語学的な事象を見るための基準器となること。現実に存在する自然言語には、さまざまなバリエーションや振れ幅があり、矛盾や欠点にもみちみちている。最初から言語学的な合理性だけを追求して人工的に作られたエスペラントは、固有の自然言語の「不自然さ」をすべてあぶり出す。いかにフランス人がフランス語の完璧さを喧伝したところで、不規則変化など負の遺産でしかなく、本来誇るべきほどのものではない。
エスペラントを通して見えてくるもう1つの大きな絵は、民族とは何か、国民国家とは何かという問題。この本には、そうした問題を考える上で知っておくべき論点と、さまざまな歴史的な経緯が盛り込まれている。これはエスペラントがどうこうというだけじゃなて、70歳を過ぎた田中氏の言語学研究の成果が随所に織り込まれていることによるのだろうと思う。
例えば、自然言語の語彙の形態に関する恣意性を指摘するところで、こんな例を引いている。パプアニューギニアで話されるクレオールでは女のことを「meri」という。それは上陸してきた白人の多くが妻のことを「メリー」と呼んでいたからで、固有名詞が普通名詞になるという、いかにも言語の起源で起こりそうな現象があるそうだ。そんな恣意性の高い語彙なんかに何の意味もない。
一方エスペラントはといえば、基本語彙こそヨーロッパの言語を中心に寄せ集めてきているという感じはあるけど、語彙体系の構成法はきわめて一貫性があって合理的。例えば、名詞の男性型は「-o」で終わり、女性型は「-ino」で終わるという感じ。「patro(父)、patrino(母)」、「frato(兄弟)、fratino(姉妹)」、「onklo (おじ)、onklino(おば)」といった具合だ。男性型から女性型を派生させるかのような構成法に対しては批判もあって、エスペラントを改訂して「裏切り者」と呼ばれたIDOという人工言語では「patro(父)」という語彙に対して「matro(母)」を当てているという。このあたり、社会言語学的な論点も多い。
もう1つ、名詞の構成法の示すと病院を意味する「malsanolejo」(まるさのれーよ)という単語がある。この語幹は「sano」(健康)で、これは「sanus」(健康)というラテン語由来のもので、英語でsanityに連なるもの。で、このsanoに対して反意語を示す「mal」という接頭辞をつけることで「malsano」(病気)という語が生まれ、場所を示す接尾辞の「lejo」をつけて「病院」という意味になる。すごいのは、sanoをsanaと語尾を変えるだけで形容詞になってしまうこと。なぜならエスペラントでは-oは名詞、-aは形容詞と決まっていて、例外が1つもないからだという。何たる一貫性だ。複数形はjをつける、というのにも例外はない。もちろん、すべて表音文字だから綴りが分かって読めないということもない。
lejoをつけると場所を示す。そうか考えてみたら、日本語で「病院」「学校」「会社」など場所を示す語彙に対して、すべて異なる「院」「校」「社」などを用いているほうが混乱してるようにも思えてくる。アメリカ英語で起こっている変化は、従来のラテン語やギリシア語を組み合わせたような造語を、平易で日常的な語彙の組み合わせで置き換えるようなことだと思うけど、あれと同じことを日本語でもやっていいんじゃないかと思う。
このほかエスペラントの特徴として驚くのは名詞の最後にnをつけるだけで目的語となること。これは日本語の助詞「を」の発想だ。この文法規則があるおかげで、目的語の位置の自由度が上がると著者はいう。ほんまかいな。
エスペラントの合理性と経済性はすさまじい。「冷たい」というような基礎語彙ですら、「malsarvo」(熱く-ない)というような作り方をする。malという接頭辞は、英語のmalicious、malady、malfunctionようにネガティブなニュアンスがない。エスペラントのmalは単に中立的な反意語を示す。これに対しては非効率だという批判もあったりして、別言後が作られたりする。それで延々と「俺様言語」の歴史が続く。過去100年ちょっとの間に知られているけで数百の人工言語があるという。
エスペラントでは、動詞の時制についても、すべてこの調子で語尾に特定の音を付け足すようにして合理的に構成されている。格を含めた人称代名詞のマトリックスに至っては、その対称性のあまりの高さに愕然とするほどだ。いかに自然言語がめちゃくちゃかというのを思い知らされる。大学時代にフランス語の授業で延々と人称代名詞と基本動詞をセットにした暗記をやらされたのを思い出して、「やっぱりあれはフランス語が悪かったんだ」と思って溜飲を下げることにした。
というようにエスペラント語の文法は非常に簡単で、英語やフランス語、ラテン語などの基本語彙が何となく分かるぼくは、10ページほどのエスペラント語の解説を読んだだけで、エスペラント語で書かれた文章が何となく読めてしまうというほどだった。
エスペラントに光を当てるうえで著者のこれまでの研究が大きく影響してるのではないかと思った別の例に、エスペラント語の膠着的性質について指摘する箇所がある。
ぼくはまったく誤解していたけど、エスペラントというのは語彙こそヨーロッパの言語の寄せ集めという印象が強いけど、屈折語、孤立語、膠着語という分類でいえば、かなり膠着語に近い性質を備えている。
19世紀の言語学者、なかんずく西欧の学者らは屈折語こそが、最高の発達段階を示した言語だと考えていたという。日本語や韓国語、ツングース語、ハンガリー語などの膠着語は低い発達段階にあり、中国語のような孤立語は、さらに原始的とみなしていた。そうしたヨーロッパの言語学者のエスノセントリックなものの見方を、著者は「生物進化論とヘーゲル哲学をつき混ぜてできた思想」と切り捨てる。なぜなら、歴史をさかのぼってみると、古くなればなるほど複雑な屈折にみちみちたものとなり、逆に時代が新しくなるほど屈折が弱まるのが一般傾向であるからだ。
英語とドイツ語を比べると、英語は屈折が弱まっている。これはノルマン・コンクエストの影響で、英語は、フランス語との接触で、語彙的にも文法的にも非常に大きく変化した経緯がある。
英語はフランス語との接触によって文法が単純化した。多くの言語は他言語との接触によって、もとの言語より単純な構造に変化するもので、その逆というのは起こらないらしい。こういうのはピジンやクレオールの研究成果によるところが大きいそうだ。非常に興味深い。セーシェルやメラネシアの島で話されるクレオールを研究してみると、ラテン語を単純化したフランス語がたどったのと同じプロセスが見て取れるという。
例外だらけで構造の不安定なラテン語を維持できなくなって世俗語に分化していったのがヨーロッパの各言語。そう考えると、もっと言語の混交が早くに起こって単純化された言語が広まっていたら、ヨーロッパの血塗られた歴史は大きく変わっていたんじゃないかとすら思えてくる。「国語とは陸海軍をそなえた方言」という言葉が示すとおり、民族を分断し、国民国家を成立させているのは言語にほかならない。
オットー・イェスペルセンというデンマークの言語学者は英語が中国語に近づいているということを「Monosyllabism in English」という有名な論文で指摘しているという。段々に屈折した尻尾の変化部分が落ちて音節が短くなり、英語には格変化がなくなった。こうした変化について、以前に読んだエドワード・サピアも同じようなことを言っていたように思う。サピアは英語が徐々に「分析的」になっていると例を挙げて書いていた。例えば「's」をつけて所有や帰属を示すというやり方は、よりシンタックスに依存した「of」に取って代わられつつある。
言語進化の話で、さらに驚いたのは、孤立語である中国語は徐々に接尾辞などを多くとる膠着的な性質を強めており、結局のところ、世界の言語は膠着語に向かっているという話だ。中国語は分からないけど「的」をつけて形容詞や所有格を作るというようなことだろうか。そういえば、この「的」というのは英語やフランス語の「-tic」という語尾から来ているそうだ。
日本語話者の矜持におもねるようなこの結論は、単にモンゴル語を中心にウラル・アルタイ語属に関する研究をしてきた田中氏の強いバイアスが入ってないのか。都合のよい学説だけ集めてきてないのか、非常に気になるところだ。
しかし、膠着語が「安定した構造で変化が少ない」というのは、確かに事実であるような気がする。古文の授業で、ほんの少し助詞や特殊な活用を勉強するだけで1000年以上も前の本が読めるのは、日本語の安定性を端的に示す例だという。
ザメンホフは、こうしたことを知っていたからエスペラントを膠着語的に作ったのだという。そして、そうした性質があったからこそ、エスペラント語はアジアでもかなり広い層に支持されたという経緯があるという。宮沢賢治も山田耕作も、北一輝も、柳田国男も、エスペラントに傾倒したらしい。
ともあれ、ヨーロッパ言語が今後進化して変化していくべき究極の形を、エスペラントというのは一気に実現してしまったのだ、と評価する言語学者もいるという。
「われわれの国語はこんなに複雑で表現力が豊かだ」という国語自慢に対して田中氏は冷淡だ。だいたいにおいて、Aという言語が、ほかの言語に比べてどうのこうのという議論は言語学的根拠をもたない。
暇がある上層階級は知的優位を強調するために、複雑な言語を複雑なまま使うことを美徳とする。一方、日々忙しい一般人は例外規則を覚える学習時間など避けないから、より速いペースで合理化、単純化を推し進める。この間読んだ日本語の歴史の本には、こんな例があった。日本では室町時代から江戸時代にかけて起こった二段活用の一段化という単純化は、武士よりも庶民の間で速く起こったということが、近松の浄瑠璃の台詞をみると分かるという。
ら抜き言葉も同様だ。合理的根拠もなしに、いつまでも「らあり」にこだわっているのは、たいがいは暇をもてあました文人タイプの人間だ。こうした知的ペダンティズムの背後には、単なる言語学的知識の欠如ばかりでなく、もう少し別の力学が働いているのだろうと思う。
ある時期、2つの用法や文法が併存するということがある。たいてい「言葉の乱れ」と呼ばれてしまう新しいほうの形は、いずれ普遍化していくもの、と思っていた。ところが驚くことに、アルメニア語は「こだわり派」と「単純派」で2つの言語に分岐してしまったと、旧ソ連の言語学者マルが指摘してるらしい。そんなことが起こりえるのか……。
英語と米語も、ややそうした分裂状態にあるように思う。綴りでも言い回しでも文法でも、イギリス人は古い形がいいと思っている。アメリカ人は背負った歴史がないぶん、変化を気にしない。だから、かなり単純化が進んでいる。
最後にもう1つ、非常に気になった論点を。日本語という言葉は、漢語で水浸しになってしまって、もともとあった大和ことばの多くは失われてしまった。それを柳田国男は「荒涼たる日本語の風景」と呼んだという。
そんなことを言ったら、いま再び英語の洪水の中でツユだくになって大和ことばと漢語と英語がマーブル模様に入り交じってしまった現代日本語なんて、いったいどうなるんだ。
と、いうことはともかく、漢字や漢字文化を「負の遺産」として排除すべきと考えた日本人や中国人の話が気になる。1974年に中国を訪問した西園寺公一は、過去の日本の蛮行をわびた。そのとき、トウショウヘイは自分たちも日本に迷惑をかけたといい、その1つが「孔子の道」を伝えたことで、もう1つが漢字の弊を与えたことと言ったそうだ。
日本で仮名文字運動が広がった時期、中国でも漢字廃止の運動があったという。日本のそれは背後にナショナリズムの高まりがありそうだけど、中国のほうは何だろうか。中国共産党が簡体字を制定したのは1960年代。漢字の表音文字化を企てる背景には共産主義思想があったともどこかで聞いたけど、どうなんだろうか。この辺、非常におもしろいテーマだ。
2008年01月09日
外注される戦争
『外注される戦争――民間軍事会社の正体』(菅原出、2007)
非常におもしろい。
イラクの混迷はもとより、内紛やテロなど、現代的な意味での戦争のリアリティの1つがここにある。かつての国家間の戦争や冷戦下の安全保障と軍備といったものとは異なる新しい形態の安全保障のカラクリが回り始めている。PMC(Private Military Company)と呼ばれる企業群が、こうした現代的な戦争の場で急速に成長している。
著者によれば、PMC興隆の背景には、冷戦終了により軍縮が進んだことがある。例えば米陸軍は冷戦時に79 万人規模だったものを、48万人体制に縮小させた。1990年代だけで全世界の軍隊で600万の失職者が出たと見られているという。これら失職した軍人や退役軍人のうち、エリート部隊に所属した人々がPMCを興して政府機関のリクエストに応じて、さまざまなサービスを提供している。
紛争地域で求められるニーズも、従来の軍隊が提供できるものではカバーできなくなってきている。著者はまたこう書く。「安全保障政策のカバーする範囲は、伝統的な国防から、テロとの戦い、平和維持活動、難民救済、市民社会の建設促進へと拡大していった」。著者は例えば、こんな統計を引いている。国家間の戦争で死んだ人の数は1999年に3万2000人。一方、テロでは900人、内戦では3万9000人が死んでいる。米軍が典型だけど、もう国家間の武力衝突という場面で死んでいるわけではない。
そもそもの発端がブッシュ親子の歴史的大失態や、欧米諸国による無責任でエゴイスティックな植民地政策の結果だとはいえ、現在の世界がPMCを必要としているのは明らかだ。善悪でいえば、PCMはほかの兵器や軍備同様に悪に決まっているけど、要不要でいえば「要」ということだ。
軍隊がかつて蓄積してきたノウハウが人材とともに流出している事情もある。軍縮とPMCの興隆はコインの表裏。かつてエリート部隊にいた人々は、国家がかかえる正規軍や警察隊に対して、訓練や教育、情報分析などのサービスを提供している。ぽっと出の若い将校なんかに若手の訓練はできるはずもなくて、湾岸戦争などで実際に場数を踏んだベテランが教育したほうが効果は高い。
米国のレンジャー部隊、グリーンベレー、デルタフォース、シールズとか、イギリスで言えばSAS、SBS、SO14などのエリート部隊の出身者は、高給を求め、あるいはスリルを求め、はたまた愛国心や「民主主義の種を蒔くのだ」という高邁(高慢?)な思いから、軍隊よりもPMCに流れていくのだという。
PMCが提供する「サービス」は多岐に渡る。需要が大きいのは要人の警護や施設警備、ロジスティックなどの後方支援。テロや脅威の分析、アラビア語の通訳といった情報サービスも行う。兵器も扱う。現在すでに米軍兵器の28%のメンテナンスはPMCが受託しているという。地雷や不発弾の処理もやる。ものすごいエキスパティーズと信頼関係だ。
市場化されたことによるイノベーションの加速、という側面があるのも見逃せない。米軍の伝統的なハムビーではなく、自爆攻撃や待ち伏せに耐えうる防御力をもった高速移動車の開発や、高性能の無人偵察機の開発などは市場化によって実現した兵器の例という。プロの軍人を訓練するプログラムでも、従来の軍が提供できなかった品質の高いものがどんどん開発されていたりする。
このほかPMCが提供するサービスとしては、軍事訓練の提供やメディア戦略のコンサルなどがある。ただ、どのPMCにも共通しているのは、「戦闘は請け負わない」という点。それは倫理的なものというより、国際世論の批判で自滅しないための私企業の合理的判断ということらしい。
PMCのメディア戦略として、レンドン・グループの暗躍の事例が興味深い。いわく、「いまや湾岸戦争に敗れ十分に抑止されている一地方の指導者に過ぎないサダム・フセインを、世界平和に対する深刻な脅威であると信じ込ませる」ために、レンドン・グループとイラク国民会議に対してCIAから5年間で計1億ドルものギャラが支払われたという。実際に大手メディアを懐柔して嘘っぱちを広めることに成功した様子を、本書ではつまびらかにしている。現代戦とはそういうものだと開き直るレンドン本人の見解には、呆れるというよりも、伝統的なアメリカ人的プラグマティズムを感じて妙な感動を覚える。
PMCに対する批判は多いし、実際に問題点もある。現在、一番大きな問題は、PMCの存在がイラク混迷の一因となっていることだ。イラク特需で雨後の筍のごとく増えたPMCのなかには、非常にいい加減な仕事をする劣悪な企業があったという。
例えば、危険地域に派遣するまえに自社の社員を十分に訓練しないだとか、情報収集をおざなりにするといったことで、PMC社員の死者が急増した。そういえばPMCに所属する日本人でも死者が出た。
「社員を死なせて金儲け」では批判も集まるけど、それにしてもまだしもこれは自業自得のような面がある。もっと問題なのは、そうした企業が雇った「社員」の中には、市民に向けて無差別に発砲するようなならず者がいた、ということ。アブグレイブ刑務所での収容者の虐待に関しても尋問を受注したPMCに責任があるという。正規軍では起こり得ないそうした規律の乱れで、イラク民衆の米軍への信頼は地に墜ち、政情安定への道をいっそう険しくしているという。
というように、PMCの活躍の部隊はイラクをはじめとする中東地域だけど、こうした「戦争の外注化」、「兵力支援の市場化」は、副次的効果をもたらした。
1つは紛争地域の安定化にPMCが役立っているという例。南アフリカのPMC、エグゼクティブ・アウトカムズは、長期化していたアンゴラ内戦を鎮め、シエラレオネの危機を救ったという。
アンゴラでは資源を抑え拮抗する2勢力があり、どちらの勢力も豊富な資源を背景にした逐次的戦力の投入で、いつまでも争っていた。そこにエグゼクティブ・アウトカムズ社は80名からなるPMC部隊を派遣。政府軍を訓練し、あっという間にゲリラを駆逐。ついに1年で両者間で和平協定締結にまで漕ぎ着けたという。
シエラレオネでは、リベリアの独裁者チャールズ・テーラーがシエラレオネ国内の鉱山を次々に制圧。孤立無援の同国政府は、首都に攻め入る反政府ゲリラを前にエグゼクティブ・アウトカムズ社に援助を依頼。同社は70名を派遣し、ゲリラを撃退。やはり和平協定を結ばせたばかりでなく、部隊派遣から1年半後には、シエラレオネで23年ぶりの民主的選挙が行われるまでになったという。
「金さえもらえばゲリラ軍も援助するのか?」という疑問もわく。そもそも、勝てば官軍だ。政府軍はどっちだというような状況に対して、PMCは一体どういう価値判断を行うのか。PMCは本当に紛争地域のボラタリティを低減する効果を持つのか? 例えば現在のミャンマー政府からPMCが仕事を受注するのは、誰のために何のメリットがあるのかよくわからない。
治安がどうこうという以前の国じゃなくて、もう少し落ち着いた地域でPMCが警察権力の訓練をするというのは善いことだと思う。東欧諸国など途上国に対して訓練を行ったり、先進国の警察隊に対して対テロ対策の訓練を行うといったことは、私企業でないと難しい。
ただ、そうした訓練は政府が公然とできなことを民間企業が肩代わりするという側面が強くて、政府の外交・安全保障政策の延長線的な性格も強いのだという。長期にわたるサウジとアメリカの戦略的同盟関係は、ヴィネル社というPMCとサウジ政府のサウジ国家防衛隊の契約が、そのベースにあるという。米国の外交カードとして、軍事力、ドルに続いて、PMC企業群がもつエクスパティーズが加わる。古い戦争を前提とした軍事力や核兵器がヘビー級のストレートパンチであるなら、PMCはローブローぎりぎりのボディーブロー連打という感じか。
PMCという存在の副次的効果として興味深い点を、もう1つ。雇用条件としてエリート部隊出身者というハードルを課すPMCがある一方で、よりグローバルにリクルート活動を行うPMCもある。その結果、例えば安い労働力としてフィジー人を雇用する例が増えているのだという。笑っちゃいけないけど笑いが止まらないと公言するのがフィジー労働省。PMCが自国民を雇用してくれることで深刻な失業問題は解消され、税収も増えると喜んでいるという。自国民の命を守るために、PMCの仕事を請け負う人の渡航を禁じる国もあるというけど、実際上、渡航時のチェックは土台無理。
途上国の、特に貧困層からすれば、短期の出稼ぎで大金を得られるPMCは魅力だろう。しかし、貧困から抜け出す方策としてイラクに行って命を落としたフィリピン人の話なんかは切なすぎる。戦地から「もうすぐお金を送れるから、そうしたらお米を買えるね」と国に残してきた家族に書き送り、その後、殺されてしまったなんて話が紹介されている。こうした話はフィジー労働省の役人の耳には入ってこないのだろうか?
と、PMCの全容を概観できる好著。最終章には著者自ら、PMCが提供するメディア関係者向けの対テロ訓練に参加した様子が紹介されている。訓練とはいえ精神的に追い詰められ、とっさの判断が甘いために最終的に全員がPMC社員が演じる短気なゲリラの一員に銃殺されてしまうというオチがなかなかいい。1度でも訓練しておけば、現実に危機にさらされたときの対応がまったく違ってくるだろうから、こうした訓練は有効だろう。
それで、日本では何だっけ、外交と安全保障の問題が交差した給油問題について、どういう議論をしている最中なんでしたっけね……。安全保障を巡る情勢がこれほど激変しているのに、違憲だから話し合うことは何もないというだけで、つっぱねる民主党。日本でも自衛隊は違憲だという人が根強くいるから、この際、我こそはという自衛隊員は日本版PMCでも始めたらいいのに。無理か。
2008年01月07日
まぐろ土佐船
『まぐろ土佐船』(斉藤健次、2000)
20代後半。仕事に行き詰まりを感じていたフリーランスライターが、ふと思い立って遠洋漁業の漁師に転職し、海で過ごした1770日の記録。戦場ジャーナリストとは違うけど、命をかけて現場に入ったルポルタージュで、実に生々しいドラマがあっておもしろい。
どうしてもマグロ漁船に乗りたいという一念に取り付かれて、高知に飛び、経験も適性もなさそうな「余所者」として港町で1年半。スナックでバイトして地元に知り合いを作り、ようやっとのことで乗船させてもらえるところに漕ぎ着ける話に、「今どきの若者」にはない1947年生まれの著者の根性が垣間見える。乗ったら乗ったで邪魔者としてしか扱われず、それでもめげずに「自分のできることを」と料理をはじめ、やがてコック長という座に落ち着く。
地球が丸い感じを想像してしまうほど、マグロを求めて世界中の漁場で操業する。南はケープタウン沖やモンテビデオ沖、氷山が浮かぶ南氷洋に近いところまで船を繰り出す。赤道付近でも、エクアドル、ベネズエラ沖、アンゴラ沖など、アメリカがうるさいことをいいはじめて行けなくなったメキシコ湾をのぞいて、どこにでも行くという感じ。
行く先々の港での「船員らしい武勇伝」が、おもしろい。友人が地元警察に拘留されていると騙され、タクシードライバーに扮した強盗に遭う話や、語学もダメでもなぜかどこのディスコでモテるオヤジの話なんかは、ああ、海の男のロマンってほんとにイメージどおりなのね、という感じ。なぜモテるのかの問いに「心、心ぜよ」と答える土佐の男の笑顔が目に浮かぶようではないか。
1970年代の近代的なマグロ漁船には、すでに24時間入れる風呂があり、冷暖房もあって「天国みたいなもの」と、当時の年長の船員は言ったらしい。どんなひどい労働環境だったんだと思うけど、それでも著者が乗船した当時の船員の労働環境は、今の常識的にいえば地獄だ。波にさらわれて転落死する船員はいっぱいいるし、指はちぎれるわ、腕の肉は釣り針でもげるわ、命がけ。どんなベテランでも一瞬の油断で甲板から落ちる。落ちれば、ほぼアウト。全長120kmにも渡る幹縄を海に垂らし、再び上げる作業は危険な重労働。
そんな厳しい労働なのに、なぜマグロ漁船に乗るのか。この問いに対して答えた船員たちの言葉が印象的だ。「陸(おか)で勤めよってもよ、わしらにできるこというたら、限られているろうが。ほか、何するぞ」、「都会のにんげんが何ちゃあ考えんでサラリーマンになるがと一緒よ。第一わしらが背広着たち、似合わんろう?」。
かつて大金が稼げたマグロ漁も、著者が乗船した時代には、すでに高騰する燃料代で収支はかつかつ。しかも、相場変動が激しいうえに、漁獲高も時の運。ギャンブルだ。船員にとってたままらないのは、目標額に達するまで日本に戻れず2年も3年も世界中で操業を強いられることだ。肉体的にも精神的にもくたびれ果てて、ストレスでおかしくなる船員も多かったらしい。
海の生活の実際、海に生きる人にしか味わえないさまざまな料理の話など、明るく楽しい話も楽しめた。磊落な男たちの言葉も爽やかでいい。マグロの基礎知識や、当時のマグロ漁船操業の収支についてもわかりやすく書かれている。
もともと著者はルポルタージュを書くために船に乗ろうと思ったわけではないという。ライター稼業から足を洗って漁師になり、その後は夫婦で居酒屋を営んで長いという。すでに50歳を過ぎた著者が、若い日の体験を、まとめた本。そういう意味では一生に1冊しか書けない本だ。この本は、第7回の小学館のノンフィクション大賞に選ばれたというけど、この手の賞には若手の登竜門というニュアンスってないんだろうか。もしあるとしたら、ずいぶんふさわしくない人を選んだなと思う。それに、2000年の出版時点でも、さすがに話が古くて「大賞」とするべき本だったんだろうかと疑問に思った。
室戸の沖ではかつて捕鯨が盛んだったという。それがのちに土佐のカツオ1本釣りとなり、それに続いて1955年ごろからマグロ漁を営むようになったという。そのマグロ漁が黄金期を過ぎて1つの時代が幕を下ろそうとした時期の体験談として、見事にありのままを伝えている良書だとは思うけど、後書きにあるように、すでに2000年の時点でもマグロ漁は大きく変わってしまっている。幹部以外は外国人、マグロも船員も空を飛び、船は基本的に帰らない。縄もロボットが投げる。
水揚げ高がもっとも高い港は、成田空港だと言われるようになった以後の、マグロ漁のことも知りたい。たぶん、『The Sushi Economy: Globalization and the Making of a Modern Delicacy』がいい本なんだろうと思う。
2007年04月30日
ジプシーとは誰か
水谷驍、『ジプシー――歴史・社会・文化』(平凡社、2006.06)
非常におもしろい。
起源も歴史も謎に包まれているジプシーとは誰のことで、どういう人々なのか、ということを解き明かす試み。インド起源という仮説が有力だったりするものの、この本の結論は、
彼らは、歴史や文化、さらには出自を共通にする「ひとつの民族」というよりも、各国の歴史のなかで形成されて、その過程でいくつかの特徴を共有するにいたった多様な人間集団と考えたほうが適切なのではないか。
というもので、その形成プロセスとは、以下のようなものだったのではないかと著者は指摘する。まず背景として、
中世封建制が解体されて近代社会が発展していく過程で資本主義的生産関係を基礎とした国民国家が形成されるが、それは同時にひとつの価値観のものとに包摂された「国民」の形成過程でもあった。その価値観の基本となったのが、キリスト教、定住生活、そして勤勉な賃労働である。
という近代国家の形成があった。その過程で「国民」として包摂されずに近代社会からはみ出し、漏れ落ちていく人々がいた。
近代資本主義社会はつねにある種の「隙間」があって、主流社会によって烙印押捺されて排除・排斥されたこうした人間集団にも居場所があった。このような隙間にあって地域社会に不可欠なさまざまな「サービス」を提供することによって、そこに生活基盤を得て再生産されていったのである。主流社会の側も、隙間を埋めるという経済的な機能を果たすかぎりにおいて、このような人間集団の存在をつねに許容してきた。こうして、今日見られる「ジプシー」と呼ばれる人間集団が近代ヨーロッパ社会に広く形成され、再生産されてきた。
サービスというのは占いだったり、お祭りのときの歌や踊りだったり、あるいは専門性の高い工芸品の職人だったり、鍛冶屋だったり。必要不可欠だけれども、常に必要とされるものではないようなサービスの提供者として、ジプシーたちは新たな顧客を求めて旅をしていた側面もあるという。
15世紀ごろから近代にかけてヨーロッパで起こったのと似たようなプロセス、つまり主流社会からこぼれ落ちて流浪の民が発生するというプロセスは、明治期に日本でも起こったのではないか著者は言う。日本にはクグツやサンカと呼ばれる人々がいた。
サンカと呼ばれる人々は、幕藩体制から明治へと移行していく時期、つまり日本における封建制から資本主義体制への移行の過程で広く発生した貧民・流民層が時の政治権力によって「サンカ」さらには「山窩」とレッテルを貼られて排除、排斥され、その結果として主流社会とのあいだで特異な関係を形成するにいたった人間集団である。
ジプシーをインド起源とするなら、サンカはジプシーではないけれども、「ジプシー近世流民説」に立てば、その日本版がサンカではないかという指摘。日本資本主義も、ヨーロッパ資本主義と同じようにジプシーを作り出したのではないか、という。日本では江戸末期に興隆する貨幣経済の波にのまれ、土地を捨てて逃げ出した「走り百姓」と呼ばれる人々が多く出たという。
ジプシーとサンカの類似性は、主流社会から排除されたという点だけではなくて、ロマン主義小説家に取り上げられた点でも似ているという。例えば、イギリスの作家、ジョージ・ボロー。
ボローの作品は現代機械文明の人為制に「野生」や「自然」を対置する十九世紀ロマン主義の風潮とぴったり一致した。十九世紀以降の詩人や作家の多くが、軽蔑と嫌悪の対象ではなく、愛着と憧憬の的としてジプシーを描き出し、これに永遠の生命を与えた。それはジプシーの実像を語ると言うよりも、この時代を特徴付けた都市化と工業化の現代社会にたいするこれら作家たちの幻滅を、失われた古きよき時代にたいするノスタルジアを表現したものだったのである。
日本では1903年生まれの元新聞記者、三角寛がサンカを題材に小説を多く物し、人気を博したらしい。サンカの実態が知られていないことでかえってロマンチシズムの入り込む余地があったという。誰にも支配されず、誰の干渉も受けずに生きる自由人と書けば聞こえはいい。
三角寛は小説だけでなく、実地にサンカの集団に入り込み、「サンカ社会の研究」という論文も書いたという。出版当時は科学的な研究として受け取られたものの、現在では彼の研究のほとんどが捏造であることが判明しているという。
皮肉なもので、間違いだらけの「科学的研究」についても日本のサンカとヨーロッパのジプシーは似ている。日本の三角寛に相当するのは、ゲッティンゲン大学の若き歴史学徒、ハインリッヒ・グレルマン。グレルマンは、それまで300年近くも謎に包まれていたジプシーと呼ばれる人々についての初めて「科学的」な研究論文、「ジプシー――ヨーロッパにおけるこの民族の生活と経済、習慣と運命、ならびにその起源に関する一試論」というものを1783年に発表した。
グレルマンの仕事は主観的で恣意的な議論ばかりで、結局のところ、それまでヨーロッパで流布していたジプシー像の集大成にすぎず、実証的な研究と呼べるものではなかったらしい。であるにも関わらず、その後、グレルマンの文献が繰り返し参照されることになる(ヨーロッパ人の文献主義ってやつは)。
そもそもヨーロッパではなぜ突然15世紀になってジプシーと呼ばれる人々が登場したのか。肌が浅黒く、「エジプト人」と呼ばれたことが、そもそもの始まりで(ジプシーはエジプト人がなまったもの)、そういう意味では最初からずっとジプシーたちは誤解されてきたということだ。現在では例えば、
ジプシーの伝統や習慣と一般化されれてきたものが、一部の集団のそれにすぎなかった。インド起源とされてきた習慣や伝統がじつはバルカンその他の地域に起源があったことなどが明らかにされてきた。
という。単一の民族でもなければ、伝統や習慣すら共有していない。そもそも流浪の民というイメージが強いのに、実際のジプシーの放浪民の比率は約20%。そんな基本的な事実ですら主流社会の思い込みである可能性が大きいという。ジプシーと呼ばれる人々の人種的な構成がミックスであるのは、例えば、
雑多な貧民層・流民層は外国出身だけでなく、有利となればことさらに外国人風を装ったものもいたに違いない。
というような事情があるからではないかという。ジプシーには肌が黒いのも白いのもいた。
比較的共通性があるのは言語で、ジプシーの多くは、サンスクリット語起源のロマニ語の各種方言を使うという。そこからインド起源説が唱えられていて、有力な仮説として現在も一定の説得力をもっているという。ほとんど言語学的な証拠だけであるものの、だいたいジプシーの起源と足跡についての、現在もっとも妥当な説明は、こんな感じらしい。
まず、1000年前後にインド北部から戦争などの理由で数万単位での人の移動が起こった。その人々はバルカン半島までたどり着く。14世紀になるとオスマン勢力がバルカン半島に侵攻し、徴税のためにジプシーの遊動を嫌った。それで、オスマン支配下でジプシーたちの定住が進む。これが現在、西ヨーロッパよりバルカン半島にジプシーが多いという事実を説明する。19世紀半ばになると、ルーマニアでジプシー奴隷制が廃止され、再びジプシーは新天地を求めてヨーロッパ北西部や東部、スカンジナビア半島、さらに南北アメリカ大陸に移動する(カルデラリの大侵攻)。こうしてヨーロッパ全体で600~900万人、アメリカに100万人という現在のジプシーの世界的な分布ができあがる。
日本ではサンカが差別的扱いを受けてきたというけれど、ヨーロッパでジプシーたちが受けた迫害に比べると、まだしも人間的だなと思った。ヨーロッパでのジプシーたちの迫害のされようというのは、ナチス・ドイツによるユダヤ人の扱いのような感がある。キリスト教の聖書のすばらしい教えにより、殺戮が正当化されたりする。ジプシーたちは捕獲され、追いやられ、殺されてきた。『黒いスイス』という本によれば、20世紀になってからもスイスではロマ族と呼ばれるジプシーの子ども達を施設に隔離するために国家ぐるみで誘拐を繰り返していたというし、ホントにひどいもんだ。
全世界に1000万人いるとなれば、ちょっとした国家規模の人口ということになる。ヨーロッパで言えばギリシア、チェコ、ハンガリーあたりの人口と同じぐらいだとか。ところが、ジプシーには共有する歴史や伝統もなければ、言語すら異なるという事情があって、ユダヤ人などと違ってジプシーを代弁する代表者というものが、長らく存在しなかった。そのために、ジプシーの人権は長らく顧みられることなく、司法による過去の迫害認定もつい最近になって、ようやく行われたのだという。
ジプシーの本を読んだついでに「ジプシー・キング」について調べてしまった。彼らってホントにジプシーだったのね……。
2007年04月14日
ややベジぐらいで
蒲原聖可、『ベジタリアンの医学』(平凡社)
冒頭には、この本は科学的検証を目指したとある。
本書は「ベジタリアンになれば、みんながハッピーになる」とか「動物実験は即刻廃止すべき」とかいった主張を展開する目的からではなく、「科学的根拠(エビデンス)」という視点から、ベジタリアン食を医学・栄養学的に検証した内容になっています。
確かに科学的論文をたくさん集めて検証はしているけど、どうにも強いバイアスがかかっている気がしてしょうがない。著者は自分がベジタリアンであるかや、これまでどういう立場で食の問題に携わってきたかを明かしていないという時点で、すでに公正さに欠ける印象を受けるんだよなぁ。主観的な主張は一見注意深く取り除かれていて抑制した文体で書かれているけど、言葉の端々に「ベジタリアン擁護まずありき」というニオイがプンプン漂っている。
例えば、もう聞き飽きたけど、畜産は環境負荷が高いという議論。北米の場合、穀物と同じエネルギーを得るためには家畜に最大10倍の穀物飼料を与えなければならないという指摘。その結果、「環境に10倍の負担を強いる計算です」とある。環境に対する負担というのが科学的な指標であるのか、もしそうだとすれば、それは何を意味しているのかハッキリさせてほしい。
牛の発生させるメタンについても、「地球温暖化に関して無視できない量になっている」という指摘はまだいいにしても(いや言い過ぎじゃないかと思うけど)、「このまま畜産業を規制せず、家畜の肉を食用として利用していると、牛のゲップで出るメタンの地球温暖化作用によって、人類が滅びるかもしれないというわけです」とか言われたら、もう笑うしかない。科学的な論文を大量に引用しておいて、こういう科学的検証とはとても言えないような主観的な、誇張された主張を忍び込ませるのは科学的に不誠実な態度ではないだろうか。
もっとも納得いかないのが、
ベジタリアン食による具合的な効能効果として、肥満、狭心症や心筋梗塞などの虚血性心疾患、高血圧、高脂血症、糖尿病、前立腺ガン、大腸ガンなどが少なくなるのです。
という主張。肉食は飽和脂肪酸やコレステロールが多くなりがちだというのは分かるけど、それは脂身の肉を食べ過ぎて食物繊維を取らないとこれらの疾患にかかるリスクが高まるという意味でしかないのじゃないか。成人病の一番のリスク因子は肥満だというし、だとしたらこうして並べ立てている疾患は肉食による結果なのか肥満による結果なのか、よく分からない。トートロジーっぽく見える。肉食は太る、太ると病気になる。じゃあ、太ってない適正体重の人で、野菜や果物を豊富に取る非ベジタリアンはどうなんだ、と。
そもそもベジタリアンは健康に留意する人たちだから、食生活は正しく肥満も少ないだろう。酒もたばこもやらない人が多いに違いない。そういう影響を排除して補正した研究もあるようだけど、引用されているデータを見ている限り、それは一部にすぎないようだ。
笑ってしまうのが「ビーガン」と呼ばれる絶対菜食主義者。ベジタリアンの基本的な定義は「肉を食べない」ということだけで、卵や牛乳を摂取する人(ラクトベジタリアン、オボベジタリアン)、魚を食べる人(ペスコベジタリアン)など、さまざま。いちばん原理主義的なのは動物性の食品を一切退けるビーガン。
ビーガンというのは、かなり注意して栄養を摂取しないと必須の栄養素が欠けてしまう。ビタミンB12についてはサプリメントを摂ったりしないと健康を害する食生活になるらしい。カルシウムや必須アミノ酸の吸収度も低いため、調査研究によって明らかにされた吸収度を上げる工夫が必要なんだとか。
ベジタリアンといえば「ナチュラルな食生活」というイメージがあるけど、栄養学の発達を待って初めて可能になる食生活なんだから、きわめて人工的だ。肉食のしすぎは悪いかもしれないけど、進化上食ってきたものが悪いわけがない。良質のタンパク質でミネラルも豊富。じゃなきゃおいしいと感じるわけがない。
著者は繰り返し繰り返し、北米の栄養士会が発表したガイドラインを引用する。
適切に準備されたベジタリアン食は、健康に有益であり、必要な栄養素を満たしており、いくつかの疾患の予防や治療にも利点がある。
まあ、そのとおりなのでしょう。ベジタリアンはかつて誤解されていて、無茶なダイエット(というのは節食という意味じゃなくて食の構成という意味)で子どもを栄養障害や発育障害に陥れた親のニュースが多数センセーショナルに報じられた過去から、ベジタリアン食では人間に必要な栄養素はまかなえないという世間の誤解が、特に北米にあるというのは分かるし、それは医学的には誤解である可能性が高いというのも分かる。しかし、そのことと、肉食を断つことに積極的なメリットがあるかどうかは全く別の話。
比較しないといけないのは、自分が食べるものについてあまり気を遣っていない一般的な「非ベジタリアン」ではなくて、「適切に準備された非ベジタリアン食」を食べる健康派の非ベジタリアン。特定の疾患で統計的に有意な差が出るかどうかではなく、トータルな平均余命で比較しないと意味がない。肉食が罹患リスクを下げるような疾患はないのだろうか、そういう研究がないのは、むしろ社会的なバイアスがかかっているのではないのだろうか。
バイアスがかかっているんじゃないかというのは、例えば、著者のこういう文章を読むと疑いたくもなる。
私見ですが、アメリカでは少なくとも、都市部在住で中間層以上のベジタリアンのほうが、たとえばテキサス州でステーキとファーストフードしか食べたことのない中間層以下の非ベジタリアンよりは、味覚が確かでしょう。さらに、個別のケースでは、ベジタリアンとして育った子どものほうが、しっかりした味覚をもっているようです。
「味覚が確か」とか「しっかりした味覚」が何を意味しているのか不明。いや、何となく言わんとしていることは分かるし、ある意味まったく同意するのだけど、こんな主観のもとに、いくら研究調査を進めても、あるいはデータを集めても、そりゃベジタリアン食に都合のいい結果しか出てこないよなと思う。こういう態度って、かつて肉食こそあるべき食事の姿として推奨してきた栄養学の人間と同じじゃないのか。つまりイメージで言ってるだけで科学とは関係ない。貧しくて肉を食えない国の奴らとは違って自分たちは肉を食って健康的だと思ってた。ところが日本食がブームになったりすると一気に肉食が攻撃される。科学的装いをまとっているけど、結局は「何を食うか」なんて時代時代の流行に左右されているだけとちゃうんかいな。
一般的な栄養学の入門書として、とてもタメになった。しかし改めて考えてみると、ぼくの食生活は脂質とコレステロール、塩分が多めだろうというこれまでの認識は変わらないにしても、肉を食べ過ぎなどということはなさそうだなと思い至った。朝ご飯を観察してみると、実は動物性食品はバターだけということもある。そもそも、日本人は伝統的にペスコベジタリアンに分類していいいぐらい、魚介類をよく食べている。大豆もよく食べている。アメリカ人とはだいぶダイエットが違う。
ところで著者によると、19世紀なかばの造語である「ベジタリアン(vegetarian)」という言葉を菜食主義者と訳すのは適切ではないそうだ。この単語は「vegetable + arian」ではなく、元々はラテン語由来の「ヴェゲトゥス(vegetus)」という言葉からきていてvegetusというのは「完全な、健全な、生き生きとした、活発な」という意味だそうだ。これはいくら何でも無茶な主張だ。最初に命名した人が、ラテン語を意識していたかどうかは分からないけど、英語話者に聞いてみたら、日本人同様に「まさか!」と言うに決まってるじゃないか。
ベジタリアンが胡散臭いのは、実際にはたいした科学的根拠もないのに「自分は覚醒した正しいライフスタイルを送っているのだ」というナチュラリストやエンバイロメンタリストに通じる、不遜で傍目には痛々しい選民意識が潜んでいるからだと思う。環境活動家の浅薄さ、スピリチャル系の皮相さ、そういうものに似たものを感じてしまって、どうも一部のベジタリアンには嫌悪感を催す。
「正しく食べよう」ということは、偏食せず、多くの品目を食べ、野菜や果物を豊富に取りましょうということでいいんじゃないかと思う。まあ、ぼくは反省するべきところが多々あるけど……。
2007年04月13日
パチンコ、特許
佐藤仁、『パチンコの経済学』(東洋経済新聞社)
高校生のころパチンコ産業は「オモテ10兆、ウラ10兆」と聞いたけど、いまやパチンコ産業は30兆円の市場規模。出版の2兆円市場なんて鼻くそみたいなもんだし、比較的大きなアパレルでも20兆円。で、そんな巨大産業なのに、いわゆる業界全図的な本では、その概要すら紹介されることがないという謎に包まれた世界。
というわけで、パチンコ業界で長年要職にあった著者による業界解説の本書は貴重な本だ。パチンコやパチスロには興味がないけど、産業としてのパチンコや、それを取り巻く諸問題には関心があるよ。
パチンコ産業は80年代から90年代にかけて成長が著しく、それは射幸性を高めた機械の導入が進んだからだという。ところがパチンコ人口自体は横ばいからじり貧に転じている。つまり、パチンコは大衆の娯楽から一部のマニアが大金をかけて大きく勝ったり負けたりするギャンブルになってしまった。ところが、それでは未来がないので再びギャンブル性の高い世代の機種は、よりゲーム性の高い機種へ置き換えられようとしている。さて、いったん離れた顧客はホールに戻ってくるのか。
警察と業界のいびつな関係とか、新規参入を不当な特許戦略で拒む業界の閉鎖的な体質、パチンコ機開発メーカーは高い利益率を上げるのにホールは薄利であるうえに顧客獲得競争で疲弊、まあ、もともと換金方式というグレーなやり方で違法性にふたをしてきたような業界だから自浄能力とか体質改善とか、そういう動きが出づらい。
パチンコ産業がどうこうという視点ではなく、世界的な動きであるというゲーミング産業という文脈で、著者はいろいろと提言している。視線が高い。何でも、ライトなギャンブル産業は世界的には合法化の動きにあって、非常に成長している分野なのだとか。海外の事例紹介を交えて日本のパチンコ産業が進むべき方向性の1つを提示しているのは、非常におもしろい。
しかしなぁ、ギャンブルが巨大産業……、そのことにゾッとするものを感じる。巨大なる無駄。産業は人間の生活の糧になる何かでなければならない。そんな気がしていたけど、でも、よく考えてみれば、ハリウッドの映画産業だって人間の腹を満たしたり、渇きをいやしたり、病気を治したりはしない。アパレル業界だって寒さをしのぐ衣服を売ってるというわけじゃない。
無駄な生産や消費ということでいつも思い出すのがイエメンのカート。
アラブの中でももっとも貧しい国の1つ、イエメンではGDPが300ドルもない。それなのにGDPの3割とか4割はカート関連の産業だという。カートは向精神薬の一種で嗜好品。軽い麻薬だ。日本人が仕事帰りにアルコールでノミニケーションするように、イエメンの男たちは昼間っから友人たちとカートを口に含んで語らい、夕方には恍惚とした気分のなかで過ごすという(在イエメンの外務省職員の手記が参考に)。
なんたる無駄! パチンコ産業なんて、イエメンのカートみたいなもんじゃないか! と、思っていたんだけど、まあ人間はパンのみにて生きるにあらず。映画も見ればパチンコもやれば、ジャグリングもやるんだしなぁ。
それにゲームと同じでギャンブル機器は海外に売れる。日本のメーカーなら、いい機械を作れると思う。観光資源としても非常にいいと思う。
丸島儀一、『キヤノン特許部隊』(光文社)
新宿に行ったとき、ついでに寄ったカメラ屋で何となく買った本。Map Cameraにはカメラに関係している本は何でも置いてある。土門拳の仏像の撮り下ろし本とか初めて見たけど、土門拳ってエッセイストとしても才能のある人だったんだ、知らなかった。
カメラ屋においてはあったけど、この本はカメラやレンズ設計の話が詳しく出てくるわけではない。むしろ、戦後、カメラ事業で成功しはじめていた経営陣が「売ってしまえばそれまで」のカメラよりもランニングコストで食っていける事業としてコピー機をはじめとする事務機器ビジネスに乗り出し、グローバルカンパニーに成長する様を描いた本。その成長の陰には丸島という特許マンがいた。
なんかプロジェクトXに出てきそうな人だなと思ったら、ほんとにプロジェクトXで取り上げられたことがあったらしい。プロジェクトX 挑戦者たち 第6期 突破せよ 最強特許網 新コピー機 誕生。
なんと言ってもおもしろいのは第1章。特許でがちがちに守られたゼロックスのコピー機で使われている「カールソンシステム」とは違う「NPシステム」でコピー機を実現したキヤノンの技術者と、その後のゼロックスとの特許戦争の話が圧巻。非常にプロジェクトXな浪花節だ。
丸島氏が、最初はおっかなびっくり渡米していたところから、徐々にタフニゴーシエーターに成長していく様が興味深い。プレゼン上手で滔々と持論を語り、時には脅しをかけてくるアメリカ人に対して、丸島氏は堂々と渡り合うようにまでになる。英語はむしろ自分では使わず、必ず社内の通訳を連れて行く。英語が分からないわけではないので通訳を待つ間に考える時間を稼ぐことができる。あるいは戦術として、通訳の誤訳を指摘して相手にプレッシャーをかけるということもやったらしい。おまえ、この人がそんな無茶なことを言うわけがないだろう、おまえの誤訳だ、と叱りつける。そうすると日本語の分からない相手でも何か怒っているということは伝わる。英語で反論するよりよほど効果的だという。なるほど。身内に対してなら激怒しても、後で事情を話して謝れば済むわけだ。
クロスライセンスを結ぶときの駆け引きがおもしろい。例えば、製品開発のためにある会社の特許が必要だとしても、足下を見られないために、決して「これこれの事業をやるので特許がほしい」などと言ってはいけないという。まず、相手の製品をばらして自分のところの特許を使っていないかを調べる。もし使っていたら、難癖をつけてからクロスライセンスに持ち込む。したたかな……。
この本が書かれたのは少し前で、ちょうど日本でも知的財産戦略大綱が出てプロパテントが騒がれ出したころ。そうした日本の特許政策に対して、かなり厳しい批判をしている。ただアメリカ追従のプロパテントには国家戦略が欠けている、と。
もともとレーガン時代にアメリカがプロパテントに傾いたのは、プラザ合意以降、円安を背景に日本が対米輸出を浴びせかけて貿易黒字をふくらませていた時期。日本の護送船団方式を駆逐し、官民をあげてプロパテント政策で先端産業のアドバンテージを確保しようという政策は、露骨に日本を標的としたものだったという。アメリカは時代時代でプロパテントとアンチパテントの間を揺れていて、それは常に国益に沿う形でバランスを取ってきた。ところが日本のプロパテント政策は、そうした国家レベルでの視点が欠けているという。
日本版バイドール法についても片手オチだと指摘する。日本では産学連携が課題と言われて久しい。産学協同の研究成果によって得られた特許を「国は放棄できる」と定めているのは全然弱すぎて、むしろ国が特許を一切保持できないようにするべきだという。
そのほか、特許侵害の損害賠償裁判のときには、米国のように実損の3倍程度の賠償責任を負わせる懲罰的損害賠償が必要だとか、今後の技術の世界ではともかく標準準拠が重要だとか、傾聴すべき提言をいくつも語っている。
アメリカ人と対等に渡り合うためにと、アメリカ人のようにウイスキーをあおり、ステーキを食べる生活に切り替えたという話に時代を感じる。いまアメリカ人はヘルスコンシャスでライトな食生活を志向している。丸島氏は今でもステーキを食うそうだ。
2007年04月08日
読後感あれこれ
網野善彦、『中世再考』
これは、おもしろい本だ。中世の日本の庶民は、一般に思われていたよりも貧乏ではなかったし、抑圧されてもいなかったし、移動の自由もあった、「市民」的な存在だった。活発な市場経済だって江戸に始まったわけではないぞ。ということを、民具調査や限られた文献による調査から明らかにする。日本昔話じゃないけど、中世の日本の庶民といえば農民しか思い浮かべないけど、漁民や都市民、移動民がたくさんいたし、大陸や半島との交易によって財をなしていた人たちも相当いたらしい。
飯倉晴武、『地獄を二度も見た天皇――光厳院』
やっぱり気になる動乱の南北朝時代。
吉田太一、『遺品整理屋は見た!』
自殺者や孤独死する老人がいっぱい。惨殺現場も。しかし総じて想像できる範囲の話ばかりでタイトルから期待するほどはおもしろくなかった。それより、あまりにも文体がブログっぽくてビックリした。最近はオチのない短い文章が流行しているのか。陳腐な人生訓や、とってつけたような優等生的な政策提言にも鼻白む。
友野典男、『行動経済学――経済は「感情」で動いている』
人間は新古典派経済学が前提する合理的な「経済人」などではなく、様々なバイアスを受けて行動する。その法則を探りだし、モデル化しようとしてもがいている比較的新しい研究分野のコンパクトな入門書。めちゃくちゃおもしろい。非常に多数の実験や研究成果が紹介されている。
Daniel Gilbert, "Stumbling on Happiness"
誰しも、過去に自分がどう感じたか、未来にどう感じるかを想像するときには現在どう感じているかに強く影響される。そのために判断を誤る。それは不幸だと思う。ぼくはもっと合理的になりたいし、そのほうがより幸せだと思うんだけどなぁ。
Steve Cohen, "Win the Crowd: Unlock the Secrets of Influence, Charisma, and Showmanship"
マジシャンが書いた対人コミュニケーションのハウツー本。いかに自分を他人に見せるかについて徹底して考え、さまざまに実践してきた人。うーん、長年の経験から血肉となったノウハウってのは、やっぱり重みがある。それがそのまま他の人でも使えるかは別として。別に「ビジネスマンのあなたには、このテクニックはこう使える」と、無理にビジネスマンに当てはめなくてもいいのに。
島田卓、『インドビジネス――驚異の潜在力』
そろそろインド本も1冊ぐらいは読もうと思って手に取ったけど、1冊目としてはイマイチだったかも。「インドでビジネスやるってのはねぇ」というインド通オヤジの自慢げなアドバイスを聞かされただけという感じ。2ページに1箇所ぐらい「日本語がヘン!」という朱を入れたくなるほど酷い日本語だった。インド駐在が長かったからなんだろうか。
2006年12月29日
ロウアーミドル
![]() | 「明治」という国家〈上〉〈下〉 司馬 遼太郎 日本放送出版協会 |
晩年の司馬遼太郎が「義務感のように感じて」明治を語った本。何回か連続した講演をまとめた口語文体の本で、読みやすい。語るほうも肩の力が抜けていて、寄り道、雑談いっぱい。ぼくは昔から本論から離れて寄り道してくれる先生が好きだった。司馬氏が語る人物談は本当におもしろい。
日本には明治という時代があったのだと、ある時期の動きを一国の歴史上に位置づけるというよりも、西欧列強に植民地化されてゆくアジア圏の辺境に、きら星のごとく世界史に登場した文明を語っているという感じ。モンゴロイドのある民族が、不格好ながらも自らの意志で独立国家を作り上げたという事実は、日本の歴史上だけで語るような話しではなく、世界史的にも意味のあることだというのが司馬氏のメッセージ。
![]() | 階級にとりつかれた人びと――英国ミドル・クラスの生活と意見 新井 潤美 中央公論新社 |
郊外を意味する英語のsuburbiaには、単にロンドン郊外を意味するだけじゃなく侮蔑的なニュアンスを含んでいるという。日本語の「いなか」という言葉にも、ややネガティブな意味が込められることがあるけど、そういう話ではなく、suburbiaはロンドン郊外に住む、ロウアーミドルと呼ばれる階級の人々の生活様式や習慣を軽蔑して指す言葉。イギリスには中流といってもアッパーミドル、ミドルミドル、ロウアーミドルの区別がある。ロウアーミドルと呼ばれる層がどうやって誕生し、なぜ、どんな風にアッパーミドルからコケにされてきたのかが、よく分かった。ロウアーミドルって、上昇志向はあるんだけど、いかんせん能力も教養も金もなく、上流階級の真似をしてみるんだけど不格好。芸術も分からない。アッパーミドルは、自分達はアッパーではないかもしれないけど、かといってロウアーミドルとは違うのだ、という意識を強くもっていて、そのためにわざわざ劇場でロウアーミドルを笑いものにするような芝居を見たりする。笑われるのはロウアーミドルが実際より背伸びをして気取るからであって、むしろワーキングクラスの人々のほうが好ましいと考えられている。
ジョージ・オーウェルだとかメリーポピンズ、あるいはミスター・ビーンズだとか馴染みのある例で、イギリス人に抜きがたく潜んでいる階級意識をひもとくあたりが、かなりおもしろい。オーウェルには『1984年』を代表とするSF小説の一群と、階級小説とでも言うべき一群の小説があるという。客観的には自らはアッパーミドルの仲間入りをしたけれど、一生かかって、そのことを繰り返し小説で自分に確かめるような物語を書いていたという。上昇志向がある若者が結局は挫折して終わるといった皮肉なストーリーを多く物し、「ロウアーミドルはどうあがいてもロウアーミドル」というイヤな小説を書いたという。自分は抜け出したくせに。
読んでいて思ったけど、いまの日本ってロウアーミドルとアッパーミドルの乖離みたいなのが起こっているんじゃないかと思った。1億総中流といっても、もともと上流の人達はいたし、今でもいる。で、そうじゃなくて本当の中流部分、ここは確かにフラットだったのかもしれない。みんな右肩上がりに給料が上がったし、公立の小中学校のクラスでは親の職業は多種多様だった。
ところがこの階級の区分がクッキリしはじめているように感じる。底辺ホワイトカラーのロウアーミドルと、勝ち組と呼ばれる都市部の高所得者層のアッパーミドル。勝ち組だなんていったって、本当の金持からしたら大した金をもってるでもないし、まして上品ぶったところで上流なんかでもない。高給取りだといっても、せいぜいが会計士、医者、弁護士といった程度の話のミドルクラス。でも、この層の人達は底辺ホワイトカラーとは、明らかにライフスタイルが違って来ているし、差別意識とは言わないまでも、「ロウアーミドルとは違う」という意識を持ち始めているように思う。
2006年12月20日
世界を見る目?
![]() | 世界を見る目が変わる50の事実 ジェシカ・ウィリアムズ 草思社 |
目次には、こんな「事実」が並ぶ。
- 日本女性の平均寿命は84歳。ボツワナ人の平均寿命は39歳
- 肥満の人の3人に1人は発展途上国に住んでいる
- 先進国で最も妊娠率が高いのは、米国と英国の10代
- 中国では4400万人の女性が行方不明
- ブラジルには軍人よりも化粧品の訪問販売員のほうがたくさんいる
- 世界の死刑執行の81%はわずか三か国に集中している。中国、イラン、米国である
- 英国のスーパーマーケットは政府よりも多くの個人情報をもっている
- EUの牛は一頭につき1日2.5ドルの助成金を受け取る。年額にすると世界旅行が可能だ
- 70か国以上で同性愛は違法、9カ国で死刑になる
- 世界の5人に1人は1日1ドル未満で暮らしている
ぼくは数字好きだから、何かおもしろいと思える統計でもあるかと思って古本屋で買ったけど、どれもこれも、当り前っぽくてツマラン。
この程度の事実の羅列で世界を見る目が変わるのだとしたら、それはナイーブ過ぎると思うんだけど、どうやら著者は真剣なようだ。読者をバカにしていると思う(あるいはバカしか読者として想定していないらしい)。「ほら、先進国のあなたは知らなかったでしょう。私達は特殊な世界に生きているのよ」と得意気に言う感じが、何と言うかホワイトバンド的な頭の悪さ丸出しで、読んでいてイヤになる本だった。当り前のことをウィットのかけらもないレトリックで並べたてて得意になるばかりで、じゃあ、何ができるかという提言がほとんどない。これじゃあ、中学校の優等生の作文だ。
他国の文化的伝統について語るときにも、たぶん著者が気づいていない欧米人特有の自文化至上主義がにじみでているように思えて、そのことでもウンザリ。
目次に50の事実が掲載されていて、そういうのをパッと眺めるのはいいことだと思う。本文を読まなければ、そんなに悪くない本なのかもしれない。
2006年12月15日
警察裏物語
![]() | 警察裏物語 北芝 健 バジリコ |
ちょっと警察が好きになった。
「裏」物語というより警察官の現場話や武勇伝が主体の本。章構成や文章がダラしなさすぎて、本としての体裁をほとんどなしていない。明確なオチのないエピソードも多くて、ブログのような感じ。聞き書き? 編集者は何をやってるんだ……。というマイナス面はあるけど、話の内容自体は結構おもしろい。警察官や刑事の素顔や、現場や取調室での刑事たちの行動や被疑者とのやりとりは、あまり一般に知られていない部分で興味深い。あまりに赤裸々に語る北芝氏の存在を、ひょっとしたら疎ましく思う人も警察組織のなかにはいるんじゃないだろうかという気がするぐらい。そういえば、経歴詐称疑惑がかけられたのは、そういう妬み・怨みを買ってのことだったような気もする。
最近北芝氏はテレビにもよく出ているらしいけど、地上波テレビを週に1度見るか見ないかというぼくにとって、北芝氏と言えばサイゾーの連載の人。とにかくエロくて腕っ節が強くて、ストリートワイズの塊といった印象。その動物的嗅覚で警察官の人間模様や警察組織全体の、上っ面を見ているだけでは目に見えてこないような構図というか見取図をパッと描いて一般人に見せてくれる手際の良さがある。なるほど、刑事ってそんな風に考えて行動する人達なのかとか、キャリアとノンキャリアの微妙な関係だとか人事上の慣例、あるいは警察組織に多い熊本県人たちの話だとか、同じ元警察官といっても、ぼんやりしてるだけの人間だったら、こういう組織の裏の構図は一生かかっても見えて来ないんだろうなと思う。
北芝氏の警察組織や元同胞に対する愛情は深くて、組織が持つ腐った部分を弾劾するのも、それでより良い警察になってほしいという思いがあってこと、というのがよく伝わって来る。だから、この人の苦言はとても爽やかだし、正論が多い。
ひとつ強烈に印象に残った話。東大卒なのにあえて「自分の力を試したい」とノンキャリアで警察官になった人の話。青白きインテリは厳しい現場で、まったく芽が出ないまま組織を去ったという。北芝氏は、人間というのは進むべき道を誤ると能力がある人でもそれを発揮できずに終わるんだなと、しみじみと思ったと書いている。キャリアは経済犯や政治犯を扱う捜査2課。殺人、強盗など凶悪犯を扱う捜査1課の課長というポストは必ずノンキャリアの叩き上げの刑事が抜擢されるらしい。そもそも人種が違うわけだ。
2006年12月12日
マーケティングの神話
![]() | マーケティングの神話 石井 淳蔵 岩波書店 |
消費者には意識するしないにかかわらず明確なニーズがあって、マーケティングというのは、それを調査・分析し、製品開発に活用すること、という自明のように思えるマーケティングの前提というのは、実はかなり怪しいですよ、というところからスタートする、ちょっと変わったマーケティング入門。
第1章の事例がおもしろい。
例えば花王のアタック。洗濯用洗剤は、ぼくが子どものころには特大コーンフレークかというほど巨大な箱に入っていた。それが1990年代に花王が少量でも洗浄力の高い洗剤を開発し、小型化される。小型洗剤がヒットとなってからは「スーパーで買って持ち帰るときの負担を軽減」だの「家での置き場所が少なくて済む」だの「流通のコストの削減」だのと、あたかもそれが開発の目的であったかのように語られる。ところが消費者というのは、そもそも小型化が可能だなどと思っていないから、小さくしてほしいなどというニーズはなかった。花王にしても、小型化は開発の主眼ではなく、結果でしかなかった。技術開発の面から見ると、小型化には洗浄力を高める酵素の研究開発があったものの、むしろ花王がCMでこだったのは酵素パワーを訴える「白さ」であり、洗浄力だった。
別な例にサンヨーの静御前という洗濯機がある。1987年に登場したとき、時代背景として「家事の夜行化」、「集合住宅における騒音問題」があり、そのために静音化のニーズが消費者にあり、水流の研究を始め、商品化にこぎつけたというようなストーリーが、もっともらしく語られる。でもこれは、この本のタイトルにもなっている「マーケティングの神話」というべきもので、静音などという評価軸が重要だなどとは、消費者はまったく思いもしていなかったし、開発したサンヨー側も認識していなかった。グループインタビューをしても高速洗濯、洗浄力、経済性のどれに重点を置くか決められなかった。
こうした例は消費者に聞き取り調査をしても、そこからニーズを探り出すということには、おのずと限界があり、ヒット商品開発には開発した人々すら気づかなかったような偶然が関係していることを示している。マーケティング関係者が語るもっともらしいストーリーは、後から作ったお話に過ぎないことが多い。
もとの商品の利用目的からは想像もしなかった利用形態が出てくることなども含めて、ヒット商品というのはマーケティングの理論や調査から出てくるほど簡単なものじゃない。1980年代後半に流行したTOTOのシャンプードレッサーは、中高生の朝のシャンプー目的で使われ大ヒットとなった。でも、もともとは若い開発担当者が作った思い付き的な商品で、販売予測は渋かった。据え付けも難しく、工務店も熱心でなかった。つまりTOTO自身も当初は製品の意味を理解していなかった。日本の洗面台の変化を見ると、「洗面台のボールサイズ拡大→水が跳ねなくなる→洗面と歯みがき以外の用途に使いはじめる」という大きな流れがある。さらにこれに三面鏡の衰退という変化もあって、シャワーのついた大きな洗面台は時代の当然の帰結であるかのように後から振り返ると思える。でも実際にTOTOが、「消費者による意味の読みかえ」とも言うべき変化に気づくには製品発売後数年かかったという。
商品開発の現場にインタビューした数々の事例は大変におもしろい。でも、以降の章で展開される理論というか、ヘ理屈が……、なんともできの悪いポストモダン的お話という感じで脱力。ポストモダンで読み解くというからには、文章や修辞のドライブ感とか、お話としての楽しさがないとダメだと思うんだけど、どうも下らない。読んでいて「為にする議論」感が強すぎて辟易。例えば、商品の1次的な利用価値と2次的な利用価値に本質的な違いはないという強弁。著者は入浴剤の例を挙げて、ぷちぷちと音がする属性は、もともと入浴剤にとっては2次的な価値でしかなかったのが、他社製品との差別化要因、競争的価値になっているという。
1次的価値で差がなくなってくると、2次的な競争価値が決まるというのは、学者先生に言われなくても当り前のことで、性能差がなくなったパソコンを消費者がデザインで選んでいるなんていうことは、現場の誰でも知っていること。ビジネスマンにしてみれば常識みたいなことを、くどくどと言うだけならまだしも、1次的価値と2次的価値に本質的に違いはないとまで言われると、もう何が言いたいんだか分からない。いいよな、学者はモノを売って生活してないからなと思ってしまう。マウスカーソルを動かせないマウスとか、温浴効果のない音だけの入浴剤とか、洗浄効果のない洗剤とか、それはもう別ジャンルの商品だろう。1次的価値というのはその商品が成立する必要不可欠の条件。それが2次的価値と本質的に違わないわけがない。言葉遊び、理屈遊びもほどほどにしてくださいよ、と言いたい。そんな遊びから、役立つ方法論や知見が得られるわけでもなし。
というように、学者先生が現代の複雑なモノ・サービス作りの現場を見て、むりやり理論を考えてみましたという現状追認の本に思えてしかたなかった。こんなことなら、むしろ標準的なマーケティング理論の本を読んだほうが良かったかもとすら思った。標準的アプローチが通用しづらくなっているとは言っても、やるのは無駄とまではこの本でも言ってないし。
2006年11月26日
トリックスター
![]() | トリックスター 「村上ファンド」4444億円の闇 『週刊東洋経済』村上ファンド特別取材班 東洋経済新報社 |
早い時期から村上ファンドを追い続けた週刊東洋経済の記者たちが一連の騒動をまとめた本。素晴らしい取材力と構成力。村上氏の子ども時代や学生時代についても、よく調べている。学生時代の村上氏の言動から、彼が生来の山師だったことがよく分かる。
昭栄や東京スタイルといった村上世彰のデビュー戦はもちろん、世間の耳目を集めたニッポン放送や阪神電鉄の株大量取得まで含め、村上マジックの本質はどれも同じだという。
- PBR1倍割れや不動産・キャッシュなどを多く持つ資産リッチ企業の株を取得
- マスコミを利用し資産価値が株価に反映していない割安銘柄だと騒ぎ立てる
- 株価上昇後に一気に売り抜ける
「もの言う投資家」というのは、単に騒いで金儲けするだけの目立ちたがりやでしかなかったということ。無為無策で放漫経営を続ける企業の株を買い占め、資産を有効活用させるために提言するということ自体は、社会にとっておおいにプラスだし、そのことで財をなすのは正しいことだと思う。この意味で村上世彰は正論しか言っていない。
でも実際に村上容疑者がやっていることを見れば、この正論は、それこそ金儲けのための方便でしかなかったことがよく分かる。株式売買や会見での発言といった客観的データで追って行く著者たちの立論に触れてみれば、村上ファンドの違法性はグレーゾーンなんてもんじゃなく、真っ黒に思えて来る。
米国のように包括規定を適用するかどうかという問題は、村上ファンドの違法性がどうこうとか、そういうレベルの話ではなくて、もっとずっと大きな社会・経済のシステム設計にかかわる話で、そういう意味で、これは日本の証券市場のターニングポイントになるような事件なんだろうなぁ。
2006年11月23日
読めない本
読んでいてツマラナイ本は、眠たくなるというばかりじゃなくて、本を読もうという日々の気力を奪う。電車待ちのときに、「どうせ15分ぐらいだから」と、かばんから取り出すのが面倒だなと思うような本は捨ててしまったほうがいいんじゃないだろうか。
ふだん、4〜10冊の本を並行して読んでいるけど、そのうち3冊ぐらいがツマラナイと、読書が楽しいものだったということすら忘れはじめる。もったいない。
「現代中国が一気にわかる」「会社法改正ポイントまるわかり」「知っているようで知らない日銀」という類の本は、ぼくにとって気力を奪う典型だと最近つくづく思い知った。パラパラと本屋で眺めると、確かによくポイントがまとまっていて「これを2時間で読めば、ざっくり分かって賢くなりそう」と思うんだけど、実際には最初の数ページで嫌になってしまうことがほとんど。教科書的なものが嫌いというのではなくて、たぶん、何の意外性も知的刺激もない単調さが耐えがたい。
ロースクールに通う友達に、法律関係の入門には伊藤真がいいよと進められて読んでみたけど、たとえば憲法の概説書なんかは、あまりにくだらなくて脱力した。伊藤真は司法試験を目指す人たちには絶大な人気があるらしく、確かにコンパクトに要点をまとめてくれているのは便利なのかもしれないけど、しょせんは実務家を目指す人のための参考書。憲法の骨子を最短時間で把握して試験に備えるにはいいんだろうけど、憲法を所与としている時点で、ぼくのような天邪鬼には、この上なくツマラナイ。たとえば、憲法学者の奥平先生と宮台真司の対談に比べると、知的コーフン度合において、絵本と経典ぐらいの差があるように思える。
ということを考えると、チャート式で平易に書かれた概説書より、多少無理してでも、その分野でもっとも議論されている最先端のことを取り扱う本を選んだほうが、ずっと読み終える確率が高い。たとえ網羅的でなくとも、そのほうが、ずっとその分野の理解にも役立ちそうだ。
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うちのムスメは早熟なので分厚い本もスイスイ |
ミカン
J.ハーバーマス、三島憲一訳『近代――未完のプロジェクト』(岩波書店、2000)
文庫本はいいなぁ。お尻のポケットに入る。でも、入れているとボロボロになる。市民的不服従について述べた章だけ少し読む気になった以外は、どうにもこうにも。
2006年11月22日
オランダモデル
![]() | オランダモデル―制度疲労なき成熟社会 長坂 寿久 日本経済新聞社 |
イギリスやオランダ、そしてアメリカといった西欧先進国は、いずれも前世紀末に経済が停滞し、そこから抜け出すという体験をしている。英米は「小さな政府」や「規制緩和」をスローガンにして構造改革を押し進め、経済的復興には一定の成果を収めたが、所得格差の拡大や失業率の増加といったマイナス面があった。
いっぽうオランダは、欧州のOECD加盟国が2ケタの高い失業率にあえぐなか、90年前半は6%前後の低い失業率を維持。インフレ率も低く、福祉関連の増大した支出による財政逼迫も目に見えて改善されていく。 80年代に「オランダ病」とまで言われた合併症は、魔法の治療薬で一気に快癒する。
そんな90年代のオランダの構造改革の成功を解説する好著。
魔法の治療薬は、1982年に政労使の3グループ間で取り交わされた「ワッセナーの合意」というもので、政労使の3者がそれぞれ苦い薬を一緒に飲みましょうという合意だった。
労働組合は賃金上昇抑制に同意する。経営者は労働時間短縮を進めるいっぽうで、パートタイム雇用の創出をはじめとする雇用促進に邁進する。政府は財政支出の抑制と、企業の国際競争力を高めるための環境作りをするというものだった。
雇用形態による待遇差別を撤廃しようという社会的合意を、他国のことながらとても羨ましく思う。正社員だとか契約社員だとか、バイトという雇用形態の違いによる賃金格差をできるかぎりなくして、それぞれの労働者が家庭と仕事のバランスを主体的に決める。オランダでは、欧州他国同様に共働きが多いものの、それはけして1+1という共稼ぎではなく、たいていは1+0.5だったり、0.7+0.7だったりするという。家族に時間を割くという選択をする人が多い。フルタイムとパートタイムの間に、実労働時間による賃金以外の差がないとしたら、確かに全員がフルタイムを望むとは思えない。
日本の多くの企業では、それなりにいい給料をもらおうと思うと、正社員として、常に頭ひとつ抜き出るぐらいがんばらないといけなかったりする。裁量労働だとかホワイトカラーエグゼンプションだとか言って長時間労働を事実上強要される。本当は給料も労働時間も7割にしたいと思っている人が多いと思うけど、そういう選択肢は日本企業には存在しない。周囲に認められるぐらい働いて10割もらうか、手を抜いて居場所を失うかのどちらかで、中間というのは、あまりない。中間っぽいところで、うまーく息を殺しているタイプの人もいるにはいるけど、それは構造上それが可能だからやっているというより、うまく機能していないシステムの隅に巣食うニッチ住人という感じ。
日本の状況はともあれ、このワッセナーの合意で重要なのは、利害が対立しがちな三者が、コンスタントな対話を通して最善の解を求めていくというコンセンサス醸成のプロセスで、そもそもそうした合意が可能となる背景には、オランダ社会の基底にある社会的DNAが関係しているのではないか、と著者は指摘する。
社会的DNAというのは、1つは「ポルダー」の歴史によって培われた話し合いの文化があること。13世紀ごろから干拓によって国土を作っていく過程で、治水管理の必要性から民主的な合議体制が発達したという。互いに自分の土地の水路の水位を管理し、データをもとに話し合うという風土が、都市国家的存在だった時代から存在している。
治水というのは予測できない自然現象を相手にする。氾濫するときには氾濫するのだから、いかにコントロールするかが重要。オランダに赴任した著者は、かの国の人達が「コントロール」という言葉をよく口にするのに気づいたという。コントロールという発想は、犯罪への対処なんかでも同じ。犯罪というのは処罰や取り締りを厳しくすればなくなってハッピーというような単純なものでもないので、昨今の日本や米国のように、漠然とした社会不安を言い募るメディアに煽られて、ことあるごとに厳罰化や取り締まり強化を叫ぶ不合理な人間は少ないらしい。麻薬や売春は、取り締まってなくなるようなものではなく、社会というものの裏面みたいなもの。治水と同じで抑え込もうったって抑え込めないという事実を、彼らは受け入れる。だから、彼らはコントロールをむねとする。アムステルダムで麻薬や売春を合法としているのは、違法とすることによってオモテ社会の目の届かないアンダーグラウンドにそれらが潜り込むことを防止するため。かつて日本でも裏社会と官憲は、どちらかが他方を徹底排除しようという関係ではなく、おめこぼしや小さな賄賂をやりあってきたという。それは小さな悪に対しては必要悪として目をつむることによって大きな悪をコントロール下に置く知恵でもあった。
著者が指摘するもう1つのオランダ社会のDNAは、多様なグループが共存してきたという歴史。オランダは60年代までは、プロテスタント、カトリック、社会民主義、自由主義など宗派や政治信条別に、まったく別の社会グループを構成していたという。それぞれのグループは学校や病院、メディア、カフェといった社会の私的、公的施設・サービスにいたるまで異なっており、各グループを「柱」とみなした「柱状社会」という言いかたが可能だ、と指摘する。現在ではさすがにこうした柱状社会は表向きはなくなってきているものの、政労使の話し合いがもたれ、有意義な合意に達し、それが実現された背景には、グループ間の対話プロトコルのような目に見えない社会的リソースの存在があったのではないかという。
ヨーロッパを見る視覚
阿部謹也『ヨーロッパを見る視覚』(岩波書店、1996)
すこぶる付きでおもしろい。
日本には“society”の訳語として「社会」が割り当てられているけど、もともと日本には「世間」という言葉があった。ヨーロッパの学問を採り入れるにあたって、あえて訳語に世間という言葉をあてずに、「社会」という言葉を作ったのは、「世間」はsocietyとは違うニュアンスをもっていることを、先人たちは鋭く見抜いていたからだという。
世間という言葉は、1970年生まれのぼくの周囲では急速に使われなくなって来ているように思う。1935年生まれの著者は、こう書く。
家庭の団欒の中で父親が息子に「この社会で生きていくにはね」といった言い方は、よほどのインテリでない限りしない。「おまえ、そんなことでは世間では通らないよ」といった言い方は日常的にすると思いますが、その際の世間と社会は根本的に違うということは、自覚していっているわけではないけれども、世間という言葉を使う人は百パーセント知っていると思います。
これを読んで、ぼくはあれっと思った。確かに親の世代は「セケン、セケン」と言ったように思うけど、いまや社会という言葉だって、別にインテリ家庭じゃなくともふつうに使う。
社会という言葉の語感が、ずいぶん変わってきているのじゃないだろうか。言葉の変化は現実を映すもので、この本で著者が世間というものが急速に崩壊してきているように、ぼくは感じている。セケンというのは生々しい人間のつながりのこと。親族をはじめ、地域、会社、学校などの集団そのもの。人間関係でつながった集団。いっぽう社会は、ルールベースの集団。契約や法、公的な概念で人間集団を外部から規定するドライな空間。パブリックなもの。東アジアでは、いまでも社会よりも世間という存在のほうが強い。
ヨーロッパでは12世紀ごろに恋愛や個人が生まれたという。11世紀以前のヨーロッパは、現在の日本や東アジアと変わらない世間とも言うべき社会構造をもっていた。たとえば、バイキングの活動を記録した12、3世紀の書物、「アイスランドサガ」を読むと、集団間の復讐劇が延々と綴られているのに、個人名はぜんぜん出てこないという。個人は集団に埋没していて、名前など、別になんでもいいという時代だったことの証。あの個人主義の欧州人も、かつては個など主張しなかった。
世間を特徴づけるのは、長幼の序があるということと、贈与互酬関係で人間関係の調整が行われていることだそうだ。で、そうした贈与慣行を断ち切り、世間的呪縛から解き放たれ、ヨーロッパは近代社会への道を歩みはじめた。なぜヨーロッパでだけ、そういうことが起こったのか。
著者は、キリスト教の彼岸信仰と、教会の告解制度の成立を指摘する。
それまで現世での人的つながり維持の重要な方法として近しい人同士の間で贈与が行なわれてきたものを、人々はしなくなる。代わりに、天国への憧れから人々は熱心に教会へ寄進しはじめる。贈与によって結ばれた、曖昧で非合理的な関係から、教会という存在を介して客観的で公的な関係に変化していく。なるほど、絢爛たるゴシック様式の教会がぼこぼこ建てられた時代ってのは、つまり贈与慣行が崩壊しはじめた時代だったのだ。
教会、あるいはキリスト教が人々に求めたのはお金だけじゃない。「だれでも、父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに治部の命まで捨てて、わたしのもとに来るのでなければ、わたしの弟子となることはできない」とルカには書かれているという。いつも思うけど、ひどい話だ。マタイ伝には、「地上に平和をもたらすために、わたしが来たと思うな。(中略)わたしが来たのは、人をその父と、娘をその母と、読めをそのしゅうとめと仲たがいさせるためである」とある。本当にひどい話だと思う。個人主義といいながら、個は神によってしか基盤を与えられていないわけか。ニーチェが批判するわけだ。
フーコーがヨーロッパの原点にあると説いたのが、1215年のラテラノ公会議で決定した、成人男女のすべてが年に1度、告白をしなければならないとした告白の義務化。自分の罪を意識し、自分自身について語ることで、個人や人格といったものが形成されていく。世界の外側に仮想した神という存在でもって絶対座標を設置し、そのどこかに自分を位置させる。それが中世以降のヨーロッパ。日本では、世間の目による相対座標で自分の位置を確定するしかない。どこの大学を出たとか、どこのカイシャで働いているといった肩書きをはじめとする、関係性の束のなかでしかオノレを定位できない。
日本だけじゃないけど、インターネットのブログ文化が人間に及ぼす長期的な社会的、文化的影響というのは、ラテラノ公会議に匹敵するようなものになるんじゃないかと、そんなことを思った。
本論と関係ないけど、本のなかでおもしろいと思った指摘を2つ。
キリスト教が南米や東アジアでは普及して、日本でだけまったく普及しない理由は、よく分からないけど、著者はヨーロッパ人に聞かれると、「キリスト教はかつて自分たちの文明よりも高い文明に教義を広げたことはない」と答えるらしい。実際、ヨーロッパから来た宣教師たちの学力が低過ぎて、日本の僧侶に太刀打できない、ということを宣教師たちは言っているという。
もうひとつ、身分制度がないことになっている日本なのに、いまでもIDやライセンスカード、旅券のことを「身分証明書」と呼んでいる。今日も「身分を証明するものをお持ちですか」と言われたけど、考えてみたら、証明するのは個人のアイデンティティーであって、身分なんかじゃない。
2006年10月03日
Undercover Economist
![]() | The Undercover Economist Tim Harford Oxford University Press |
探偵気取りの経済学者が、実生活のミクロな経済からグローバリゼーションのマクロな経済まで、経済学のイロハ的なことをエッセイ風にまとめた本。Steven D. LevittのFreakonomicsっぽい雰囲気を醸し出しているんだけど、いまいち。扱っているネタは、スタバのコーヒー価格付けの謎から始まって、ロンドンの交通渋滞緩和政策の話しだとか、自由貿易の効用、途上国が貧乏なホントの理由だとか、けっこう幅広いんだけど、いかんせんFreakonomicsのようにビックリするような結論がない。
いくつかおもしろいなと思ったことで、覚えていることを箇条書きでメモ。
- スタバのコーヒーは、ジャバチップがのったものや大きなサイズのもので価格が高いけれども、原価を考えると、まったくナンセンス。コーヒーの原価は土地代と人件費で決まる。じゃあ、なぜ高い価格付けのメニューがあるか。それは「今日は気分がいいから」「リッチな気分に浸りたいから」といった理由で、そういう贅沢な気分になれるものを選ぶ消費者がいるから。
- スタバのコーヒーは土地代半分。テイクアウトは半額でもいいじゃないか。実際、ロンドンにはそういうカフェもある。
- 非人間的な不当な労働条件で労働者を扱うコーヒー農園の豆ではなく、ちゃんとした農園から買った豆だけを使ったコーヒーを高く売る。それはアフリカのコーヒー農園の労働環境改善になんかならない場合が多いけど、そうしたコーヒーを買う人にとっては、それはどうでもいい。そういうメニューが消費者に受けるだけ。
- グローバリゼーションも自由貿易もいいことじゃないか。中国を見よ。世界は均質化してつまらなくなるか。いや、そんなことはない、常に各地で新しい文化というのは出てくる。
- ロンドンでは中心部を通るクルマに通行税を課した。あれ、違ったか、高いガソリン税だっけか。ともあれ、そういうことをやって渋滞は激減した。いいことだ。
- 商品が高いスーパーや安いスーパーは、実は価格は同じ。扱っている品物が違うだけ。
2006年09月29日
証言の心理学
![]() | 証言の心理学―記憶を信じる、記憶を疑う 高木 光太郎 中央公論新社 2006/05 |
45人の被験者にクルマの衝突事故の映像7本を見せる。映像は5〜30秒の長さ。その後、いくつか事故の状況について質問をする。そのなかでポイントとなる質問は、クルマの速度に関するもので「クルマはどのくらいの速度で走っていましたか?」と問う。
45人を5グループに分け、5つの微妙にニュアンスの異なる質問文を使う。「クルマが衝突したとき、クルマはどのくらいの速度で走っていましたか?」という質問は別のグループでは「クルマが激突したとき」「クルマがぶつかったとき」「クルマが当たったとき」「クルマが接触したとき」と尋ねる。
まったく同じ映像を見ているにもかかわらず、5群のグループの回答から、クルマの速度の平均値を出すと、質問文が記憶を変容させるさまがはっきり見て取れる。
| 激突した(smashed) | 40.8mph(65km/h) |
| 衝突した(collided) | 39.3mph(63km/h) |
| ぶつかった(bumped) | 38.1mph(62km/h) |
| 当たった(hit) | 34mph(54.5km/h) |
| 接触した(contacted) | 31.8mph(51km/h) |
同様に「クルマの窓ガラスは壊れましたか」と聞くと「激突」という質問文のグループの回答で、イエスの答えが多くなる。実際の映像では窓ガラスは壊れていない。
これはワシントン大学の学生を被験者として、エリザベス・ロフタスが1974年に行なった実験で、「Reconstruction of Automobile destruction(Wikipedia)」と呼ばれている。この実験を嚆矢として、1980年あたりからアメリカでは法廷証言の信憑性を科学的に検証する心理学が発展しているという。そんな「証言の心理学」というジャンルでの実験研究や理論モデル、実際の事件での分析の事例をまとめた本。とてもおもしろい読みもの。日米法曹界における心理学(者)の地位の変遷の話も興味深い。
記憶や証言の本質的な頼りなさに対する理解って、裁判員制度が始まるまでにもっと広く社会的な常識となっていかないとまずいんじゃないだろうか。ロフタスは学校の講義で簡単な実験をするらしいけど、「あなたが99%確かだと思って証言した記憶も、少しも確かじゃなかったでしょう」ということが端的に分かるような実験セットを用意して、みんながやると効果があると思う。条件さえ整えば、人々は見てもいないはずのカセットテープレコーダーについてすら、その色や大きさについて確信に満ちた口調で語るもの。
ひとつ、とてもおもしろい話が。
過去の記憶を、まるで目の前で映像を見るかのように滔々と語る人がいる。子細な描写にはリアリティがあって、すさまじい記憶だと周囲は思うんだけど、実は彼らが必ずしも現実に起こったことを語っているのではない、という話。
ウォーター・ゲート事件で証言した大統領の法律顧問ジョン・ディーンは大統領の事件への関与を裏付ける証言で、証言の約9ヵ月前のニクソンとスタッフのやりとりを子細に再現して証言してみせたという。その再現度があまりにリアルだったために「人間テープレコーダー」の異名を取るまでになったものの、実はオーバルオフィスには録音機材があって、その後、そのテープの内容が公開されてみると、ぜんぜんディーンの証言が事実の再現などではなかったということが発覚する。特に嘘を付く動機もないようなこと、たとえば、「大統領は私に腰かけるように言った」というようなもので、事実と証言に食い違いがある。
著者はコミュニケーションはこういう流れで行なわれるはずだという「常識」と、事実に対する主観的な「意味づけ」が、記憶に作用したのではないかという。
うーん、、、。「記憶を変容させた」と著者は言うけど、ひょっとして、そうじゃないんじゃないのか。もともと人間は、そんな細部についての記憶なんてもってないんだ。100円玉の図柄すら、正確に思い出せないのが人間で、「知っている」「覚えている」というのは、ある種の錯覚なのではないか。ディーンの証言は細部を常識とか意味とかで補間した、彼の想像の産物だったのじゃないか。
もう1つ、こうした詳細な記憶再現をする動機があるように思う。自分の記憶が確かだと周囲に印象づけるためだ。「そんな細かいところまで覚えているんだから、彼の記憶は確かだ」と人々は思いがち。それを意識的、無意識的に行なう人々がいるような気がする。たとえば佐藤優が『国家の罠』でテープレコーダーを聞くかのように再現してみせた検察官とのやりとりは、大筋では間違ってないのだろうけど、細部はかなり眉唾じゃないかと思う。
ロフタスの実験からは、過去の記憶というのは外部からの情報によって変容しやすいものという、ある意味では割と当り前の結論が出てくるだけのように思えるけど、もろもろの実験や裁判での証言の事例を見ていると、記憶や証言というものの性質を根本的に考え直さないといけないということがわかる。記憶というのは、その人の脳内にある何かというよりも、その人の脳を中心に、言語というコミュニケーションの網目で形成される開かれたネットワークであり、常時、外部との関係のなかで流動的に変化しているものだ、という見かた。さらに、本人が「これだけは間違いない」と確信している記憶についても、それが作られた偽記憶(false memories)であることもあるということ。ロフタス自身は、「The most horrifying idea is that what we believe with all our hearts is not necessarily the truth.」(Loftus, 1996)と言っている。
集団で証言するとき、じょじょに同調が始まる過程を観察する実験や、実際に日本で起こった誘拐事件の証言例として幼稚園児たちがじょじょに存在しなかったストーリーを組み上げて行く過程を分析した事例なんかも興味深い。興味深いというより、恐ろしい。こういう事実を知らずに、証言というものを扱う法廷に一般人が立つことになるという、その事実が恐ろしい。
少し古い話だけど、この本を読んでいたとき、ちょうど畠山容疑者の供述が二転三転するという報道が続いた。いったいこの嘘つき女はどうなってるんだと思ったけど、話はそう単純なものでもない。もともと記憶や証言というのは曖昧なものだし、供述調書作りでは、さらに嘘をつく動機や取調官の思惑ががかかわって来るのだから、二転三転もあって当然。むしろ、著者は供述の変遷から、何が証言として信憑性があり、何が信憑性に欠けるのかを読み取ろうというような試みも行なっている。方法論が確立されていないので、かなり手探りの状況であるようだけど、そのあたりの記述も、読みものとして、とてもおもしろかった。
ロフタスの代表的な論文は、PSB Faculty: Elizabeth Loftusで読める。と、メモ。ロフタスは幼児期の虐待などの抑圧記憶について、コントロバーシャルな議論を展開しているらしい。
2006年09月27日
ゲバラ伝
![]() | チェ・ゲバラ伝 三好 徹 原書房 2001/01 |
革命のロマンティシズムを生き抜いた革命家、エルネスト・チェ・ゲバラの伝記。ゲバラは、人間の人間による収奪の根絶、そのために必要なのは言論や政治ではなく闘争だと子供時代に言い切るような生来の革命家だった。
非常におもしろい。南米観が変わった。英語を勉強するようになってから、南米人とよく話すようになったけど、彼らの住む南米大陸というのは、何と言うか、近世の日本列島みたいな感じなんじゃないだろうか。国というより、むしろ郷なんだ。だからアルゼンチン人のゲバラがキューバ革命に参加するようなことができて、それは、日本で言えば、よその藩に行くような感じじゃないだろうか。アルゼンチン訛りとかアルゼンチン固有の言い回しだかいっても、しょせんブラジル以外はスペイン語圏。同文同種。いまの日本人には分かりづらい緩やかな連帯感が、彼らにはある。北米に対する憎悪の共有を通しても、その連帯は強くなっている。
この本は1971年に書かれたものに、コンゴでのゲバラの動向をまとめた1章を付け加えて2001年に復刊した本。コンゴの話はやや余計かと思ったけど、そう思うのは、むしろぼくがゲバラのロマン主義に感化されているからだろうか。「革命か死」という二項対立そのものが、コンゴでは成立しなかった。勤勉なゲバラはスワヒリ語も学んだというけど、アフリカ大陸と南米大陸の条件の違いはいかんともしがったらしい。帝国主義を憎む気持ちは同じでも、南米とアフリカじゃあ、言語、文化、歴史、民族構成が違い過ぎる。結局、ゲバラは南米のボリビアに戻り、そのジャングルで絶望的なゲリラ戦の末に銃殺される。キューバから死地ボリビアに直行していたほうが、革命家としての履歴の純度が高かったろうにと思うのだけど、革命家としての人生の完成度などというロマンティシズムは、ゲバラのもつロマンとは重ならないのか。
ある年齢以上の人にこんなことを言うと「時は流れたんだね」と言われそうだけど、ぼくの世代にとってゲバラは歴史上の人間でしかない。あるいはTシャツに描かれた絵でしかない。ゲバラの生年は1928年というから、2006年の今も生きていたら78才。親の世代よりは、ひとまわり上というところか。キューバ革命が1953年、ボリビアのジャングルで戦死したのが1967年というから、ちょうど彼が死んだころが、ぼくらが生まれた世代だ。そんなに時代は隔たっていない。事典を引いてふと気づいたけど、三島由紀夫はゲバラより3年早く生まれ、3年長く生きている。三島は同時代のこの南米人にたいして、なにか言ってただろうか。
少年時代や学校時代の話もおもしろいけど、キューバ革命の前夜あたりからバチスタ大統領亡命までの話が断然おもしろい。歴史的背景もよく描かれているし、ゲリラ戦の困苦、革命を志す若者たちの闘志、理想、熱情といったものが、よく伝わって来る。
カストロがモンカダ兵営襲撃に失敗したのが27才。投獄、国外追放の憂き目にあって、そこから再起。わずかな人数の仲間とともにおんぼろ小船、グランマ号に乗ってキューバに乗り込む、その狂気。いいなー。リーダーたるもの、狂ったように見えるときがなくてはいけないと思う。圧政にあえぐキューバ市民にバチスタ政権打倒闘争を支持する素地はあったのだろうけど、やっぱりこの革命の成功は奇跡的だったし、カストロの狂気じみた勝利への確信がなければならなかったものだろう。
1つ驚いたのが、実の娘にあてた手紙のなかで立派な革命家になりなさい言ったりしていること。娘に革命家になれとは、どういうことだ。すごい。
そういえば、カストロ議長は元気なのだろうか。
2006年09月20日
ビバ放送大学
![]() | 日本語の歴史 近藤 泰弘、月本雅幸、杉浦克己 送大学教育振興会 2005/03 |
放送大学の教科書には、その分野で知るべきことがコンパクトにまとまった良書が多い。下手に一般向けに書かれた入門書を読むより、ずっとおもしろいことがある。ページ数の割に値段が2000〜3000円と高いのが難点だけど、1500円の本を買って後悔するより、2500円の本で満足するほうがずっといい。この『日本語の歴史』も、そんな本。
日本語について書かれた本は去年ずいぶんブームになった。そのほとんどは、日本語の読み書きに不自由する人のための指南書か、そうでなければ時代の変化についていけない中高年のルサンチマンを「ことばの乱れ」という一種の仮構で癒す本がほとんど。雑学系の本で、良質な読みものもあったけど、きちんとまとまった「日本語の本」というのは、ついぞ出てこなかった。日本語ブームと言いながら、最後のほうは「論理的に文章を書くには」といったテーマの、できの悪いビジネスパーソン向け実用書と区別がつかない本の粗製乱造で終わってしまった感がある。
世界に数千ある言語のなかで、日本語というのはどういう言語なのか。あるいは、言葉は変化するというけれど、有史以来2000年の歴史のなかで日本語はどう変化してきたのか。そういった言語学研究の成果を、ふつうに教えてくれる本でよかったなと思えるのは、町田健や田中克彦といった学者が書いたものしかない。たとえば、「言葉は変化する」というが、いつの時代にどのぐらいの速度でどう変化したのかを問わない限り、現在起こっている変化が、言語変化の歴史で見ればごく穏当なものであるのか、それともやはり変革期にあるのか議論のしようがないと思う。でも、言葉の変化速度について定量的な議論はあまり聞いたことがない。少し専門的な本を読むと、断片的にはそういう方面の研究成果も載っていたりするけど、けっきょくそれぞれの論文を読めということで、一般向け書籍という意味では絶望的な状況にあるんじゃないだろうか。
もう少し日本語を客観的に観察して、それをエッセイ風に語れるような人はいないのだろうか。町田健は、かなりいいと思っていたけど、ついに日本語練習帳みたいな情けない本を出したので失望した。
『日本語の歴史』は、きわめておもしろい本だった。ふつうの学校教育では、古文、文語、現代日本語と大まかに区別しているけど、言語というのは、ソフトウェアのバージョンが変わるように、あるとき変化するというものではなく、長い歴史のなかで連続的に変化するもの。奈良時代、平安時代、室町時代、江戸時代、明治時代、明治以降と、それぞれの時代を順に追い、文字、音韻、文法といった面から、各時代ごとの特徴と変化をコンパクトにまとめている。変化の法則や方向性、背後にある文化的、歴史的イベントとの対応なども解説されている。
いわく室町時代に日本語は大きく変化している。むかし、仕事で知り合った国語学者と雑談していたとき、こんな話を聞いた。「日本語は11世紀ごろに大きく変化しているんですよ。タイムマシンに乗って現代人が信長に会ったら、なんとなく言葉は通じる。腹を抑えてお腹が痛いと言えば、たぶん言いたいことは通じる。でも、それ以前の時代の日本人と話をしても、現在の朝鮮半島の人と話しているような感じで、ほとんど外国語のように思うはずだ」。そのときは、おもしろい話だとは思ったけど、どうして室町時代を境に日本語が大きく変わったことや音韻の変化の程度が分かるのかを不思議に思った。
その答えは、この本に書いてあった。
音韻の変化は文字や文献から推測する。たとえば、奈良時代の文献資料に見られる万葉仮名を見ると、「こ」の表記として、「己・許・古・胡」などがあって、単語ごとに、どの字を用いるかについて決まっているという。たとえば「こころ」という言葉について調べてみると、「己己呂(こころ)、己許呂(こころ)、許己呂(こころ)、許許呂(こころ)」の例があるが、「古・胡」という字を用いた例はないという。一方、「こども」の表記を調べると、「古抒母、古等母、胡藤母、胡騰母」などの例があるが、「「己・許」の字を用いた例はないという。このことから、現代日本語の「こ」に相当する音が2種類あったことが推測される。
あるいは、室町時代に読まれたなぞなぞに、
はヽには二たびあひたれどもちヽには一どもあはず くちびる (『なぞたて』)
というのがある。母で2度、父で1度も合わないものは「唇」。これは当時、ハ行の子音は現代語の[h]とは異なり、古代語同様に両唇摩擦音の[Φ]を用いていた証拠と考えられているという。母は、どちらかといえば「ファファ」に近い音だったということだ。
こうした地道な文献渉猟と推論から、日本語の音韻の変化を調べる。たとえば奈良時代の日本語の音韻の特色として、
- 現代日本語の撥音・促音・拗音にあたる音はなかった。
- 濁音は奈良時代にもあった。
- ハ行の子音は唇を用いる音であった。
- 現代日本語のような長音は奈良時代にはなかった。
- 濁音は語頭に立つことがない。
- ラ行音は語頭に立つことがない。
- 母音のみの音は語頭にのみ用いられ、語中・語尾には出現しない。
といったことがわかっているという。
この本を読んでいてつくづくおもしろいと思ったのが、「言語の化石」とでも言うべきもの。古い用法や語法が固定されてしまって、現代語でも何の疑問もなく用いられているような例がある。音韻でも「私は」とか「彼を」と書くとき、「は」や「を」は、かつてそれらがその音で発音された証だと聞いたことがある。11世紀の初めごろ、ハ行音の子音([Φ])がワ行音([w])で発音されるようになったという。この、“ハ行転呼音”と呼ばれる現象のために、「川」は[kaΦa]から[kawa]へと音が変化した。明治に「川」の表記を「かは」から「かわ」に改めたのは、数百年前の音韻の変化に、ようやく表記が追い付いたということ。
としたら、なぜ主格の助詞にだけ「は[wa]」を用いるのか、いまひとつわからない。
というような議論を前提にすれば、女子高生が使う「私わ」とか「私わ」という表記を、ばかげていると一蹴する気にもなれなくなる。「日本語の乱れ」をやたら指弾する人に辟易するのは、変化を前提とした議論を展開しないばかりでなく、言語の合理的変化という側面をすっぱり忘れ去っているからだ。「私は」という表記など、すでに数百年前の発音の痕跡でしかないではないか。
英語でもnightにあるghを、かつては発音したという。いわゆる黒人英語のエボニックスでは、nightをniteと綴る。これは、よほど合理的な綴りだし、長い目で見れば、将来英語に起こる変化の予兆となるのだろう。外来語や音韻の変化によって表記と音がずれてきた場合、表記に拘る頑固な人々の根拠のない議論こそ笑い飛ばすべきじゃなかろうか。いつの時代にも擬古文を書く人や、いかめしい文体で書くことでしか内容のハクを付けられない人というのがいる。
言語の化石の例として驚いたのが、奈良時代のク語法の例。ク語法というのは、動詞など活用語の未然形に接続して、「〜すること」という意味を表わすもので、たとえば「窺まく(ぬすまく)」というように「ぬすむ」の未然形に接尾語「く」が付いて、「(様子を)窺っていること」という意味になる。このク語法は平安時代以降にはほとんど見られなくなる。ところが、「曰く」「のたまわく」などの固定化された用例で、現代にまで生き延びている。まさに言語の化石だ。
さらに驚いたのが、「思ふ」のク語法である「思はく」。この「思はく」という句は「思惑」という当て字を得て名詞化し、現代語で活用されている。意味はほぼ奈良時代のまま、「思うこと、思っていること」だ。
ク語法と類似のミ語法も含めて、活用語に下接する接続語類に、複合的な句構造をもった文を構成する働きがあるというのは、奈良時代の日本語文法の特徴の1つという。この1点だけ見れば、すでに外国語のような感じだ。差異よりも類似点が多いからそうは思えないだけで、強い方言や古語は、現在関東圏で話されている話し言葉、いわゆる標準語とは異なる文法をもつ、ある意味では別の言語だ。
たんに助詞が別の音だというぐらいの変化ではなく、もっと根本的な文法変化が奈良時代に起こっている。奈良時代には古代に使われていた「つ・ぬ」といった完了を示す助詞が消えて、「てある・ている・てをる」などの継続のアスペクトを示す助詞として新たに登場し、このころ日本語のテンス・アスペクトの基本的な体系が成立したのだという。テンスやアスペクトが異なれば、これはもはや別言語だ。現代に連なる日本語と呼びうるものは、1300年前に登場したということだ。
ハ行転呼音のように、あるルールに従って大規模に進行する例があるのかどうかわからないけど、ちょっと考えただけでも、現代語でも音の変化があるのではないかと思い付く。発音と表記がずれ始めているものがある。たとえば「体育」は「タイク」と3音節で発音する。実際にはタイクと言うのにタイイクと書くのは、ちょうど「ちょうちょ」と発音するのに「ちょうちょう」とウまで書くのとか、「ちょうちょう」と発音するのに「てふてふ」と書く、というのに似ている気がする。現代語でも、音韻変化は日々進行している。『日本語の歴史』は古代から明治や昭和あたりまでをカバーしているけど、現代史の記述が少ない。現代史が手薄になるのは歴史の本の宿命みたいなものなのかと思う。限られたカリキュラムで消化するには、現代語の研究は膨大だということだろうか。
言語の変化は、より少ないルールへの統合、例外の消滅という形で進むことが多い。そうした変化にいち早く適応するのは、学のない庶民や、男性より女性だったりするのは今も昔も変わらないらしい。適応というよりも、例外を学習する時間や機会のない人達。日本語では動詞の活用が歴史の流れとともに減っている。奈良時代に9種類あった日本語の動詞の活用は減少傾向にあり、特にラ変活用の消滅と二段活用の一段化というのは、特徴的で大きな変化だという。室町時代に始まった一段化は江戸時代に、さらに進む。
まず、動詞の活用に関して、前代に引き続き二段活用の一段化が進んでいる点が挙げられるが、まだ一段化は完了せず、二段活用の形と、新しい一段活用の形とが併存していた。近松の浄瑠璃を見ると、武士よりも庶民の方が、また男性よりも女性の方が、一段活用の形を用いやすいこと、同一物が両方を使う場合、改まったときには二段活用を、うちとけたとき(また喜怒哀楽の激しいとき)には一段活用を用いることが多いこと、音節数の少ない動詞の方が一段化が速いことなどの特徴が明らかにされている。
言語は常に流動していて、同じ意味のことを伝えるのにも、いくとおりかの言いかたがある。書きことば的、文語的に改まって言うこともできるし、くだけた口語で言うこともできる。くだけた言いかたのとき、方言や若者言葉が使われる。よくよく考えてみると、そういうくだけた言葉というのは、もしかすると、たまたま変化している言語があってそれを使っているというよりも、むしろコミュニケーション上、そういうモードを必要とする人間の本質的ニーズを満たすために存在しているんじゃないだろうか。公私のグラデーションを埋める各モードの言葉づかいというのは、それぞれが先にあってマップされているというよりも、このグラデーションマップを埋める形で、ある時代、ある地方の言葉というのは、自律的に多数のモードを抱えこむのじゃないだろうか。
現代の「ら抜き」言葉という変化の本質は「れる・られる」の整理統合にある。これはきわめて合理的な変化で、尊敬・可能・受身などが混在して併用されている状態から、「られる」の可能・受身の意味が消えて行く過程にほかならない。こういうのは、やはり割とよくあることらしい。たとえば、奈良時代には「る・らる−ゆ・らゆ」で同様の変化が起こっている。<る・らる>の勢力に押されて、<ゆ・らゆ>は消滅した。
奈良時代にも「る・らる」の例はあり、少しずつ相互に意味・用法が異なる併存状態から、徐々に「ゆ・らゆ」は用いられなくなったものと考えられている。また「聞こゆ」「見ゆ」「思ほゆ」などは、この助動詞「ゆ」が付いた形から一語の動詞として用いられるようになったものと考えられている。
助詞や助動詞など、入れ替わりもすれば消えもする。
奈良時代に消えた助詞、「ゆ・い」あたりの記述を読んでいて驚いた。「ゆ」は「〜から」「〜より」という経由地を示す助詞で、こんな風に使われた例があるといって、奈良時代の文献が引用されている。
比羅可駄愉(枚方ゆ)…… ※漢字が出せないので、これは雰囲気。もうちょっとヘンチクリンな字が並ぶ
「枚方から笛をもって〜」というような文章の一節。枚方! ぼくの育った大阪の衛星都市の名前じゃないか。奈良時代から存在した地名なのか……。
「ゆ」と同類の助詞に「ゆ・ゆり・より」があったという。これらのうち、徐々に「より」だけが残ったという。現代語口語では「より」は比較の意味のほうが強く、経由地や出発地を示す用法で使うのはおもに書きことばに限定されているんじゃないだろうか。現代語口語では「東京から来た」とは言っても「東京より来た」とは言わないし、ほとんど誤用といえるほど違和感がある。NHKのアナウンサーが、「東京よりご参加いただきました、○○さんです」と言ってる姿は想像できるけど、やっぱりこれは古い表現という気がする。
奈良時代に消えた助詞、強調の用法をもつ「い」の痕跡は現代語に残っている。「あるいは」というときの「い」は、この奈良時代の助詞が語彙中に残ったものではなかと推測されているという。岩石中に残る古代生物と同じで、まさに言語の化石だ。
漢字や仮名の遍歴といった文字の歴史には、さほど興味がないけど「言葉の変化」を考える上で興味深い指摘がいくつかある。仮名にしろ文法にしろ、漢字の表記にしろ、ぼくらはついそうしたものを固定的なものだと想定しがちだけど、仮名づかいも長い間、揺れてきた歴史がある。実際の発音にできるだけ忠実にという努力も行なわれて来た。半濁音はパ行以外でもサ行でも使われていたことがあるというし、江戸後期の式亭三馬は、カ行に半濁音を用いてたいという。日本人は、音と字が1対1に対応していることを前提としない、かなり複雑なスクリプティングシステムを使っているけど、こと、カナについては、割と素朴に音と字の対応を信じているように思う。実際はそうでもないというのに。
句読点のテンマルやヤクモノについても、近世もかなり用法が揺れている。整版本が登場したころにようやく句読点が見られるようになるものの、どっちがどっちなどという区別はなかったという。いや、出版の現場にいる人間として日々感じることだけど、日本語の句読点や表記法というのは、今でも恐ろしく標準化されていない。
もともと日本語には段落とかセンテンスという概念がなく、翻訳などを通して導入されたというけど、いまウェブ上で起こっているのも似たような話かなと思う。ウェブ上の日本語では、少なくとも表示上の段落のありかたが以前とずいぶん異なってきている。と、そういう話をするにしても、やっぱり日本語の歴史的変遷という前提を抜きにしては議論できないと思う。ただただ、「段落の最初は1文字あけるのが正書法だ」などと言ってみても始まらない。
ずいぶん感想が長くなった。あいかわらず言葉の問題というのは興味が尽きない。
2006年09月03日
そんな分けかたでもいいんじゃないでしょうか
![]() | 分類という思想 池田 清彦 新潮社 1992/11 |
「分ける」と「分かる」は語源的には同じで、モノごとを理解する根本には分類がある。分類することで対象を整理するというようりも、分類こそが思考だ。
分類は、いかに自明な基準を用いているように見えても、対象物にア・プリオリに内在する特徴をとらえているというものではない。基準は分類する側の主観にしか存在していない。そして、どんな基準を用いても、そこに恣意性は残るし、分類しきれない例外というのも発生する。だから、あまり基準自体を自明の所与としてかたくなに固持してもしょうがない。
と、このへんまでは常識的な話だと思うけど、この著者は、第1章で延々とこのあたりのことを、言語学や経済学っぽい議論を交えてくどくどと論じていて、しょっぱなから閉口する。コトバの桎梏、コトバの魔力……。うーん、何だろうな、コトバに怨みでもあるんだろうか。「コトバは思考をしばり、戦争の原因となり、資本主義の普遍性を保証する」って何のこっちゃ。湾岸戦争や社会主義の行き詰まりを、二分法がどうしただとか、コトバによる呪縛がどうしただとかで説明しようというのは、あまりに突飛。
男女という古来の分類が、DNA研究が進んだために、そう単純に行かなくなったという。それはそうでしょう。染色体から分類できる男女、外性器の特徴から分類できる男女、社会や文化の違いをとらえたジェンダーという男女の分類が、「究極的には独立」だという。究極的にはって、どういう意味かよくわからない。例外的に一致しないケースがあるからといって、それらの事象が互いに独立だなんて言うことに、どれほどの意味があるんだろうか。論理展開が強引すぎる。極論好きの人の議論は、だいたい疑わしい。
アリストテレスの昔から始まって、17世紀以降の植物学、動物学者による分類学の系譜と発展の話はおもしろい。整合性と説得力のある分類構築という作業は試行錯誤の歴史であって、それはいまでもそうなのだという話。
生物の形質は遺伝子情報に書かれているのだから、種の分岐をたどって分類すればいいように思えるけど、実際には交叉という例外もあるし、分岐とは無関係に起こる形態の類似だってあるので、話はそう単純じゃない。というような「分類というのは一意にすっきり行かないんだよ」というのは、きわめて常識的なことで、「分類という思想」という大上段に構えた本で指摘するほどのことでもないと思う。
最後の章のまとめの文章が、わからない。
私が依拠する立場は極めて単純だ。分類はいずれにせよ、人間が行なう営為のひとつである、ということだ。すなわち、すべての分類は本来的に恣意的なものである。
最も基本的な分類体系は言語である。ソシュールによってはっきり示されたように、コトバによる世界の分節は恣意的なものである。しかし、ひとたび世界があるコトバによって分節されれば、我々がそのコトバを使う限り、コトバは我々の認識様式をしばる桎梏となる。
我々の使うコトバは、我々の心身機能という自然の何らかの反映である。従って、コトバを使ういかなる分類も、何らかの形で自然の秩序を反映しているに違いない。
2段落目までは、まあ分かるけど、なんでいきなり3段落目でコトバが自然の秩序を反映ってことになるんだ。恣意的だと言ったその次に、自然だというんだから、意味がさっぱり分からない。言ってることが、めちゃくちゃだ。いや、両方ともある意味では常識的なことだけど、こう並べられても、何が言いたいのかまったくわからない。
そこはかとなく悲しいクラゲたち
![]() | クラゲのふしぎ jfish 技術評論社 2006/08/05 |
クラゲは嫌いだ。ゴキブリ同様、もし自分の身体に触れてしまったらと考えると、ぞっとして身が凍りそうになる。現物に触わるのが嫌だというだけじゃない。美しく印刷されたカラー写真もダメで、子どものころ、科学雑誌のページをめくるときに指がクラゲやイソギンチャクに触れないよう苦労した覚えがある。
そんなぼくを、意地悪な兄がからかった。海辺にうちあげられて死んでしまった水クラゲを、「ほれほれ触ってみ」と言いながら、ぼくのところへもってきたものだ。
年齢とともに、少しずつ平気になるもので、さすがに写真はだいぶ平気になった。でも、たぶんクラゲは触れない。そんなことで、むかしよく海で遠泳なんてしてたなと思う。泳いでいて、よくクラゲに刺されたものだ。
このさい一気に苦手なクラゲを克服しようと思って、ふと本屋でこの本を手にとった。
よく考えるとクラゲの生態って、ほとんど知らない。クラゲには雌雄同体の変なやつらがいて、水温によってオスになったり、メスになったりとか、そういう話を聞いたことがある。だから、かなり変な人達だということは知っていた。でも、何をどうやって食べていて、どうやって生殖しているのか、あるいは毒はどの程度のものをもってるのか、彼らは動きたい方向に動くことができるのかとか、知らないことだらけ。
やっぱり兄貴は間違っていた。専門家によると、クラゲはどんなに安全に思えても絶対に触ってはいけないという。ぼくは正しかった。クラゲは大きく有櫛動物門(ゆうしつどうぶつもん)と、有刺動物門(ゆうしどうぶつもん)に分かれて、有櫛のほう、身体に櫛状のものがある種類には毒がない。毒があるのは有刺のほうだけ。ただ、種類や毒の強さもさまざまで、素人がみて判断できるものではないという。1度目は大丈夫でも2度目に同じものに刺されてショック死することもあるアナフィラキシー反応も恐いので「侮るな」というのが専門家の意見。刺されたら砂でこすれという民間療法なんかも、ぜんぜん逆効果だったりするんだとか。かえって皮膚に刺さった針が奥に入って毒の回りを早めるだけらしい。
彼らは自分の意志で動きたい方向に動けるわけではないらしい。そもそも脳がないのだから意志はない。遊泳能力が低過ぎて、流されるままにしかならない。そうした水流に身を任せて生きる生物をプランクトンと呼ぶらしい。プランクトンはサイズが小さいもののことでなく、自力で水流にさからって泳げるかどうかで決まる。だから、クラゲはプランクトンと分類される。まあ、生物学者には好きに分類させておけばいい。常識的な語感と齟齬があるからといって、どちらかがどちらかに合わせる必要なんてまったくない。
クラゲとイソギンチャク、サンゴは同類。クラゲは、海底や岩石からペロンと剥がれてイソギンチャクがふらふらと泳ぎだしたというぐらいのもので、両者は本質的にそう違わないという話。実際、クラゲの一生にはイソギンチャクのように海底にへばりついている時期もあって、そこからペロン、ペロンと皮のような「エフィラ」と呼ばれるものが1枚1枚はがれて海に泳ぎ出したのがクラゲとなるという。
脳がないのに目があるそうだ。アンドンクラゲにはレンズや網膜っぽい組織があり、高度な構造をもった目をもつ。かなり「見えて」おかしくないのだけど、いかんせん脳がないので、いったいその目で何をしているのか、よくわかってないという。アンドンクラゲは埠頭などで人影から逃げ、灯りに寄って来るので見えていることは間違いないらしい。
しかし、そのアンドンクラゲの目で、何だかおかしいのは、それらの目がすべて内側を向いてること。傘の周縁にいくつかついている目は、外敵をみるよう外を見ていなくて、内側の自分の口のあたりを見ているという。クラゲは不思議な奴らだ。何を見ているんだ。
自力では少しずつしか移動できないけど、風力を利用するギンカクラゲという種類がいるらしい。お椀型の頭部を水面上に出して風の力ですいすいと泳ぐ。「この風力移動はなかなか効率が良く、自力遊泳に比べてかなりの速度が出せます。ただ完全に風任せのため、よく海岸に打ち上げられてしまうのが、ちょっと悲しいところです」。この著者(陣)、かなりいい味を出していると思う。クラゲに対する愛情と尽きない好奇心がにじみでた文章が、何ともほほえましい。
ミズクラゲは甲殻類をよく食べるので口(傘の中央)の回りに食べた餌の赤茶色が付く。水族館で見ていると周期的に色が変わるという。その様子を、著者の1人である久保田氏は、こう書く。
透明なクラゲが甲殻類を捕食すると、口柄の寝もとが餌の色に染まります。染まると満腹です。しばらく経つと、餌を消化するため色が消えてしまいます。消えると空腹です。なので、見ていて飽きません。
研究者や専門家というのは、こうでないとダメだ。
悲しい感じの努力をするクラゲはほかにもいる。自分の身体を割いて、分裂して増えるヤクチクラゲ。身体を引き裂いて分裂すると、分裂したどちらか一方にしか口がなく、餌が摂れずに死んでしまう。このため分裂に先だって、身体のあちこちに口を作るんだとか。悲しい努力というか、「そんなレベルの話かよっ!」と言いたくなる、単純なやりかただ。クラゲは繁殖戦略としてはきわめて成功していて、種類も生態もさまざま。おもしろいやつらがいるもんだ。
そのほか、有櫛動物門で毒がないはずなのに、なぜか毒があると思ったら、実は摂食によって有刺動物門のクラゲ類を採り入れて自分の武器にしちゃってるフウセンクラゲモドキの話だとか、傷ついて海底に沈んでゼラチンの塊となり果てたあとに、またその塊からニョキニョキと枝を生やして再生する不老不死のベニクラゲの話だとか、あるいは小部屋に小石を入れただけのようなクラゲの平衡器官の話だとか、はたまた特定のタンパク質を発光させることで動植物の病巣発見に役立つ研究に先鞭をつけたオワンクラゲの発光物質、イクオリンやGFPの抽出と遺伝子同定の話だとか、どの話も非常におもしろい。
巻末の「浮遊標本を作ろう」なんてのは、やっぱりぼくには気持ち悪くてしょうがないけど、こんなにクラゲの話に夢中になれるとは思わなかったというような1冊だった。
必須金属
![]() | 金属は人体になぜ必要か――なければ困る銅・クロム・モリブデン… 桜井 弘 講談社 1996/06 |
同じブルーバックスシリーズの元素事典を読んだら、哺乳類にモリブデンは必要不可欠だという記述があって驚いた。モリブデンは窒素の固定に関係する酵素で重要な物質となっている。しかも、かつて古代生物はモリブデンの代わりにタングステンを用いていた時期があるという。それはいったいどういうことなんだ。生物は手近にある材料を、手近にある存在比率から大きく外れない程度に最大限に利用し、進化してきたということなんだろう。
人体に限らず、動植物の多くは微量もしくは超微量の金属元素を必須とする。最近では鉄や亜鉛は常識だろうけど、クロムや銅、コバルトといった有害そうに思える金属や、モリブデン、バナジウム、セレンなどといった聞きなれない金属元素も、微量ながら人体にとって必要不可欠だという。
金属元素はタンパク質や簡単な有機分子の中心に位置して鎖体を作る。こうした鎖体は、多くの代謝反応に酵素として関係しており、特定の化学反応速度を、ときには数万とか数十万倍も速める。
と、こういう話し自体はおもしろいと思って手にとった本だけど、話が細か過ぎて、ややウンザリ。話の流れに脈絡がなく研究成果の羅列っぽい。そもそも、「無機生物学」という学問すら提唱している人がいるという段階で、どの金属がどういう役割を担っているのかなど研究待ちだという話が多過ぎる。一般の読者向けに1冊の本としてまとめるには、まだ学問自体が未熟な印象。
セレンを多く摂取すると乳癌の発生確率が下がるとか、マグネシウムとカルシウムの摂取比率を1対1にするといいとか、そういう具体的なアドバイスは、洒落としか思えない。セレンが多く含まれる食材リストをみて、明日から「よーし、セレンを0.1ミリグラム摂るぞ」なんて変人がいるとは、とても思えない。
2006年06月23日
乃木希典
福田和也『乃木希典』(文藝春秋、2004)
乃木評伝。「乃木は無能」というレッテルを貼られたまま、あまり評価されてこなかった乃木を積極的に評価している。しかし、ロマンチシズムに引きずられて持ち上げすぎ。文章は情緒的だし、データや史実にもとづく考証もない。福田和也の書く文章のファンだったけど、もういいよ、文芸は、と思った。美麗で琴線に触れるような文章も多いけど、悪くいえば、お手盛りの書き流し。
福田は「児玉源太郎は現代日本にいくらでもいる。乃木希典がいないことが、今の日本が低迷している要因ではないか」と書く。有能な人物、驚くほど頭のいい人というのは日本にいくらでもいる。ところが、有徳の人、その人のためなら命を捨ててもいいと思わせるようなカリスマや高貴さをもつ人物はいない。立派な人物がいない。乃木は有徳であるということではなく、そうあろうとした、その狂気じみた試みによって賞賛されるべきだという。そういうのって、言わんとすることはわかるけど、そういう情緒的な感慨を1冊の本にされてもなぁ。文学的に昇華されてるでもなし、中途ハンパだ。
2006年06月16日
Icon---Steve Jobs, The Greatest Second Act In The History Of Business
スティーブ・ジョブズの評伝、“Icon---Steve Jobs, The Greatest Second Act In The History Of Business, Jeffrey S. Young, William L. Simon”を読んだ。おもしろい。
AppleⅡによるコンピュータ業界での成功にはじまり、映画業界、音楽業界と、3つの業界で、業界のあり方を根底から変えるような華々しい成功を収めた男でありがなら、一方で自分がもっとも愛した会社を追放され、NeXTとPixarという2つの会社が収入を生み出さずに辛酸をなめるような波乱に満ちた人生だから、そのこと自体だけでも十分におもしろい。そのストーリーに、生々しい個々のプレーヤーの発言や行動が肉付けされて、読み応えのある本になっている。彼を取り巻く才能や個性の数々とジョブズの共感、葛藤、反目、離反が、多数のインタビューやメモを引用しながら良く描かれている。
他人の意見をまったく聞かず、圧倒的な発言力と影響力で会社もプロジェクトも私物化化し、専横の限りを尽くしたような男が、紆余曲折の末に50歳にしてチームワークや家族の価値を何よりも大切に感じるようになった。かつては、技術こそが世界を変えると信じ、自分こそが技術やデザインをもっとも理解する人間であることを疑わない独善的な男で、自分の娘に見向きもせず、はらませた母親もろともうっちゃっていたようなやつが、「技術は何も変えやしない」と確信とともに語る家族的な男に変貌する。人生は、子どもをもつことで変わるという。
この変貌ぶりこそが、この本の浪花節的ポイントに違いない。ところが、その変貌を端的に示すジョブズ本人のプレゼンテーションでの発言が、なんと翻訳本では、とてつもない誤訳となっていて驚いた。
ぼくも、あと1ヵ月で父親になる。妻がちょうど翻訳書で同じ本を買ってきて読み始めたところだったので、ややネタバレ的ではあると思ったけど、「子どもができると人間は変わるんだよ、きっと」ということを妻に言うために、クライマックスの発言部分を翻訳書のほうでパラパラと開いて、探してみた。
新製品紹介のプレゼンテーションを終えたジョブズは、翻訳書では、こう発言したことになっている。
「懸命に働き、ご紹介した新製品を創りあげたアップルの社員全員に、みなさんとともに感謝したいと思います。また、アップル社員の家族や配偶者にもありがとうと言いたい。みなさんとしても、我々にまだしばらく、仕事をして欲しいと思っておられるでしょうから」(井口耕二訳)
ビックリだ。原文は、
"I would like you to join me in thanking all the people at Apple who've worked so hard to create all these new products." Then he added, "I want to thank the families and the spouses of all the people at Apple. Because I know you'd like to have us around a little more."
となっている。
最後のセンテンスは、「家族のみなさんとしては、もう少しわれわれと一緒いる時間があるといいのにと思っていることを、私は理解していますから」となるべきじゃないか。働きづめで忙しく、家にいる時間の少なかったパパたち(やママたち)に、もっと家族と一緒に過ごしてほしいと思っている家族が仕事に示してくれた理解や忍耐に対してありがとうと言っているんじゃないか。だいたいハードワークの結果が出たばっかりで、なんでさらに家族は「まだしばらく、仕事をして欲しい」と思うんだ? ゆっくり休んでほしいし、一緒にいてほしいと思うもんじゃないのか? 日本語訳だけを読むと、まるで過労死でもしかねないような感じだし、そのことをジョブズが悪いジョークにしているようにも受け取れる。
まったく発言の意図が逆になってしまっている。これでは、この本のテーマのひとつでもある人間スティーブの変化を示す、もっとも劇的な発言の真意が伝わらない。
もうひとつ突っ込めば、最初のセンテンスは、私が感謝しているのと同じ気持ちで、「みなさんにも」ぜひ功労者に感謝してくださいと言ってるのであって、単に「みなさんとともに」なんていうことじゃない。join meというのは自分が感謝の言葉を言ってるのに加われ、という意味だろう。感謝しましょうというイニシアチブをジョブズが取っていることがポイントだ。なのに、単純に「みなさんとともに感謝したいと思います」じゃ、ほとんどそのニュアンスが伝わらない。
ワンマンだったジョブズが、率先して「チームプレー」の価値を評価し、チームに感謝とねぎらいの言葉をかけている。この発言は若き日のジョブズでは考えられないようなものだ。そういう鮮烈なコントラストを、この本の著者は最後の部分に本人の発言でもってきているのだから、そのニュアンスを何とか訳して伝えようとするのが翻訳者の仕事じゃないのか。この訳が、その場で通訳する逐語訳なら90点、同時通訳なら文句なしだけど、翻訳で、このニュアンスを伝えていないのはヒドイと思う。
【追記】その後、訳者のブログにコメントを書いたところ、やはり誤訳だったむね返答いただきました。詳しくは、下のコメントをどうぞ。
2006年05月24日
英語習得の「常識」「非常識」
白畑知彦編著『英語習得の「常識」「非常識」――第二言語習得研究からの検証』(大修館書店、2004)
英語習得にかんする俗説の真偽を検証する本。「英語は左脳ではなく右脳で処理される」「言語習得の臨界期は15歳だ」「英語は日本語と使う周波数が異なるので英語耳を作らないと聞き取れない」「辞書を使わずに多読することで文法力や語彙力は自然とあがる」といったよく聞かれる俗説について、言語学研究、なかでも1960年代ごろから盛んになった第二言語習得研究の成果をもとに検証していく。
答えの歯切れが悪い。結論への関心が強いぶん、肩すかしを食らったような印象。要するに、研究者ですら外国語学習について、あんまりよく分かってないんだ。歯切れの悪さは、著者たちの研究者としての知的誠実さの現われだとは思うけど、それにしてもなぁ。
巷間あまりに根拠に乏しい俗説が瀰漫するさまに専門家としての義務感を感じての企画、執筆ということなのだろうけど、肝心の実証的データというやつが、思ったより蓄積されていない。たとえば、インプットの量は文法習得の度合いと相関があるかというような、きわめて基本的と思われる事項についてすら、データがなくてハッキリわからないというようなありさま。分かっていないことを「実はまだよく分かっていません」と言うことは重要だけど、それにしても、これじゃあ、第二言語習得研究の人たちって、いったい今まで何を研究してきたんですかと言いたくなるような惨状じゃないか。全般的にそんなふうに感じた。
1日5分聞き流すだけで英語ができるようになるとか、言語によって周波数がどうこうだとか、左脳右脳がどうこうというような、「そりゃダマされる方が悪い」と言いたくなるような極端な妄説については、否定あるいは疑義を差し挟むだけの反証データを、多くの実験や論文から引用して紹介している。
でも、もう少し微妙な話、たとえば辞書を引かない多読には語彙習得の効果があるのかといったことの真偽についてなどとなると、とたんに歯切れが悪くなる。引用されている論文の1つでは、結論は限りなく「ノー」。しかし、これは実は習得レベルにもよる話で、ある程度のレベルに達したら、これは当てはまらないとする論文についての言及が、欄外の注にあったりする。自分で論文に当たってみなさいということか。
うーん、全体にキレ味が悪い。おもしろい研究報告のデータもたくさんあるんだけどなぁ。特に、小学生に英語をやらせれば云々と言ってる無茶な人たちに、外国語学習と年齢の関係についての他国でのデータを広く知らしめるべきだ。単純に早く始めればいいってもんじゃない。社会全体としてみると膨大なリソースが外国語学習に振り向けられているというのに、肝心の外国語学習についての客観的なデータや議論がいつまで経っても蓄積されないのは、どういうわけか。非合理で情緒的、経験的な議論ばかりが拡大再生産されているのは、なにも語学学習という分野に限った話ではないのだろうけど。
2006年05月16日
パトリオティズム、ダンディズム
北康利『白洲次郎――占領を背負った男』(講談社、2005)
国家の品格なんちゃらいう本を読んでる暇があったら、これを読め。ベストセラーであり、読書界でも賛辞が多かった良書。戦後の占領政策時代の憲法制定を巡る水面下の攻防なんかは、読んでて本当にスリリング。白州さんがまた格好いいんだ。
村松暎『中国列女伝――三千年の歴史のなかで』(中公新書、1968)
前半の名もなき女達の話と、後半の3人の女帝の話がぜんぜんつながっていなくて、ちょっと本として中途半端なのが気になった。それにしても男尊女卑とはこのことかというほどに女の扱いがひどい。物語にしろ、史実にしろ、まあとにかくヒドイ。いや、正確には、古来中国では男女とも権力をもったヤツはともかく残忍だってことか。
松長有慶『密教』(岩波新書、1991)
インドで大乗仏教の一派として生まれた密教はチベットと日本でのみ生き残っていて、東南アジア方面では消滅した。中国という文明を通過して天才空海が持ち帰った密教と、ほとんどサンスクリット語の教典をそのままに翻訳したようなチベット密教の違いを指摘するような話は興味深い。ヒンドゥー教やバラモン教のある土壌に仏教や密教が生まれ、それがアジアにどういう形で伝播したのかというあたりの話を詳しく知りたい。でも、曼荼羅の種類がなんだとか護摩の祈祷の儀式がどうだとか、あまり細かい話をされてもなぁ。どうでもいい。
池田信夫『電波利権』(新潮新書、2006)
放送業界という最後の護送船団利権団体が、いかにときどきの政治権力と癒着してきたかがよくわかる本。戦後日本のメディア史におけるターニングポイントがコンパクトにまとめられていて、いい勉強になった。ケータイにせよ放送によせ、電波の免許制はもうやめてオークション方式にして市場化せよという過激で合理的なメッセージを出発点に、もう少し現実的で段階的な政策提言も淡々と語られている。
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2006年04月17日
ウラ社会
共同通信社社会部著『野望の系譜――闇の支配者、腐った権力者』(講談社、2001)
戦後日本のウラ社会史。表と裏の癒着、汚職事件をまとめた本。まとめたというか、頭から順番にずらずらと新聞連載を並べたような体裁で、ビックリするほど読みづらい。実につまらない本だった。
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2006年04月14日
Freakonomics
Steven D. Levitt&Stephen J.Dubner, Freakonomics---A rogue economist explores the hidden side of everything,2005
気鋭の若手経済学者、レビットが書いた、よろずデータ分析エッセイ。統計処理やデータ分析の基礎的な概念や手法、あるいはモダンな経済学の基礎概念である情報の非対称性だとかインセンティブの種類や構造といった話を、数式やジャーゴンを使わずに多種多様な実例を用いて説明している。
全体として何か新しい考えが学べるとか、そういうものではなかったけど、個々の事例が抜群におもしろい。一般に信じられていることとは正反対だったり、考えもつかないような予想外の結論が次々と登場する。あるいは、うすうすそうじゃないかと思っていることをデータでもって、疑う余地がないような形で示している。米国犯罪率激減の原因分析、相撲取りの星取り表データからどう不正を読み取るか、米国教師たちの不正を示すデータの分析、不動産売買エージェントの販売実績から読み取るインセンティブの構造、庭のプールと拳銃による子どもの事故死の数、低所得者と高所得者層に典型的な子どもの命名とその変遷、選挙戦と選挙費用の相関、イスラエルのデイケアサービスで起こったモラルハザード、とか。
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2006年04月13日
特捜検察
魚住昭『特捜検察』(岩波書店、1997)
腐敗した政財界のみならず、占領統治時代の限りなくクロというGHQ幹部までも含め、歴史的な汚職、脱税、談合事件の数々の摘発劇を描くことで特捜検察とは何かがわかる入門書。好著。佐藤優氏の『国家の罠』やライブドア事件に絡んで、このところ特捜って何だっけと、改めてそんなことを思っていたので読んでみた。著者の魚住氏は、共同通信で長年特捜がらみの取材を続けた人で、何冊か検察がらみの本を書いている。事件の背景も分かりやすく書かれているし、章の区切りごとに、当たり前っぽい組織図と解説があったりするのが親切。取調室の検事や大物被疑者のやりとりが、よく描かれていて、たいへんにおもしろい。ロッキード事件、昭和電工事件、リクルート事件、ゼネコン汚職事件という昭和疑獄史のコンパクトなスケッチにもなっている。
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2006年04月05日
ジャンヌ・ダルク
竹下節子『ジャンヌ・ダルク――超異端の聖女』(講談社現代新書、1997)
悪い本じゃないんだろうけど、イマイチ。ジャンヌのほかにも中世を生きた聖女を扱っていたりと題材はおもしろいのに、考察がありきたりで単純。ドライブ感や盛り上がりに欠ける文章。いろんな要素のつまった結構な入門書でございましたというぐらいしか感想がない。文体の快楽だけを求めているわけじゃないけど、脳みそを興奮させる言い回しや比喩、意外な指摘がない文章って、読んでて退屈だ。この本には記憶に鮮烈に残るような文が1カ所もなかった。
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2006年03月31日
UFOはなぜ墜ちたのか
木原善彦『UFOとポストモダン』(平凡社新書、2006)
米国を情報発信の中心としたUFO神話の変遷から、社会状況や大衆の心理の変化を読み解く試み。UFO史に残る目撃事件や文書、レポートを取り上げていて、それはそれでおもしろいのだけど、その背後にある社会心理の分析が分かりやすいポストモダン思想の入門のようになっていてグッド。説得力もある。
すこぶるおもしろいので、タイトルのまずさが気になった。正しく内容を表していて情報としては過不足がないけど、これでは売れないんじゃないのか。「UFOはなぜ墜ちたのか」とか「なぜ宇宙人はグレーだったのか」とか「UFOはなぜ消えたのか」、そういうのが流行のタイトルだろうし、手に取ってもらえるタイトルじゃないかと思う。
1938年のラジオ放送「宇宙戦争」で起こった有名なパニック事件というようなものがありはするものの、UFO神話には、ほぼ明確なはじまりがある。UFOを目撃したとされる1947年のケネス・アーノルド事件がそれで、これは当時極秘の計画だったプロジェクト・モーガルという連結気球の誤認だったことが、後に確認されている。ソ連の核実験を探知するために高く上げられた縦に連なった巨大な気球だったらしい。
その飛び方を「皿が水切りするような(flew like a saucer would if you skipped it across the water, flat like a pie pan)」と形容したところから、その目撃談を聞いた記者が「flying saucer(空飛ぶ円盤)」と誤って大々的に新聞で伝えたところから、空飛ぶ円盤は生まれた。
この事件を嚆矢としてUFOの目撃談が続くなか、コンタクティと呼ばれる、異星人と交信する人々が現われる。
著者はUFO神話を3つの時期に分ける。最初にUFO目撃談が大々的に報じられたケネス・アーノルド事件から、ぱたっとUFO目撃談が途絶えるまでの1947年から1973年を「UFO神話前期」とする。このころの異星人は、
- 人類よりはるかに進んだ超文明からやってきて、非常に高度な技術をもつ
- 白人、金髪で善良
- 核戦争の危機を免れて、人類に警鐘を鳴らすためにやってきた
というもの。続く1973年から1995年までは、UFO目撃談はほとんど見られなくなる。かわって、異星人に誘拐されて脳にチップを埋め込まれるアブダクションや、牛などの家畜が屠殺されるミューティレーションが話題になる時代で、これを著者は「UFO神話後期」と分類する。このころのUFO神話は、
- 人間を家畜のように扱う悪玉エイリアン
- 古文書や歴史的遺物に異星人の証拠を求める(1968年の『未来の記憶』や1995年の『神々の指紋』)
- メディアの網目に埋め込まれた情報や偽造文書がUFO神話を支えるようになり、目撃談や事実から神話が浮遊しはじめる(UFO神話の文書化)
今でもテレビドラマの題材にさえなっているUFO墜落事件、ロズウェル事件もこの時期に起こっている。ロズウェル事件が象徴的なのは、墜落したUFOの遺物を回収したと発表した軍の情報を報じた翌日に、同じ新聞の1面で「気象用観測装置でUFOではなかった」と誤報であることが伝えられたにもかかわらず、訂正情報は伝播せずに第一報だけが一人歩きしてしまうという、現実からの乖離が起こったこと。
UFOを科学的に研究する価値があるかを調査する政府主導のプロジェクトが立ち上がり、1969年には『コンドン報告』として米政府は公式に空飛ぶ円盤の存在を否定。これが最終的な決定打とはならず、UFO神話は再生産に再生産を重ねて積み上げられていく。
UFO神話と似たような話にバミューダートライアングルもある。大西洋のある海域、バミューダートライアングルと呼ばれる三角地帯では謎の海難事故が多発するという神話。これは、名もないある大学図書館員が丹念に資料を精査して虚構でしかなかったことを明らかにした。明らかにしたにもかかわらず、やはりその後もまことしやかに語りつがれる都市伝説となった。
あるいは、「ロンメル報告書」。報告書ではミューティレーションは、すべて単なる病死などとして否定した。人間業と思えない鋭利な切り口などと言われた家畜の死体を調べてみて、続報で「普通の死」と伝えられても、もはや第一報は取り消せない。
メディアの情報が現実を覆い尽くす。それが後期UFO神話時代の特徴。
言説の組織化は「政府が秘密裏に……」という政府陰謀説と結びつき、さらに増殖する。そこにある強迫的な衝動を、著者は「合理性の非合理」と呼ぶ。
陰謀論者は起きている出来事のすべてに偶然性や非合理性を認めず、すべてをたくらんだ誰かをイメージします。しかし、ここにあるのはただの非合理で断片的な信念ではなく、むしろ逆に、偶然を含めたすべての出来事を合理的に説明しようとする強迫的な衝動です。つまり、陰謀論もまた、非合理なまでの合理が生んだ「合理性の非合理性」の極致なのです。
前期後期のUFO神話は、それぞれの時代の社会不安を色濃く映し出している。前期UFO神話の時代とは、ハーバーマスの言う近代のプロジェクトに対する楽観が、2度の大戦やホロコースト、原爆といったカタストロフィックな体験を通じて崩れ去っていくさまを反映している。ヨーロッパの背中を見て走ることもできない、先端を走らざるを得ない米国の不安が、そこにはあったという。
アメリカ自身には近未来図を提供してくれる存在が欠けていました。もちろん、科学技術に裏付けられた近代のプロジェクトが描く青写真はあったのですが、近代のプロジェクトに対する不信という事態が生じたことで、そこに描かれた未来と現在との間に微妙なひびが入っていました。そのひびから偶然垣間見えたのが天空の光点だったのです。それは、核に代表される新しい超科学技術と疑似科学的超科学技術とのはざま見えた光でした。
第三次世界大戦や最終核戦争といったものは、ぼくが子どもの頃にはよく喧伝されていた。核は、人類にはコントロール不能な不気味な存在として人々の脳裏に焼き付いていた。だから、超銀河文明からやってくる異星人たちは、人類をより高い存在へと導く、先導者としてイメージされた。ラエリアンムーブメントという生き残りもある「UFO教」の多くは、異星人を究極の技術文明の体現者としてあがめている。そこには、神→近代技術文明→異星人という尊崇対象の変遷がある。
前期UFO神話は1973年ごろに目撃談の激減という事態で終焉を迎える。ここから著者は、近代への不信、このまま近代を推し進めるのか、それとも立ち止まって考え直すべきなのかという岐路に立ったときに「大衆文化が与えた答えは、近代のプロジェクトの放棄ではないか」と捉える。このまま科学が発展し、社会は豊かなユートピアになるとギリギリ信じていた時代は終わった。
前期から後期UFO神話の時代に移るとともに、恐怖する対象も変わっていく。たとえば1960年代のアメリカで知的発達障害者を肝炎ウィルスに故意に感染させる実験があり、社会的スキャンダルとして発覚した。そうした人体実験スキャンダルがいくつかあり、その社会不安は「人間を家畜のように扱うエイリアンの視点と重なる」という。1968年にG・R・テイラーが書いた『生物学的時限爆弾』という本が象徴しているように、信用のならない「怖い科学」は核物理から生物科学へと変わったという。
生物科学への不信は、やがて環境ホルモンへと連なる一連の遺伝子系の都市伝説を生み出していく。こういうのも含め、人々の関心や不安の対象が外宇宙から内宇宙に向かい始めたという指摘。ミューティレーションは埋め込み不安や、内面に異質なものを感じていた人々の不安を映し出している。
フーコーの言う刑務所の監視システム「パノプティコン」の話がおもしろい。フーコーの『監獄の誕生』はいまだに読んだことがないけど、いろいろと読みかじった限りでは、フーコーの指摘は、外部権力による統制が、近代では規律の内面化という形で自発的な自己監視によって取って代わられたということらしい。監獄の監視塔(パノプティコン)にいる監視者は囚人からは見えないけど、監視者側から囚人たちは一望のもとに見わたせる。このパノプティコンに相当する「自己モニター」を組み込んできたのが主体が近代人にほかならない。ところが、情報化社会が高度化すると、その主体というものの境界線が曖昧になってくる。年齢、性別、国籍、職種、年収、家族構成といったふうに個人は断片的なデータの寄せ集めになる。アイデンティティーは外部からモニターされ、データベース上で分散管理されるようになる。カード社会では追跡可能な(しかし誰かが誰かを追跡しているわけでもない)購入データ履歴がすべて残る。こうして、超パノプティコンと呼ぶべきシステムが登場する。各個人をデータベース化し、可能な行動の選択肢を管理しているのが現代社会。この超パノプティコンへの違和感は、いまでも多くの人々が感じ取っていて、それが個人情報に対する過剰な反応になって現われているんだろう。
もうひとつ人間の内面、自我の統一性を脅かすのは無意識の存在。自己の言動を統合的にコントロールできると想定されていたのが近代的自我。そこからはみ出す部分にスポットライトがあたり、それを示す実例、見世物的なパフォーマンスとして学術的な装いをまとったショーが登場した。それが多重人格ブーム。
後期UFO神話で現実から遊離した言説は、1995年以降のポストUFO神話では、さらに次の段階へと進む。言説が現実を反映しないばかりでなく、虚構が現実を塗り替える時代となる。それはたとえば、アポロ計画による月面着陸はなかったというような言説で、これは虚構が限界まで達した後の、現実の虚構化、倒錯的なハイパーリアル化だという。
さらにゾッとするのは、『華氏911』は薄められた陰謀論だという指摘。「カルト的な陰謀史観と現実の政治的状況が地続きとなったことを示している」と著者は言う。確かに、華氏911には、頭の悪い人たちの陰謀論と笑い飛ばすこともできないし、かといって政治的リアリティもあまり感じられないという中途ハンパなものを感じる。
1995年以降のポストUFO神話の時代には、身の回りのあらゆるものが「エイリアン(異質なもの)」となっていく。Y2K問題の大騒ぎは、実際のリスクを計算した騒ぎだったというよりも、もはや神話と呼べるものだったと著者は指摘する。UFO神話の題材は、人称をともなった「彼ら」から非人称である「それら」へと移り変わっていく。環境ホルモンやビデオテープの世界にのみ生きると言うスカイフィッシュなど。
ハイパーリアル化に関する、興味深い例が2つ。
サブリミナル効果という都市伝説。研究が進むにつれ、アカデミックな世界では、初期の報告の信憑性がますます疑わしくなっているのに、政府が公的に禁止令を出したことで、いまだに広告業界では真実として語られている。
アメリカでは半分以上の水道水にフッ素混入されている。きっかけはマンハッタン計画で、核燃料の処理工場から排泄されるフッ素が安全だと証明するために微量のフッ素を混ぜたところから始まった。今では陰謀論説は消えて、いつの間にか虫歯予防という全然関係のない都市伝説となって残っている。今では日本やヨーロッパの歯科医までもが「水道水にフッ素を」と唱道するまでになっている。虚構が現実を動かす、ハイパーリアル化。
プリオンにしろ環境ホルモンにせよ、あるいは人類月面未着陸説にせよ、人々がこれらの問題を論じるときのフレームが、ポストUFO神話の時代には、それまでとは大きく変わっている。アームストロングが月面を歩いたかどうかは事実かどうかという問題であるはずなのに、いつの間にか信念の問題にすり替わってしまった。まずある事実があって、それに関する調査や議論があって、専門家の意見が形成されるというのではなく、いまや個々人に信念があって、それらの意見をサポートする専門家がいて、多数の「事実」が併存しているような状況になっている。
UFO神話の3期の分類が、日本社会を論じた大澤正幸の分類と対応している。大澤は、連合赤軍までの1972年を理想の時代(理想との対比で現実を捉える)、サリン事件までの1995年を虚構の時代(虚構との対比で現実を捉える)、そして1995年以降を不可能性の時代(現実を体験できない)とした。
いつものことだけど、読後感想というより、できの悪いまとめノートになってしまった。
UFOの墜落は、近代のプロジェクトに突きつけた「ノー」だったという解釈は妥当だと思うけど、ぼくは、その大衆の感情的判断に「ノー」を突き返したい。楽観していいとは誰も思わないだろうけど、今の段階で近代化を否定するなんて愚かにもほどがあるというものじゃないか。もうひとつ、ハイパーリアル化とか言うポモ用語を使って言い訳してはいけないんじゃないか。オカルトはオカルトして、寝言は寝言として排除しないでどうする。人類が月へ行ってない、そう思うのは自分の勝手だなどという人間たちには放射能たっぷりの月の石でも食わせてやれ。
投稿者 ken : 11:25 | コメント (1) | トラックバック
2006年03月30日
孔子の電波
マックス・ウェーバー『社会主義』(講談社、浜島朗訳、1980)
1918年、老境に入ったウェーバーが、ウィーンでオーストリア将校団の聴衆の前で行なった社会主義批判の講演。
経済政策の決定や、生産組織の設計・経営といったことは、お金持ちが名誉職としてやるか、高給取りの専門家がやるかのどちらかしかなく、近代的な社会・経済システムは必然的に官僚制度を生み出す。長期間の訓練を受けた専門家でないと、もはや細分化され高度化された個々の生産に関する十分な判断能力をもちえないから。ウェーバーはそう言って、官僚制論を軸に社会主義を批判する。
生産手段の私的独占を禁止して、それで国が生産手段を所有したとしても、そこにいるのは官僚であり国家であって、結局、労働者は浮かばれない。経営者相手にストはできるが、国家に対してはストはできないから、むしろ悪い。
資本主義は歴史的必然として崩壊に到るとする3つの資本主義批判、窮乏論、恐慌論、二極化論は、どれもぜんぜん当たってない。
いまとなっては、どれも歴史が証明してしまったことかもしれないけど、1918年の段階では、意味のある批判だったんだろうか。解説によると、所有と経営の分離を説くバーナム流の経営論、テクノストラクチャの優位性を説くガルブレイスの見解、資本主義と社会主義の両方が高度産業社会として接近していくのだとする収斂理論、理論的知識の優位とテクノクラートの支配を予見するダニエル・ベルの脱工業社会論などの主張と軌を一にするもの、なんだとか。ふーん。
浅野裕一『諸子百家』(講談社、2004)
近年新たに出土したという竹簡も使い、老子、荘子、楊朱、孔子、孟子、墨子、恵施、公孫龍、鄒衍、孫子、韓非子という11人の思想家を、彼らが生きた時代とともに描き出す。「彼ら」といっても、実在した1人の人間であったケースばかりではないし、かなり実像と違って日本に伝わっているような場合もあるらしい。温故知新とうそぶきながら、実は田舎モノで儀式の執り行い方なぞ知りもしなかった孔子の電波っぷりにビックリ。乱世を終わらせるには古代の王朝の儀礼を取り戻せばいい、という原因と結果が転倒したような主張も、言われてみればなるほどヘンだ。というか、孔子はかなり山っ気のある変人だったというわけか。そんな変人のタワゴトが、日本で、なぜありがたがられたかについての経緯がおもしろい。
絶対的な価値判断などないのだと喝破する恵施の考えに、ちょっと共感。あるいは孫子の兵法にも人間洞察の深さや、戦争という暴力に冷徹な計算を持ち込んだクールさで感心するところはあるけど、どの思想家の思想も、まあ、そんな思想が流行した時代もあったのねというぐらいの話で、歴史的意義以上のものはなさそう。
易性革命というのは、古代中国からの伝統だと思っていたけど、場合によっては臣下が主君を弑逆しても良いのだとハッキリ言ったのは孟子が最初らしい。
宮崎市定『隋の煬帝』(中公文庫、1987)
骨肉の争いというより、肉親や兄弟間の殺し合いや裏切りがあたりまえという、何とも恐ろしい南北朝時代の末期に登場した暗愚な暴君の生涯を、前後の歴史を含めた時代背景とともに描いた楽しい読み物。読みやすく、きわめておもしろい。宮崎先生の本は、ほかに2冊買ってどこかに眠っているはずなので、期待がふくらむ。
投稿者 ken : 11:41 | コメント (0) | トラックバック
2006年03月01日
私の嫌いな10の人びと
中島義道『私の嫌いな10の人びと』(新潮社、2006)
最近こういう本ばかり手に取ってしまう。心には悪意と憎悪が満ちていて、それを浄化してくれる人が必要なんだな、きっと。毒には毒を。
- 笑顔の絶えない人
- 常に感謝の気持ちを忘れない人
- みんなの喜ぶ顔が見たい人
- いつも前向きに生きている人
- 自分の仕事に「誇り」をもっている人
- 「けじめ」を大切にする人
- 喧嘩が起こるとすぐ止めようとする人
- 物事をはっきり言わない人
- 「おれ、バカだから」と言う人
- 「わが人生に悔いはない」と思っている人
端的に言えば、この人は鈍感な人が嫌いと言ってるだけだ。でも、偽善的、独善的、自己満足的な人々は、不誠実なわけじゃなくて鈍感なのだ。だからそのことを責めても仕方がない。だけど、あまりにも世の中に鈍感な人が多すぎる。
鈍感でない人は、コミュニケーション上、下品な言葉を避ける傾向にあるから、「おまえは愚鈍だ。おまえは偽善者だ。自家撞着と自己欺瞞のカタマリだ」などとは決して言わない。そもそもマシな人たちはボンクラを相手にしない。それで、自分がバカであることに気づかないほど愚鈍な人間は、ますますつけあがる。そういう状況をみて、「おい、誰か何とか言ってやれよ。言わないなら、よーし、オレが言ってやらあ」てなもんで、一定の割合で、こうやって嫌われ者になる人がいるってことなんだろう。
そういうものを読んで、溜飲を下げるぼくのような人間がいる。代わりに嫌われてくれてありがとう、と言いたいけど、そう言った時点でぼくも立派な嫌われ者になってしまう。
こうした価値観から導かれる帰結であるところの常軌を逸した行動様式を、この先生は断固として貫いている。誠実というほかない。「学者はみんな人格破綻者だ」と言ってしまう学者先生らしくて、いいなぁ。
投稿者 ken : 23:51 | コメント (0) | トラックバック
2006年02月28日
日本の詩歌
大岡信『日本の詩歌』(1995)
1995年に講談社から出た本で、10年経って岩波の文庫になった。1994年と翌95年にフランスのコレージュ・ド・フランスでフランス人向けに行なった5回分の講義をまとめたもの。コレージュ・ド・フランスってエコール・ノルマルやポリテクニークと同じで、ふうつに授業料を払って通う大学かと思っていたけど、そうじゃないらしい。国家元首に直接使命された各界の研究者が、単位や卒業資格などと関係なく集まった聴衆に向かって思う存分講義をするというところ。フランスの知性を代表する名だたる学者たちが講義をしてきたそうだ。
ともあれ、岩波にハズレなし。すばらしくおもしろい。著者自身が外国人にも出来る限りわかりやすいよう明晰に原稿を書いたというとおり、本当に分かりやすい。
和歌がまだ日の目を見ない時代に、立派な漢詩を書いた天才詩人にして政治家の菅原道真から説き起こし、紀貫之による初めての勅撰和歌集の成立背景と歴史的意味、その本質を語り、続いてなぜ日本にはかくも一流の女性歌人が多く排出し、彼女らはほとんど哲学的とも言えるほど恋愛感情から昇華された自己省察を歌に残すほどの洗練にいたったかを説く。さらに、日本で多く詠まれた叙景の歌で、西洋的基準からすれば主観の欠如とも言うべき現象をあげ、そこに日本の近代詩歌や散文だけにとどまらない日本人の表現意識全体の特徴を指摘する。最後に『梁塵秘抄』や『閑吟集』といった中世に編纂された歌謡集の魅力を説く。「和歌が、その優美さの伝統ゆえに覆いかくすことを余儀なくされた性的なるもの、露骨に生活に密着したものを、ごく平然とよび起こし、それらを洗練された機知と人間観察の微笑にくるんで、私たちの世紀にまで送り届けてくれた」のが、遊女や庶民が当時うたったという歌謡の数々。
引用される詩歌の数は少ないけど、説明の論理展開にキッチリ収まりつつ、それ自体としても味わい深いものばかり。
大岡信って、いつの間にか75歳という高齢だったのか。朝日の1面で連載していた(今でもやってるのか?)「折々のうた」、まとめて読んでみようかという気になった。
投稿者 ken : 23:20 | コメント (0) | トラックバック
新しい物性物理
伊達宗行『新しい物性物理』(講談社、2005)
ブルーバックス。ちょっと期待はずれ。「身の回りにある数百万種の物質を統一的に理解する物性物理の最前線」と帯にあるのは大げさ。物性物理をさらっと概観しつつ、最前線のトピックをランダムに拾ってぐちゃぐちゃっと書き上げた本という印象。おもしろいトピックも多数あるけど、まとまりがない。数珠のように一次元的に説明を積み重ねている印象がある。前後への参照も多くて読みづらい。想定している知識レベルが高いのか低いのかよくわからない。前提知識を不要とするような説明をしたかと思えば、急に「説明は本書のレベルを超えるので省く」的な言い回しが出てきて、なんだか、ちょっと不親切な感じ。
驚いたこと。
- K中間子やB中間子は物質と反物質で半減期が違う。という不釣り合いが、物質だけが残って反物質が消えたというシナリオ。
- 遷移元素の電子配列の妙。どうしてひょっこりと電子殻を飛び越すのか、図を見て納得した。
- 原子量が増えるにつれて白銀に近い光沢になるべき金が、なぜ銅のように色つきなのか。金の内殻電子は光速に近い速度で動いており、その結果、相対論的効果で質量が大きくなり、軌道半径が縮んでいる。金原子は本来あるべきサイズより遙かに小さく、銅に近いサイズにまで縮んでいる。
- ある種の水素結合では水素原子が隣の分子にひょっこり飛んでいっては戻ってを繰り返している。交換効果。
- 地球上の生物は例外なくL型のアミノ酸ばかり。鏡像関係にあるD型アミノ酸は一切ない。D型アミノ酸でできた宇宙人が地球に来たら食べるものがなくて死んでしまう。
磁性体の話がえらく難しくて、スピンの話について行けない……。
投稿者 ken : 23:15 | コメント (1) | トラックバック
2006年02月21日
現代ベトナム入門
松尾康憲『現代ベトナム入門――ドイモイが国を変えた』(日中出版、2005)
共同通信前ハノイ支局長によるベトナム入門。「ベトナム取材雑感」に、ベトナム史を少し加えたという体裁。古くは中国、のちにフランス、アメリカ、日本といった帝国主義国家からの侵略にさらされ続けた歴史から説き起こし、80年代後半に本格化した「ドイモイ(刷新)」の開放路線による経済復興までをまとめている。入門というには雑多で細かな情報が多すぎるために、ややまとまりに欠ける感じ。どちらかというと時事ネタブログみたいだし、どうも著者がジャーナリストだから当然と言えば当然だけど、報道の自由や情報公開に関するスキャンダル話なんかが多い。そういうところで冗漫さは感じたけど、自分で見聞きした体験を語る人の言葉って、おもしろい。外国人として初めて仏教寺院に「ラオスから来た僧侶」ということで入り込んで剃髪までしちゃうような、行動力のある人。
追記:はじめ時事通信と書いたのは誤りでした。松尾氏は共同通信前ハノイ支局長でいらっしゃいました。著者ご本人からご指摘をいただきました。大変失礼しました。(3/4)
好悪も含め、対象に対する思い入れが行間から見えてくる。ことあるごとに中国と「小中華」とも言えるベトナムを比較し、むしろベトナムを擁護することが多い。おもに西洋人で構成される国境なき記者団の、東洋に対する無知と偏見を指摘しているけど、そう言ってる松尾さんは、ややもするとベトナムびいきに過ぎる嫌いがあるように思われる。そのぐらいでちょうどいいとは思うけど。
「社会主義市場経済」という形容矛盾的な開放市場政策の、行きつ戻りつの動向が興味深い。徐々に市場を開放しつつあるかと思えば、鶴の一声的に海外からの投資熱を一気に冷ますような暴挙に出てみたり、国営企業は国「有」企業へと改名したものの、相変わらず赤字を垂れ流していたり。
国の統治体制のあり方について孫文の『建国大綱』から「軍政、訓政、憲政」という政治的進化の3段階を引いてきて、いまのベトナムは訓政期じゃないかと指摘している。中国は天安門事件を見れば分かるとおり、軍政期。で、孫文はもちろん社会主義国家建設のことを言ってるのだろうけど、この区分は必ずしも社会主義国だけに当てはまるものじゃない。たとえば韓国は、独裁色の強い大統領による長期間の訓政を終えて、いまようやく憲政期にさしかかりつつある。あるいは、戦後日本が歩んだ道も、これに当てはめてみることができるのではという。GHQ支配下の日本は「軍政」と言えるだろうし、戦後の少数のエリート官僚と国策による産業育成は「訓政」と言える。今ようやく憲政期に入らんとするも民主主義に必要とされる諸条件が未熟じゃないのかというのが、今の日本。建前上は1952年の占領統治終了時に憲政は始まっていることになっているけど。
お隣カンボジアのクメール・ルージュやソ連や東欧の崩壊とその後、あるいはかつての同胞キューバの孤立といった共産主義国家の失敗や悲惨な歴史を見てきたベトナム指導者たちの間には、革命的な急激な社会変革が多くの人間を不幸にするのだという認識があって、段階的に資本主義的な政策も取り入れるし、情報公開も進めているんだという。
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2006年02月20日
ゲバラ映画
ウォルター・サレス監督『モーターサイクル・ダイアリーズ』(英米合作、2004)
とぎれとぎれで本を読むのは、まったく苦痛じゃないけど、PCでちょびちょびと映画を観るのは結構きついなと思った。最後は結局まとめて1時間ぐらい見た。
1951年、23歳で友人と2人でおんぼろバイクにまたがって南米大陸縦断の旅に出た若き日のゲバラを描くロードムービー。どこまで史実に基づいているのか、そのへんの背景情報がよくわからないけど、爽やかな映画だった。
この冒険旅行は、その後、ゲバラをキューバやボリビア、果てはアフリカにまで駆り立てるキッカケともなったという話だから、政治的な覚醒に関して暗示的なシーンが随所に登場する。搾取にあえぐ原住民、国を追われた善良な共産主義者夫婦、ハンセン病で隔離される療養所の人々など、社会的に抑圧された人々と交流する場面場面で、ゲバラの瞳には哀愁の蔭がさす。マチュピチュの遺跡を前に言葉を失うゲバラは、「どうしてこれだけのものを築いた文明が、あの文明に滅ぼされなければならなかったのか」と南米人としてのアイデンティティの目覚めらしき言葉を発する。
といって、そういうシーンがうっとおしいほど出てくるわけでもなく、全体を通して描かれているのは、ゲバラ青年の情熱、他者にまっすぐに向き合う真摯さ、無鉄砲さ、若さゆえの世の中に対する素直な懐疑といったもの。後に世界中の左翼から偶像的に崇拝されることになる革命家というには、あまりにも普通の青年という感じ。むしろそれだからこそリアリティがあったりして。「情熱的に美女を愛した」と言えば聞こえはいいけど、まあ、若い頃から女たらしだったんじゃないのかと思うわけで、そのへん、ちょっと美化しすぎじゃないかと勘ぐってしまった。だいたい役者が実物よりも今風の二枚目だし。
風景がどれも美しく、画面の構図がいい。広大な草原、雪を頂くアンデスの山々や遺跡、霧に煙るアマゾン、広漠とした砂漠。土煙を上げながらバイクで走り抜けたり、てくてく歩いたり、ヒッチハイクしたり、筏で川を下ったり。
ジャック・ベルク『コーランの新しい読み方』(晶文社、2005)
コーランの仏訳で知られるというアルジェリア生まれのフランス人、ジャック・ベルクが、おもにキリスト教徒のフランス人を前に語ったコーラン入門。自分自身はムスリムじゃないと明言しつつも、コーランへの強い思い入れが感じられるけっこう熱い語り口。概説のような入門を期待して読んだけど、ちょっと違った。阿刀田高のエッセイのほうが、マシだったかも……。
繰り返しや重複の多い文書構造をどう捉えるべきだとか、時間を越えた神の啓示がコーランを通して、どういうふうに人間世界の時間と関係してくるのかといった、抽象的で分析的な議論が多い。もっともわかりやすくて、なるほどそうなってるのかと思ったのは、コーランとイスラム的なものの関係。イスラム法というのは、てっきり大要はコーランに書かれているものなんだと思っていたけど、そういうものではないらしい。コーランに書かれた寓話や教えから、具体的な社会の法を導き出して議論するのはイスラム法学者の仕事で、それが膨大な文献となって蓄積されているということ。しかし、例外を除いて「金を貸しても利息を取ったらいかん」というような教えの元、どうやったら証券取引法とか整備できるんだろうか。そんな問題じゃないか。
コーラン、イマイチ読む気がしない。
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2006年02月06日
百年百昔
日本経済新聞社編『ソニーとSONY』(2005)
出井社長が舵を取った10年を中心に前後のソニー浮沈を描いたドキュメント。あ、浮沈じゃなくて、ソニーの呻吟についてだった。どういう取材をしたら、これほど細かなコメントや嘆息、ぽろりと身内にこぼしたような発言まで拾えるんだろうか。しっかりした構成と関係者の発言の引用、さすが経済新聞社。創業者OBや社外取締役たちも含めた、パワーゲームの微妙なアヤを、うまーく描き出している。特に深みがあるわけでもないけど、ビジネス書、かくあるべしといいたくなるような本だった。それにしてもソニーって興味深い会社だ。もう少しソニーの歴史を知りたくなった。
森鴎外『ヰタ・セクスアリス』(1909)
約100年前に書かれた文豪による性遍歴自伝。アンドレ・ジイドみたいに5歳でオナニーを覚えたとか、はじめて他人の男色シーンを目撃したときに吐き気がしたとか、そういうインパクトのある話を期待していたわけではないけど、それにしても、あまりにも平坦というか、イベント性に乏しい性の目覚めだったようで、実にツマラナイ。あたかもその性への淡泊さが、自らの理性の徳でであるかのように自慢げに、しかも架空の物語として書くあたりが実に嫌らしい。これで、出版当時、公序良俗に反するとかで発禁処分になったというから、本当に隔世の感がある。100年100昔ぐらいだ。
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2006年01月30日
ウンコな議論
杉山文彦編、時事通信外信部著『世界テロリズム・マップ』
新聞に連載でもしていそうな、手短でよくまとまった古今東西のテロリスト紹介。過不足がなくて、こういう本もいいなと思った。議論や見解より、まず事実。
黒田東彦『通貨の興亡――円、ドル、ユーロ、人民元の行方』
パクス・ブリタニカ時代に栄華を誇ったポンド盛衰史が興味深い。150近くある世界の通貨がドル、ユーロ、アジア通貨の3軸通貨制に収斂していく見通しといった近未来の話もおもしろいけど、世界共通通貨の可能性を論じる終章がなかなか刺激的。
V・S・ラマチャンドラン『脳のなかの幽霊、ふたたび』
これまたすごい本だった。茂木先生だって、こんなおもしろい本は書いていないんではないか。海馬本で不意に売れちゃった若手研究者の池谷さんにしてもそうだけど、ラマチャンドランほど本がおもしろくないのは、自分で「脳とは何か、自己とは何か」という根源的な問いに迫るような研究したり、大胆で説得力のある仮説を立てたりしていなくて、ただ脳科学の現状俯瞰図や雑学的知識を紹介しているだけだからじゃないだろうか。これを言っちゃオシマイかもしれないけど、ラマチャンドランのような神経内科医は圧倒的にポジションが有利だ。マウス相手にせこい脳研究をやるより、精神疾患を患う人間の脳をダイナミックにfMRIで観察するほうが、今は実りが多そう。茂木先生もいまは次なる科学革命の胎動期だと言っているけど、そう言って騒いでいるばかり。ラマチャンドランは、その科学革命のど真ん中にいる1人に違いない。
それにしても、ピンカーやダマシオ、ラマチャンドランといった人たちの、まっとうなサイエンス本が売れる英語圏に比べて、日本語圏では、いったいどうして養老ナニガシ、沢口ナニガシ、森ナニガシといった、脳科学にかこつけて愚にもつかないオヤジ的説教をぶつ人の本しか売れないのか。そこにドリル式前頭葉産業が付け加わると日本の“脳関係出版地図”の9割は塗りつぶされる感じか。
「意識とは? 自己とは?」という問いは、もはや誰も、かつてと同じ意味では「生命とは?」と問わなくなったのと同じように、いずれ問われなくなるだろうという指摘になるほどなと思った。生命現象は、組織や臓器といった個別の活動に還元され、もはや神秘主義者以外には、生命とはと問う意味はなくなった。意識は、知覚や判断を上位で統合するために進化したという話には説得力がある。
ブライアン・フェイガン『古代文明と気候大変動――人類の運命を変えた二万年史』
小舟を翻弄する5メートル程度の波浪も、タンカーのような巨躯には何の影響もない。逆に小舟にとっては水位の変動としか思えないような巨大な波は、タンカーをひっくり返すような水の壁となる。規模の大小が、外部の変化力に対する対応力を決める。大きければいいというのでもないし、小さければいいというのでもない。小さな農耕民の集落は、気候変動に弱い。農耕を組織化し、灌漑システムや防波堤を築いた古代文明都市は、小さな気候変動に耐えられるようになったものの、数世紀にも及ぶ干ばつや寒冷化などに対しては脆弱になっていた。
たまたま穏やかで暖かい気候が続いた20世紀中に現代文明は発達したけれども、次に大規模な気候変動がやってきたとき、いったいどれほどの人間が、自分の住む場所から移動もできず、よそから食糧を受け取ることもできず、餓死していくことになるか。もはや数百万や数千万という単位では済まない。
ハリー・G・フランクハート『ウンコな議論』
1970年代にプリンストン大学の哲学教授が当時匿名で書いた怪文書が、時代を経て書籍化され、アメリカで人気を博しているらしい。その翻訳。訳者は山形浩生さん。爆発的には売れないだろうけど、固定ファンもいるし、結構いいセン行きそうな本だな。著者より翻訳者の名前のほうが大々的に表紙に刷られている。本文56ページに対して、解説が48ページ。相変わらず山形節が効いてて楽しい。
くちばしの真っ黄色な若造たちが机上の空論的な共産主義思想を語るのとか、反知性主義や過剰な文化相対主義が知的権威に対して挑戦していた時代、ウンコな議論に辟易したところから匿名で書かれた文書らしい。アウグスティヌスの嘘の14分類だとか、ヴィトゲンシュタインの冗談のような笑っちゃうエピソードなんかを交えつつ、しかつめらしい文体で「ウンコな議論」を哲学する。世の中には、なぜウンコな議論がはびこるのか? たとえば、誰もが自分が知らない分野のことについて意見をもたなければいけないような気がしていて、言わなくてもいいことを言ってしまうから、なんてことがある。山形さんは新聞の論説委員がトンチンカンな経済論をぶってしまう、なんて例を挙げている。
冗談で書かれた本とはいえ、読んでいてハッとさせられたのは、ウンコな議論をするある種の人びとは、命題の真偽に関心を抱いていないのだという指摘。真実や何が役に立つ議論かといったことになど興味がないのだ。なるほど、そういえばそうだ。だからぼくはウンコな議論をするヤツが嫌いなのだ。
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2005年12月21日
Yakuza
猪野健治、鈴木智彦『親分 日本アウトロー烈伝』(2005、洋泉社)
マフィア、特に禁酒法時代のアメリカのマフィアを扱った本や映画が好きだけど、そう言えばジャパニーズマフィアについては、あまり知らないなと思って手に取った。よく書けていておもしろい!
黎明期、戦後復興期、経済成長期、昭和と時代ごとに3~4人の代表的なヤクザの親分を選んで、その生涯や抗争の歴史をたどる本。炭坑街の人足、博徒、テキヤ、愚連隊、近代ヤクザと、時代とともに変わるヤクザ集団を引っ張った任侠たちの生きた時代が、活き活きと描かれている。
Wikipediaによると、著者のひとり、猪野健治さんは1973年に『やくざと日本人』という通史を書いた人だそうだ。名著らしい。是非とも読まねば。
1986年に全米ベストセラーになったという『Yakuza --- The Explosive Account of Japan's Criminal Underworld』という本とか、ベンジャミン・フルフォードが2003年に書いた『ヤクザ・リセッション』なんて本は、どちらもヤクザが日本の近・現代史を動かしてきた黒幕であると指摘しているという話。これに対して、猪野健治はヤクザは体制側や巨大資本に利用されて動く従属的存在であるとした、という違いがあるらしい。『親分』でも、戦後の三国人とテキヤの対立・抗争は、下層民同士が結託して革命に走るキケンを恐れたGHQが共倒れにさせようと画策したもので、彼らはむしろ踊らされていたのだというような見方が紹介されている。ヤクザは単純で悲しいヤツらなのだ、と。ヤクザが怖いと世間は言うけど、まあ、よほど国家のほうが怖いよという話かもしれない。はるかにスマートで権力もあるんだし。ヤクザが抗争で日本刀を振り回すなんて話も、軍の武力や国家の警察力と比べると、子どものケンカと武道家ぐらいの違いがある。
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2005年12月19日
黒いスイス
福原直樹『黒いスイス』(新潮新書、2004)
スイスのダークサイド――、ナチスに協力してユダヤ人を国境で追い返したこと、ロマ族と呼ばれるジプシーの子ども達を施設に隔離するため、国家ぐるみで誘拐を繰り返していたこと、欧州におけるネオナチ活動の一大拠点となっていること、マネーロンダリングの温床として、いまでもEU各国をはじめ国際社会に非難されていること、相互監視社会との批判もあるほどの住民の密告体質があること、移民受け入れの住民投票であからさまな人種差別があること。
特に欧州の国々がそうだけど、憧憬の国として美化されがちな国家や社会をもってきて、その社会の暗黒面を描くような本というのが、ここ数年は流行しているのか、それともぼくがたまたまそういうものを手に取ってしまいがちなのか、よくわからない。でも、そろそろ食傷気味。暗黒面だけじゃなくて、ふつうに全体像を描けばいいのに。というわけで、ほぼ同時期に買った『物語 スイスの歴史』(中央公論)のほうに期待。
斉藤美奈子が『ブックオブザイヤー2005』という本で、売れている本のタイトルをずらっと並べ、詰まるところ日本人の平均的な活字解析能力は中学生並みなのだと言っていた。フィクション、ノンフィクション問わず、中学生並みの単純な論理、わかりやすいストーリー、平易な文章の本しか売れない。
この新書にしても、「えーっ、スイスってハイジと湖とゼンマイ時計の国じゃないの?」というナイーブな反応を想定して、あまりにもわかりやすく書かれている気がしてならない。善悪入り交じるふつうの社会に生きる成熟した大人であれば、どんな社会にだって暗黒面が潜んでいることを知っているわけで、それは話の出発点でいいと思う。「スイスだって実はこんなに黒い部分がある。これは由々しき問題だ」と指摘して、そこで終わっちゃうのって、妄想に基づいて特定の社会を理想化するナイーブさと、五十歩百歩と言えなくもないような……。
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2005年12月15日
VSL理論
Joao Magueijo,Faster Than the Speed of Light---The Story of a Scientific Speculation,2003
「もし光速度が一定ではなく、変化することがあったら?」という仮定から出発するVSL理論。最近とみに論文の数が増えてきたりして、宇宙論を含む理論物理学界隈で話題となっているらしいので、VSL理論の生みの親と言える人の本を読んでみた。
光速度不変は相対論の二大要請の1つだから、「光の速度はひょっとしたら変化することもあるのかも」と唱えるのは、20世紀物理学の泰斗、アインシュタインに対して「まちごーとったんちゃうか」と言うようなもの。1990年前後に著者が、このアイデアを周囲に口にしはじめたころには、ジョークとしてしか捉えらないか、頭がおかしくなったと心配されるか、というさんざんな反応だったという。現代物理学は光速度不変という大前提を多くの理論に組み込みつつ発展したきたし、大成功を収めてきたので、今さらその前提がひっくり返せるとか、ひっくり返すことに意義があるなどと考える物理学者がいなかったとしても、ぜんぜん不思議じゃない。スキャンダラスな提言だし、もし実験や観測によってVSL理論の一部でも確証されるようなことがあれば、アインシュタイン以来の革命になるんだろう。
微妙な本だ。前半はアイシュタインの起こした革命の意義やエピソードを楽しく語っていて、よく書けたポップサイエンス本の体裁をしているのに、いざVSL理論の説明にという後半になると、いきなり口調まで変化してアカデミズムの世界を取り巻く環境に対する苦言が主となって、肝心のVSL理論は脇に追いやられてしまう。VSL理論が完成にほど遠く、理論のバリエーションやアイデアがぐつぐつ煮えている段階であるという事実を差し引いても、これじゃ読者は何がなんだかわからないまま置いていかれた気分になるよ。
本の後半では、英国のアカデミックな世界のスノビッシュで保守的な閉鎖性を攻撃し、大学や研究機関を牛耳る年寄り学者の振りまく「老害」を指弾。十分なエキスパティーズもないくせにめちゃくちゃな理屈で論文を却下する学者崩れ科学雑誌編集者を大バカ呼ばわりし、寄らば大樹で安全なテーマしか選ばない職業科学者への軽蔑を隠さない。ひも理論があまりに現実から乖離して数学的構造の美しさだけで突き進むのを見て、M理論のMはマスターベーションに過ぎないとかいう。
原理的に実験による裏付けが不可能な理論など意味がないという話のときに、ボーアが漏らしたというアインシュタイン評も出てきたりする。アイシュタインは元々は地に足のついた(現実世界にリンクした)物理を目指したはずなのに、あまりの理論の華々しい成功によって、晩年には数式の美しさを追い求める頭でっかちになりはてた、と。この手のエピソードはおもしろい。科学雑誌の論文査読者に対する憤懣をぶちまける文脈で、アインシュタインですら1度、1930年に論文を却下されたことがあるという話を紹介している。却下理由を告げる手紙を受け取ったアインシュタインは、怒りのあまりその手紙をびりびりに破いてビンに入れ、そのビンを蹴っ飛ばすなんてこともしたという。だから、論文査読者にはどうしようもないハズレがいて、宝くじみたいなものなんだよと著者は言う。
こういうエピソードや個人的体験談は、とてもおもしろい。かなりあからさまにプライベートなことも書いているし、周囲の人間もよく描写している。でも、肝心のVSL理論は……。
結局なんとなくわかったのは、宇宙論には宇宙初期の歴史にかかわるナゾでインフレーション理論では説明がつかない問題がいくつかあって、VSLは妙にスッキリ問題が解けそうだという話や、ひも理論の人々がいう11次元の世界では光速度は一定で3次元の世界のたたみ込まれるときに、事情が違って見えてくるだけじゃないかとかいう、そんな符合にも気づいたりしているところらしい。インフレーション宇宙論って、メインストリームであるばかりでなく、もうほぼ間違いない宇宙像だろうと思っていたけど、そうじゃないってのがちょっと意外だった。
1本だけ数式が出てくる。E=mc^2/(1+mc^2/Ep)というもので(……あれっ、これってE=mc^2/(1+Ep/mc^2)の間違いじゃないのか) 特殊相対論的な時空間の法則が、日常的な生活環境では近似的に古典なニュートン力学と一致するように、VSL理論もプランクエネルギーがどういういうような世界以外ではアインシュタインの相対論と一致しているという話。
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2005年12月12日
第三の道
アンソニー・ギデンズ『第三の道――効率と公正の新たな同盟』(日本経済新聞社、1999)
社会保障制度を充実したらモラルハザードが蔓延した。制度にタダのりするフリーライダーが出てきて、生産効率が低下した。共産主義国家は内側から崩壊し、北欧の福祉国家は、たいした仕事もしていない大量の公務員を抱えて重税にあえぐ。それじゃいかんと、新自由主義者がやってきた。サッチャリズムやレーガノミックスに代表される小さな政府で最小限の福祉を目指せと言う新自由主義は、貧富の格差の拡大と、それによる社会的荒廃をもたらした。しかし、今さら手厚い社会保障制度の福祉国家などには戻れないよと言って、さあどうしようかとなったときに、ギデンズは言った。「何ごともほどほどやねんて。まんなかや、中道やで、ホンマ。せやからまあやる気を出させる社会ゆうのん? 社会階層を超えてスタート地点で子どもたちが差別されない、そういう社会にしましょうや。教育や、教育やねんで」。そうして生まれ変わった社会民主主義はトニーブレアという為政者を得て、イギリスでは幾多の優れた政策に結実している。
時代も状況も違うとはいえ、すでに学ぶべき先例があるというのに、日本は今ごろ周回遅れで新自由主義に急激に傾きつつある。ほんまにええのんかいな、ギデンズでも読めと言われて読んでみた。
個別の政策提言の是非はよくわからないけど、あまり原理原則でどうこういうんじゃなく、ポリシーとしては中道、個々の政策については是々非々で論じようというギデンズの言い分はもっともだなとは思った。いまどき右や左が截然とわかれるものでもないので、ギデンズの言う第三の道を修正左翼主義と評するのはトンチンカンな印象がある。どっちの道も行き過ぎたらダメだったんだから、残る道は、机上の空論的ユートピア思想をのぞけば、「どっかまんなからへん」にしかない。
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2005年12月08日
アラブの格言
曽野綾子『アラブの格言』(新潮新書、2003)
ネット上でイスラム圏の人とチャットすると、すぐに何かコミュニケーションのやり方が違うなと感じる。互いに外国語(英語)でやりとりしてるからということだけでは説明のつかない違和感がある。妙に馴れ馴れしいかと思えば、ちょっとしたことで急に憤ったりする。正直いって、ムスリムたちは、あまり相手にしたくないし、仲良くなれるとも思わない。ほどほどの距離感で互いに笑っていられるほうがいいんじゃないかと思うんだけど、そうやって距離を取ろうと思うと、「マイ・フレンド、おまえはこのチャットルームから出て寝るといったのに、なんで別の部屋でしゃべってるんだ! おまえは俺に嘘をついた!」とか言われる。社交辞令の嘘ぐらいで憤るなよ、マイフレンド……。そもそも、ネット上でちょっと話しただけで、なんでプライベートのことを腹を割って話そうとか、親友になろうとか、そういう発想をもつのかが信じられない。彼らには、親友か敵かしかないのか。
ぼくがよく使っていたチャットルームでは、参加者の国籍が、その国の国旗で表示される。サウジアラビアの国旗って「アッラーの他に神はなく、ムハンマッドは神の預言者である」と書かれてあって、剣がドーンと横たわる意匠で、なんかプレッシャーを感じてしまう。現代を生きる陽気なメトロポリタン的なヤツもいるけど、やっぱりかかわりたくないよなぁって。宗教を超えて分かり合おう、せめて言いたいことも抑えて協調していこうという時代に、なんだ、この前近代的でわらず屋の自文化中心主義は。
ことほどさように偏見に凝り固まっているぼくのアラブ観は、この『アラブの格言』という本でさらに一層強まったかも。
おふくろを売り飛ばして、良い銃を買え。(サウジアラビア)
などと恐ろしいことをいう国の人たちと、どうやって付き合えと。他宗教の人間に対しては、
あなたが必要としている限り、キリスト教徒に親切にしなさい。しかしそうでなければ、やつらの頭の上に壁を引き倒せ。(レバノン)
とかいう。これはまだしも基本的に同じ神を信仰しているキリスト教徒にたいする話。彼らがいうところの「教典の民」に対する見方であって、教典すら持たず、神さえ信じていない人々など、当然のように殺してもいいという話だもんな、イヤになるよな。
砂漠という厳しい自然環境のなかで、文字通りの弱肉強食の生存競争を繰り広げてきた彼らは生物学で言うところの血縁淘汰とも言うべき、激しい「自分たち」「やつら」の対立を続けてきた。部族同士は殺し合い、奪い合う。
- 隣人に弱みを打ち明ければ、斧でばっさりやられる。(アラブ)
- お辞儀をした首は切られない。(トルコ)
- 見知らぬ人と握手したら、後で指を数えろ。(ペルシャ)
- 噛みつけない手には接吻しておいて、後で骨が折れるのを祈れ。(アラブ)
- 他人の家では思っていることをしゃべらず、ドアを開けず、質問をするな。(マルタ)
- 俺の壺を一個割ったら、百個割り返してやる。(アラブ)
- 人に食べ物をやる時は、満足するまでやれ。殴る時は、徹底的に殴れ。(アラブ)
- もしも盲人に出会ったら、地面に投げ倒して弁当を盗むのだ。なぜならおまえは神よりは情け深くないのだから。(レバノン)
やれやれ……。ジャイアン的と言うべきか。こんなジャイアンもいる。ジャイアンというより、うーん、何だろうこのすがすがしいまでの開き直り感は。
「俺のパンはおまえのより大きい」と言われたら「少しくれ」と言えばいい。(レバノン)
子どもの頃に覚えた故事成語で今でも心に強く残っているのは、たとえば「渇しても盗泉の水は飲まず」ということだったりするけど、砂漠の民の渇きは、東洋人のそれとは比較にならんのだろうなぁ。
生物の生存戦略はゲーム理論でうまく説明できると思うけど、つまり所与の環境が変わって生きるのが厳しくなると、人間社会はこうなるのかって話か。囚人のジレンマ的に言えば、みなが裏切り合う世界。何かの本で相互互恵的な戦略選択は、人間の脳にハードワイヤードされているという説を読んだけど、そんなのとても信じられない。
中には処世術的リアリズムが冷たく光る人生の知恵、的な格言もある。以下、気になったものをあれこれ引用。
- キリスト教徒が一枚噛めば、事はうまくいく。(モロッコ)
- もしも罪を犯したら、隠せ。(アラブ)
- 追う者と追われる者は、共に神の名を口にする。(トルコ)
- 断食して祈れ。そうすればきっとよくないことが起こる。(レバノン)
- 犬は必ず死ぬ前にモスクの壁でウンコをする。(トルコ)
- 一夜の無政府主義より数百年にわたる圧政の方がましだ。(アラブ)
- 弱いやつの武器に気をつけろ。(中世アラブ)
- 二人の目の前で髪を切ってはいけない。一人は短いと言い、もう一人は長いと言うから。(レバノン)
- 幸運は持っている人間には来るが、探している人間には来ない。(アラブ)
- 不幸は固形石鹸のようなものだ。初めは大きなかたまりだが、次第に小さくなる。(アラブ)
- 本当のことを言うやつは、首を切られる。(アラブ)
- 人は四つのものを数えられない。自分の罪、自分の年、自分の借金、そして自分の敵。(ペルシャ)
- 小さな贈り物は心から。大きな贈り物は財布から。(トルコ)
- 秘密は鳩。手から離れた途端に翼を持つ。(イエメン)
- 一つのドアが閉まると、百のドアが開く。(アラブ)
- 賢い人は見たことを話し、愚か者は聞いたことを話す。(アラブ)
- 判事の下男が死ぬと誰もが葬式に行く。判事が死んでも誰も葬儀に列席しない。(モロッコ)
- 我々がやつらの羊を欲しがったら、やつらは我々のラクダを盗みやがった。(サウジアラビア)
- 一回あなたを騙した男は、百回騙す。(アラブ)
- ベールが厚いほど、上げる価値はない。(トルコ)
- どの結婚式でも何かがうまくいかない。(アラブ)
- 甘やかした娘にコリアンダーを買いにやらせると、妊娠七ヶ月になって帰ってくる。(モロッコ)
- 優しい心の母は、不幸のうちに死ぬ。(アラブ)
- 掛け売りして金を取れないか、支払いを求めて敵を作るかだ。(シリア)
- 俺たちから遠く離れていろよ。そうすれば好意を持ってやる。しかし、近づけば、呪ってやるからな。(パレスチナ)
- アラブ(ベドウィン)は帰ってくる。(アラブ)
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2005年12月07日
満州国の肖像
山室信一『キメラ――満州国の肖像』(中公新書、2004増補版)
力が入りすぎじゃないかってほどの力作。成立から終焉までわずか13年とはいえ、さまざまな思惑が入り乱れた「国家」という有機的な営みを、それなりに多面的に描き出そうというのだから、そりゃ力も入るか。これだけ大きなテーマを相手に膨大な資料を渉猟すれば、精根も尽き果てようってもんだけど、それにしても何かが取り憑いて著者に本を書かせたのじゃないかというような、一種独特の雰囲気が本全体に漂っている。鬼気迫るというのではなくて、このままこの著者は燃え尽きてしまうんじゃないだろうかというような、生真面目な人が仕事に追いつめられたときに見せる憔悴した表情が、行間から見えてくる。さぞ原稿は難産だったのだろうなぁ。
著者本人によると、肉親の健康状態の悪化という個人的事情が影響しているということだけど、テーマ自体が重たかったんじゃないだろうか。
満州の歴史は、その歴史自体がどの面から見てもパセティックな物語だ。当時人々満州へ駆り立てた熱病のような盛り上がりや、掲げられた理想の数々が、今となっては悲しい。増補版に追加された想定質疑応答集も、わかりやすく書かれているし、とても勉強になった。
ついでに前から気になっていた石原完爾の『最終戦争論・戦争史大観』を読んでみた。ギリシア・ローマの昔から持久戦と総力戦が順次交互に入れ替わってやってくるのがおおざっぱに言えば人類の戦争の歴史で、順番から言えば次は総力戦になるだろうという予言。さらに、技術の進歩によって、ついに今度の戦争こそが人類全体を統べる頂点にたつモノを決める決勝戦になるという話。めちゃくちゃおもしろい。論理的必然性なんて全然ないのに、さも当然のように「確信している」だとか、当然の帰結であるとかいうふうに言い切る力強さがいい。次の戦争の時期が30年後に迫っているということの推測に日蓮聖人の予言を援用するって、ほとんど電波だよなぁ。しかし……、それにしても予言の大筋は当たってるんじゃないのか。米州は、その後、唯一のスーパーパワーとして世界の頂点に君臨しているようなもんだ。
石原が日本について語るとき、日本のあり方、理想について語るとき、それはぼくの知らない日本人が語っているんだなというふうに感じる。日本人はほんの50、60年前までは、こんなふうだったのかなって。科学文明に遅れている我々だとか、こそこそ開戦論をやるのは我らの流儀ではない、堂々とやって、堂々と戦えばいいとか。
念のために書き加えると、石原だって永年の人類の憧れは平和であり、最終戦争は、それが最終的に到達されるために人類が通らなければならない地獄、試練だというふうに達観している。まだアインシュタインのある面から言うと不気味な予言が原子爆弾という究極の兵器になりうるかどうかもわかっていない時期に、とてつもない破壊力をもった、何万、何十万という都市の人々がペチャンコになるような、そんな兵器でもって、次の戦争はあっという間に決着がつくだろうと、そんなことを言っている。
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2005年11月09日
佐藤続編
佐藤優『国家の自縛』(産経新聞出版、2005)
『国家の罠』に続く、元外務官僚にして刑事被告人の期待の続編。前作が明確な目的意識と詳細な記述によって構成された緻密な本だったのに対して、こっちはややフォーカスがぶれた印象がぬぐえない対談になっていた。対談だからぶれているというより、カバー範囲が広すぎる。散漫とは言わないけど、トピックがやや総花的すぎるようにも思える。対談相手として話を引き出した正論の編集長が言うとおり、「佐藤の頭のなかをごろりと示した」ような、そんな本。
総花的にならざるを得ないのは、日本の外交を語る上で、あまりに現在の日本(おもに外務省の)の問題が多岐にわたるからとも言える。高い教養と学識、それに長年の情報活動に裏打ちされた分析力で、ばっさばっさと多方面の国際情勢を料理してくれる。
この人、本当にしびれるほど頭がいい。よってたつ行動原理や原則が一切ぶれないという、そのすがすがしいまでのプロ意識にもしびれっぱなし。何より、すべての行動や思考が、自己の深いところから出てきているのだという、そういう感じ、その人間としての深みが、外交上の彼のドライなプラグマティズムに、よりいっそうの説得力をもたせているように思う。彼の深奥にあるのは何だろうか。本人は深い哀しみだと言ってるけど、それがどういう意味かはぼくにはよくわからなかった。
外交課題や繊細で複雑な政治問題の話もおもしろいけど、やっぱり佐藤優という人間がおもしろい。だから、彼の本は売れたんだと思う。
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2005年11月07日
下流
三浦展『下流社会――新たな階層集団の出現』(光文社新書、2005)
なんかドキッとするようなタイトルだけど、実は「下層」じゃなくて、「下流」ってところがポイントらしい。別に貧困だとか、身分的に下とかじゃなく、現代日本には上昇志向が強い一握りの層と、その他大勢の、中流から滑り落ちていくことに甘んじる階層集団に分化しているという話。下流の人々は、概して人生に消極的で、そのときが楽しければいいという享楽的な生き方しかしない。
森永卓郎の300万円収入本もそうだけど、こういう人たちが指摘する以前から、日本で経済格差が広まっていることはつとに指摘されていたわけで、ジニ係数がどうとか、所得の配分がどうとか、そういう統計的なことでは、新しいことを言ってるわけではないし、むしろ統計分析の部分では、この本はむしろ「下流」としか言えない。アンケートの信頼性は低く、インタビューのやらせ度はひと目見て120%を超えているとわかるほど。
それでも、この本はなかなかにおもしろい。SPA!(は、ちなみにホワイトカラーのうち下流の人々が読む雑誌)の特集を延々と読んでいるような、そんな感じの本だった。無責任で直感的で感覚的なお話ばかり。でも、なんだか、「そうそう、そんな気がするよ」と思わせる説得力があるし、「○○系」というライフスタイル別のクラスターのネーミングセンスがいいし、それらの人々の記述も「あー、いるいる。そうそうそういうヤツら」と思わせるものがある。ぼくは明らかにロハス系に分類されるけど、まああんまりそう考えると自己暗示にかかるのでよくないし、当然そうそう截然と人間が分類できるものでもない。
中流がなくなる以上、今までのような万人向けの物作りや情報作りをしてもしょうがないわけで、明確に下流向けと上流向けを意識しないとね、というのがマーケティング畑を歩いてきた著者のメッセージのひとつ。日清は近々、100円のカップヌードルを下流に向けて出すらしい。高級カップ麺で成功してきた日清だけど、もはや人々は300円のカップラーメンさえ買ってくれないんだとか。
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2005年10月24日
民主主義ねぇ
Antonio R. Damasio『Descartes' Error: Emotion, Reason, and the Human Brain』(Avon Books、1995)
期待して読んだのにあまりおもしろくない。爆発事故で頬から入った鉄の棒が前頭葉を貫き、脳天から飛び出したあと生き延びた患者のその後の人格変化とか、前頭葉に問題を抱えた人たちの言動が興味深くあったりはするけど、読みどころは、そのぐらい。
理性と感情は対立する概念どころか、むしろ互いに相補的関係にある。感情とか、身体的なフィーリングがなければ人間は理性的な判断が一切できなくなる。前頭葉の機能が欠落した患者は、各種の認識能力のテストでは何の問題もない。ところが日々の生活や人生の選択肢となると、その帰結は論理的に推論しうるのに、どれを選ぶべきかわからなくなる……というような話で、だから感情は理性をサポートしているんだって主張だけど、どうも当たり前すぎるように思えてピンとこない。
以前、霊長類研究の本で感じた違和感と同根かなと思う。日本人は、サルと人間が同類だという科学的観察を突きつけられても、少しもとまどわない。西洋人は違う。どうしても、そこが受け入れられない。同様に、日本人は、理性と感情は相反する白黒の関係にあるとは思っていないような気がする。西洋では肉体と精神、理性と感情は完全に対立する概念として捉えられてきた歴史が長い。アリストテレス以来の歴史があるけど、それを決定的に象徴しているのが、例のデカルトのコギト・エルゴ・スムという言明。あれはまったくの間違いだったのだ、と著者は言っている。肉体という存在なしに意識や魂が存在できないどころか、肉体というハードウェアに強く規定されているのが人間の精神だという。
河合敦『歴史で読み解く日本遺産』(プレイブックス・インテリジェンス、2002)
こうも特徴のない本は珍しい。淡々と日本の名所や遺跡を各都道府県ごとに1つか2つ紹介している。地図も写真もひどい。歴史で「読み解く」というのは、ほとんどウソじゃないかというほど、薄っぺらな文章で、観光地で受け取るペラの案内程度。まあ、そういうパンフレットをまとめて読むのもいいかなと思って読んでみた。やや旅情を催して、兼六園とか白川郷とか行ってみたくなった。
木崎喜代治『幻想としての自由と民主主義――反時代的考察 、シリーズ・現代思想と自由主義論』(ミネルヴァ書房、2004)
タイトルからしてぼくの問題意識どんぴしゃりの本だったので、確証バイアスが働いていないだろうかと警戒して読んだ。自由も、民主主義も、その価値を疑うことさえはばかられるほど信奉されているけど、そんなもの、どこにもないし、目指すべきものでもないんじゃないかという主張。衆愚政治とハッキリ言おう。目指すべきは貴族政治、それが言い過ぎなら賢人政治。議会制民主主義の現政体は民主主義なんて言葉がついているけど、賢人政治以外の何ものでもなく、それをよくする方法は民主主義的色彩を強めることなんかではまったくなく、賢人政治がうまく機能するようにすること。エリートに義務、責任、やりがい、賞賛を与えればいい。
いちいち、おっしゃるとおりだなと思いながら読んだ。誰かがこういう本を書かなければいけなかったという事実によって、むしろ暗澹たる気持ちになる。いまの日本が腐っているとしたら、それは政治家が腐敗しているからとかじゃない。政治家さえまともに選べない大衆が、自分だって政治に口出しできるなどと思い上がっているからだ。ぼくが選挙権を棄権し続けたのは、むしろ誠実さからであって、わからないことをわかると言いたくなかったからだったりするのだけど、同意見の人に(本という形であっても)出会えたことで、少し安心した。
佐藤優、『国家の罠――外務省のラスプーチンと呼ばれて』(新潮社、2005)
鈴木宗男と一緒に逮捕された外交官の手記。逮捕前夜からロシア外交の背景知識を交えて、逮捕、拘置、取り調べの500日あまりを詳細に記録している。外務省、永田町、検察庁のパワーゲームの攻防を、詳細な事実と発言の引用で、みごとに1枚の絵に収めて描ききっている。さまざまな立場の人間が、さまざまな価値観の元に動く。めまいがするほどおもしろい本で、特に後半は一気呵成に読み上げてしまった。著者はごく最近、続編的な本も上梓したようなので続けて読んでみようと思う。
これは国策捜査だからといきなり被疑者である著者に宣言して、「落としどころ」を見つけようとする検事との、長期にわたるやりとりが、まるで目の前で行われているように再現される。尋常じゃない記憶力。
検事の話からは、国策捜査はなぜ行われるのか、どういうダイナミズムのものとに、どういう役者たちが舞台に引っ張り上げられるのかが、うっすら見えてくる。国策捜査というのは冤罪ではないものの、ハッキリ言って茶番。逮捕も有罪判決もチャンチャラおかしい。それはメディアという舞台装置を使い、国民という観客に向かってお見せするお芝居に過ぎない。脚本は検察が書く。何のために書くかといえば、それは時代の区切りをつけるためだと、佐藤優の調書をとった西村検事はハッキリ言っている。自分たちがやりたくてやるわけじゃないとも言う。国民のみなさんの考えが変わってくると、それに合わせて誰かを捕まえる。それまで罪でも何でもなくてどんな政治家でもやっているようなことでも、ある時、線引きをかえて、誰かを引っかける。国家が本気になれば何だってできるし、逃げられない。だから、西村検事は言う。国策捜査で捕まる人はみんな優秀で国家のために今後もがんばってもらわないといけない。だから、あきらめて早めに落としどころを互いに決めてあんたも出直したほうがいい、と。それで普通は家族なり自分の将来を考えて、すんなり与えられた役を演じるところ、佐藤優は違った。
とつげき東北『科学する麻雀』(講談社現代新書、2004)
羽生善治がネットと将棋の興味深い関係を語っていた。ネットやパソコンの登場で、若い棋士たちのレベルが驚くほどあがったという。あがったばかりではなく、その上達速度に目を見張るものがあるという。いくらでも棋譜が手に入り、24時間対戦相手に困らず、プロのウチスジの研究だって、好きなだけできる。持ち時間の短い早指しで、オンライン対戦しまくることで、確かにグングン実力はあがるそうだ。
かつてなら将棋クラブに入り浸ったり、うまい人の指す将棋を端から見たりするぐらいしかなかったものが「情報化」によって革命的に変化してしまったのだという。ただ、あるレベルまではみんなさっくり上達するものの、そこから先となると結局は今まで通り、ごく一部の才能のある人だけしか進めない。羽生は、「高速道路が開通したいみたいなもの。ただし、出口付近で異常に渋滞している」と表現していた。
麻雀にも、その情報化の時代がついにやってきた。ネット上の麻雀荘、「東風荘」のデータをもとに大量の牌譜とシミュレーションソフトを使って、数理的に研究したのが、この本。かつて慣用句として言い習わされてきた、麻雀の常識やセオリーといったものに、いかに統計的にデタラメが多かったかが、次々と暴かれる。
「早いリーチに良形なし」、ウソ。「ドラで待つのは不利」、ウソ。「これこれの状況では手変わりを待て」、ウソ。「裏スジはキケン」、ウソ。「順位や流れに応じて打ち方を変えろ」、まったくのウソ。「相手の捨て牌から待ちを読め」、ウソ。
にわかには信じられないようなセオリーがどんどん導かれる。でも、改めて統計データと説明を眺めてみれば、不思議と説得力がある。要するに著者がやや憤怒の口調で指摘するとおり、麻雀打ちたちは、今まであまりに文学的に戦略を語りすぎていたんだろう。
著者が言うとおり、おおざっぱな統計的な傾向を表として頭にたたき込んでおけば、たぶん麻雀に強くなれる。麻雀は、あまりにおもしろくあまりに時間を食うゲームなので、今さらやろうとは思わないけど、統計データを元にした麻雀ってやってみたい。
ただ、何事でもそうだけど、ここまで数理的に解明された麻雀に、果たして麻雀がこれまで持っていたおもしろみは残るだろうか。統計的にセオリーが導かれていて、本人の直観とは関係なく取るべき戦略が決まっているとしたら、あれほどのドキドキや駆け引きの楽しさはないんじゃなかろうか。
Sun Zu、『The Art of War』(BC500?)
グーテンベルクプロジェクトを眺めていて、ちょっと気になった孫子の兵法を読んでみた。HTML版は、ここにある。全体としても短いし、箇条書きの短文の連続なので拾い読みしやすい。きわめて純化された戦略的思考が、歯切れの良い文で次々に展開される。とはいえ、本当に兵隊を率いて古典的な戦争をするなら意味があるだろうけど、近代的な戦争には意味がないコトが多い。牧歌的というか。2000年以上にわたって東洋でも西洋でも読み継がれた古典も、ついに古びてしまったということだろう。
ビジネスやスポーツでチームを率いるリーダーの書として孫子を玩味熟読するような人には、カンチガイ野郎が多いのは確かにそうなのだけど、どうやって配下の人心をつかむかという心理的な法則の部分なんかについては、参考になることがいっぱい書かれているように思う。
John Hoover『How to Work for an Idiot --- Survive & Thrive -- Without Killing Your Boss』(Career Press、2003)
管理職教育のために、コンサルタントや講師を長年やってきた著者がたどり着いた最後の答え。「ムダだ、こいつらに話かけてもムダなんだ」。人々は変化を嫌う。自分を変えることも、変えられることも嫌う。端的に言えば、ほとんどみんなイディオットなんだ。人やチームのマネージメントというのは、専門的で高度な仕事であり、誰にでもできることではない。なのに、世の中のほとんどのボスは、その会社がやっている仕事ができる人を選んでボスにされたような人たち。この人たちはある種の仕事を愛し、実際よくできる場合が多い。けれども、マネージャーとして見ると最低の場合がほとんど。みんな誤解しているけれども、歌がうまい人をボスにしたところで、部下に向かって「歌え」というだけ。誰もがその人と同じように歌えるわけじゃない。それがわからずに自分流のメロディーやコブシを押しつけ、あげくには細々と仕事の細部を管理しはじめる、マイクロマネージメントなどはじめてしまったら、その下で働く部下たちは窒息してしまう。
管理者教育はあきらめ、代わりに、ボスの下であえいでいる部下たちに語りかける、というのが、この本。結局のところ自分が教育しようと思っていた管理者たちはバカだったのだと反省する著者は、「変えられっこない人たちを変えよう、啓蒙しようとしていた自分こそ、本当のバカだった」と言う。彼らを変えることはできない。じゃあ、どうするかといえば、自分が変わるほかないのだという。対応を最適化せよ、と。
いくら相手が不当なことを言っていたとしても、その相手や相手の意見を変えることができない以上、最善の策は、自分をそれに合わせて変えること。どうすれば相手は自分を気に入り、少しでも職場が居心地のいいものになるのか。ということで、ボスを種別に分類し、それぞれの傾向と対策がまとめられている。
昔、かんしゃく持ちの同僚というのが職場にいた。なんだか知らないけど、すぐに憤激する。確かに理屈から言って、多少はフラストレーションを感じていいだろうという場面だったりするけれども、その程度のことはみんないつものごとく感じているわけだから、その人ひとりだけがそういうネガティブな空気を周囲にまき散らす権利は、まったくない。まったくないと周囲のみんなが感じているのに、当人は、当然の権利のように他人や、会社の制度、他人の仕事内容の悪態をつき、極端な罵倒語で不必要に周囲を険悪なムードに陥れてしまう。
こういう人の存在は理不尽としか言いようがないし、できれば、淘汰されてほしいとみんな思うのだろうけど、さしあたりできることは、忠告や諫言ではなく、自分側を変えること。その人を「踏んではいけない地雷だ」と思うしかない。なんでこっちが気を遣わなきゃいけないのかと理不尽に思ったこともあるけど、世の中、理不尽なヤツってのはどこに行ってもいると諦めさえすれば、機嫌良く対応することだってできる。
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2005年09月04日
モンゴロイドの歩いた道
科学朝日編『モンゴロイドの道』(朝日選書、1995)
同じ筆頭筆者による同じシリーズの本だから、期待してなかったけど、このあいだ読んだ散漫な印象のネアンデルタール本に比べると、はるかによくまとまっていて読みやすい。スゴイおもしろい。同じ複数研究者によるオムニバス形式でも、もともと科学朝日の連載だったからというのもあるだろうし、プロの編集者が全体の流れをとりまとめているからというのもあるのか、いい本になっている。
モンゴロイドのほうが題材として身近だからかもしれない。ヨーロッパの地でクロマニヨン人に取ってかわられ、どこかに消え去ってしまったネアンデルタール人よりも、アジアから太平洋や南北アメリカ大陸へと広がった、日本人の直系の祖先とも言える先史モンゴロイドの歴史のほうが親近感がわく。ちょうど、南米のインディオを見て「日本人にもあんな顔した人いるよなぁ」と思うときに感じる親近感のようなもの。
シベリアからベーリング陸橋を超えて北米から南米大陸へと駆け抜けた“グレートジャーニー”だとか、メラネシアからポリネシアへ向けて「広がった」という話は聞いたことがあるけど、いつ、なぜ、どうやってという話となると、よく知らなかった。なんで、たった1000年でアラスカから南米の突端まで駆け抜けられたのか。何が彼らを駆り立てたのか。なんで島影も見えないような遠くの島へ島へとわたっていったのか……。そうしたギモンに完全に答えるはできないけど、遺伝学、免疫学、人類学、言語学の知見から、さまざまな研究者が彼らの行動の軌跡や理由、方法を推定している。
遺伝子的にいっても文化的にいっても「日本人は単一民族じゃない」という発言は、もう聞き飽きたし、そういうとき念頭にあるのはせいぜいアイヌ民族と琉球王朝ぐらいのことだろうと思うと、ますますそうなんだけど、ハッキリと証拠を示されたうえで「日本人の祖先の経路には、少なくともN通りの経路があった」と繰り返し言われると、日本人観もちょっとは変わろうってもんだ。
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2005年09月01日
イチロー語録
夢をつかむイチロー262のメッセージ編集委員会『イチロー 262のメッセージ』(ぴあ、2005)
イチローが折々のインタビューに答えた言葉をまとめた本。イチローってストイックというより理屈っぽいのね。どっちかいうと寡黙なほうだからわからないだけで、内面的にはものすごく言葉数の多い人なんだ。凡打の理由を、ああだ、こうだと論理的に考えている。センスだとか感性だとかいった曖昧で無意味な言葉を排して、練習に明け暮れ、思考を貫くというところに共感できる。考えて考えて積み重ねていく以外に、スキルアップの道はない。
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アセンブラ読本
橋本和明、leye『アセンブラ読本 for Game――ゼロからはじめるゲーム改造』(アスペクト、2005)
アセンブラというのは、機械語とかマシン語とも呼ばれる、CPUが直接読み取って実行する数字列に対応するプログラミング言語のこと。言語というより、CPUの生の命令体系といったほうが近い。アセンブラと聞くと、いまだにワクワクして鳥肌が立つ。CだのC++だのが実用上いいのはわかるし、JavaもRubyもC#もいいんだけど、やっぱり「Lispか、しからずんばアセンブラだ」っていうようなハッカーが断然カッコイイと思う。
20年以上も前の小学生のころ、NECの8ビットマイコン、PC-8801を親に買ってもらった。で、88で大ブームになった『ドアドア』とか『アルフォス』いったゲームをディスアセンブルしてデータを改造したことを思い出した。3機しかない自機の数を255機に増やしたりするんだけど、何をするかといえば、データエリアに書かれた「00 fa 03 cc」といった文字の羅列から「3機」を意味する「03」の場所を見つけて、そこを書き換えるだけ。カンが外れればプログラムは暴走し、うまくいけば自機は増える。
どんなプログラムでも初期化の場面で、必ずデータエリアから初期値を読み出してデータをセットするので、頭のほうからプログラムを読み流していくと、それらしきルーチンに、それらしきLDとかMOV命令が見つかって、それが参照しているアドレスを探っていく、というようなことをやった記憶がある。経験とともに、16進数の数字の羅列でしかないダンプリストをみているだけで、だいたい何をやっているか、単なるデータエリアなのかという区別もつくようになってくる。簡単な定型的処理や、よく呼び出されるシステムコールやIOポートであれば、ディスアセンブルすることなく、「ははぁ、キー入力を判定して画面に何か描いてるな」というように、いきなり数字を読み下せるようになってくる。F3C8というVRAMの開始アドレスを20年以上経ったいまも、なぜか覚えていたりする。
そういうのと、やってることは、いまでもまったく同じらしい。違いは、データ解析用のツールがそろっていることと、CPUがZ80かx86かの違い。x86といっても、命令セットは8086に毛が生えたようなものだし、変わらない。
しかし、この本、アセンブラ読本と銘打ってるのに、160ページ目になってようやくpushとpopの解説が出てくるって、どういうことだ(笑)
投稿者 ken : 23:09 | コメント (0) | トラックバック
2005年08月31日
スローブログ宣言
鈴木芳樹『スローブログ宣言!』(技術評論社、2005)
ぼくと同じ歳の、どこにでもいそうなIT系ライターが書いた個人的ブログ観。会社の書評担当者が放出した本の中からピックアップして読んでみた。いい意味で「個人的な感慨に過ぎない」と割り切って、いろいろとブログ雑感を提示しているのに好感がもてる。
取り立てて新しい視点を提供しているわけでもないし、初心者がブログって何さ、というギモンを抱いて読むべきような本じゃないので、いったい誰に向けて書いた本なんだという気がしなくもないけど、ぼくにはちょうどいいアップデートになった。過去10年弱の“個人サイト”の歴史を、折々の話題や小事件、ターニングポイントを振り返りつつ、ざっくりまとめてくれているのがありがたい。はてな方面とかブログ方面の動きに疎かったからなぁ。かなり嫌悪感をもって眺めていたからなぁ。90年代半ばから後半にかけて個人でホームページを開設していた古参のネットユーザーたちの多くは、ウェブ日記はつけていても、それをブログと呼ばれることに嫌悪感をもっていたように思う。著者の鈴木さんもそうだったらしく、ウェブ日記からはてなに移行して、気づけばブログと呼ばれるようになっていただけらしい。移行時にページ体裁ががらっと変わって、何か「自分のサイト」じゃなく感じられて書く気が失せたという感想がおもしろい。人間って、そういう感覚的な生き物だ。ぼくもツールをブログに移行して、すっかり別物になった気がしている。
ウェブ日記、テキストサイト、ブログあたりが、日本の個人サイトを語る3大キーワードなんだろうか。こうやって並べてみると、、、えーと、「そんな区別、どうでもいいじゃん」という感想以外に何があるっていうんだ(笑)。しかし、ブロガーって語るよね。何かを語るんじゃなくて、語る行為について語る。アップルユーザーみたいだ。アップルを使うことについて語る、みたいな不思議な自己措定願望というか。
著者の鈴木さんは、ブログなんて身辺雑記でもいいんだよ、書きたいことを書けばいいんだよと主張している。続けることが大切で、続けるためには、政治や文化を論じてやりあってるばかりじゃふつうは疲れるし、ネタっぽいことをやっても尽きるからムリだよと。
ぼくはブロガー界の動きに疎いので、よくわからないけど、
ブロガーのあいだでは、垂れ流し的な「日記」ではなく、しっかりした「記事」がブログにはふさわしいという意見が有力だ。
なんだって。鈴木さんは、このムードにとらわれることないですよという意味でこの本を書いている。
ブログなんてツール、メディアじゃん。それも新興の。だから、それでもって何をしようが、そんなの完全に個人の自由だし、他人がとやかく言うようなことじゃないと思う。1996年ごろ、個人サイトが立ち上がったときに「個人サイトはゴミだ。検索時のノイズになるからやめてくれ」と、まじめに主張する人々がいたけど、どうしてメディアの利用法について、こうもとやかく言う人が後から後から出てくるのか、よくわからない。
ネットで個人は「何で書くのか」「何を書くべきか」「どう書くべきか」といったあたりは、あまりいつまでも議論してても不毛だと思う。
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ネアンデルタール人の正体
赤沢威『ネアンデルタール人の正体――彼らの「悩み」に迫る』(朝日選書、2005)
昨年行われたシンポジウムをまとめたものらしいけど、シンポジウムの発表をまとめただけの本というのは、これほど読みづらく、泡のように薄いものになるのか。各論者とも、確かにネアンデルタールのことについて、それぞれの分野からなにがしかを語っているけど、いったい何の本だったんだというぐらいしか感想が思いつかない悪書。書名には「ネアンデルタール人の正体」とあるけど、ぼくはこの本の正体を知りたいよ。うーん、オムニバス形式がよくない、というのじゃなくて、つまるところ個々の発表内容にインパクトがなさすぎるんじゃないのか。なんか些末な専門領域の話ばかり。
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仏教とキリスト教
ひろさちや『仏教とキリスト教――どう違うか50のQ&A』(新潮選書、1986)
ひろさちやで宗教入門というと、司馬遼太郎を読んで「趣味は歴史」と豪語しちゃうような恥ずかしい知的カンチガイ感が漂うわけだけど、なんのなんの。良い本は良いのだ。と、思った。もやもやしていた「宗教って何なのさ」というギモンが、このところ少しずつ晴れていっている。そんなカンチガイを決定的にしてくれた本だった。で、自分の宗教の好みがますますハッキリしてきた。
ひとつだけ、とても興味深い指摘をメモ。「愛」という言葉。キリスト教では「愛せ」と教え、仏教では「愛するな」と教える。中国語でどうだったのかは、ひろさちやは書いてないけど、日本語に限っていえば、もともと「愛」という言葉は「愛着」「愛執」「性愛」といった、欲望から生まれるネガティブな拘泥を示す言葉だった。現代日本語では「愛」はかなり肯定的な価値観をともなって使われる言葉になっているけど、実際の用法となると、やや照れが含まれる言葉でもある。とくに異性間の愛情について「愛」というと、何かスッキリしない。それには理由がある。
明治期にキリスト教が入ってきたとき(キリスト教の伝来は2度あって、1度目はザビエル)、「love」の訳語に「愛」に割り当てたという話。ところが、庇を貸して母屋を取られるようなもので「愛」の意味が変わってしまったという。日本語の愛はエロスの意味だったはずなのに、いつのまにかアガペーを指すようになったってことだと思う。
しかしなぁ、不思議なのは、言葉が変わるほどキリスト教の影響を日本人は受けてるかということ。キリスト教圏の人々からみると、日本というのは本当に不思議な国で、アジア(アフリカでも?)でこれほどキリスト教の布教に失敗した場所はほかにない、という。今でも日本のキリスト教信者は人口の1%以下。別に弾圧したわけでもないのに。
ともあれ、「愛」とか言う言葉の意味の変化についていうと、これはキリスト教の影響を受けたというより、キリスト教圏の文化の影響を受けたんじゃないだろうか。I love you.というセリフが映画とともに入ってきたとか、その程度のことで、だからいまだに日本人は「愛してるよ」とはあまり言わないし、言ったとしても言ってる本人もあまり意味がわかってないような、白々しい感じになる。
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2005年08月21日
元禄時代のブログ?
神坂次郎『元禄御畳奉行の日記――尾張藩士の見た浮世』(中公新書、1984)
江戸時代の名もない木っ端役人、朝日文左衛門の日記。何の因果の巡り合わせか、300年近い歳月を、名古屋城で眠ることになり、最近(といっても数十年前)ついに封印を解かれたらしい。たかが個人の日記を、尾張藩が後生大事に秘蔵した理由は定かではないらしいけど、元禄時代の役人のブログを読むがごとき楽しみをもたらしてくれたのは、僥倖というほかない。たぐいまれな記録魔の才能を発揮して、28年も欠かさず毎日つけられた日記から、おもしろいツボを整理してまとめた好著。文左衛門の愛すべきキャラが印象的。酒好き女好き、芝居狂い。好奇心の塊で、武芸百般、なんにでも挑戦する。そうかと思ったら、すぐに飽きたり目移りしたり怖じ気づいたりと、なーんか頼りない。かすかに見栄っ張りで、そこはかとなく文学かぶれ。たまに日記で詩など吟じてみたり。
巷間にぎわすスキャンダル、心中事件、奇談、幕政批判といったパブリックなネタも多く、当時の生活や文化がよく伝わってくる。それにしても、心中だ切腹だと、あまりにたくさん人が死にまくる時代だったんだなというが驚きだ。関ヶ原から100年。戦乱遠く、安寧の日々にまどろみ、武士が武士らしくなくなった時代だというけど、なんだ、この血なまぐさい感じは。
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2005年08月16日
聖書ってナニ?
John Kenneth Riches, The Bible: A Very Short Introduction,2000
断片的にしか読んでいない聖書を、そのうち徐々に読んでみようと思い始めて早10年。まあ、古典というのはそんなもんなんだ……。みんな「いま読み返してるところなんですよ」と言いながら読むんだけど、たいていその人は実はその古典をはじめて読んでいたりする。
聖書とハリーポッターに共通する特徴は2つある。かつて印刷されたどんな本より多く売れたということと、かつて流通したコピーの数に対して読まれていない「未読率」がもっとも高いということ。要するに、どっちも前代未聞のベストセラーということだ。2000年以上も読み継がれ、2000種以上の言語に翻訳されたという聖書は、少なく見積もっても数十億部が刷られたんじゃないだろうか。ハリーポッターは1億部超え。あ、毛沢東語録は、もうちょっと売れたらしい。
出版社に入って営業部隊に配属された同期入社の友人が、かつて研修で先輩社員に聞かされたという言葉を思い出す。「ベストセラーというのは、みんなが本棚に置きたいと思うような本のことであって、読みたいという本かどうかは問題じゃない。まして読まれるかどうかは関係がないんだ」。ベストセラーというのは、そういう本だ。ほかにいくらでも娯楽のある現代ニッポンに、本を読もうなんて退屈な人間が100万人もいるわけがない。
ともあれ、ミッション系の学校にでも通っていた人をのぞいて、ほとんど誰も読んだことがない(笑)聖書というヤツを読んでみようと思っている。だけど、それなりに分量もあるし、ガイドなしに読むのは気が引ける。というわけで、まずはバイブル入門を読んでみた。
日本語の名詞には単複の区別がないし、英語でも、もはや「The Bible」とか「The Book」と単数で呼ばれたりするので、聖書は1冊の完結した本だと思われがちだけど、もともとギリシア語で本を意味するbiblionの複数形、bibliaがbibleの語源となったように、聖書というのは、書かれた場所や時代が異なる多数のテキストからなる「聖なる書物集」。どれとどれを聖典と認めるかということによって、聖書と呼ばれる本の内容は変わってくる。史書的なもの、福音書、手紙、詩と、聖書に含まれるさまざまなテキストの成立事情や相互の関係、それらが書かれた背景が知りたい。どういう時代にどういう人々によって、どう読まれてきたのか。
日本聖書協会のホームページなんかに行くと、聖書にまつわる端的なFAQ集があって、これがかなり充実している。実はぼくが知りたかった聖書のイロハは、だいたいここに書かれてある。だけど、いかんせん「内部の人間」が書いたもので、中立性というか客観的視点に欠ける感じが強い。
聖書の文句はきわめて曖昧で示唆的だったりする。そこに解釈を加えるとしても、どうしてそういう解釈が出てくるのかとか、どうしてそれが唯一の解釈たりえるのかとか、端から見ているとどうにも我田引水に見えがちな聖書の解釈の由来も知りたいところ。
John Richesの手短な案内本によると、そういう「我田引水」の印象は間違ってなかったらしく、聖書というのは、受け入れるコミュニティーが自分たちの受難の歴史を勝手にあてはめて解釈するという種類のテキストだって話。だから、ユダヤ人に受け入れられたテキストが、まったく違う解釈で、民族自決、国民国家自立の嵐が吹き荒れたときのアフリカやアジアで読まれたりした。そして同じその聖書が植民地時代の欧州人に大量の現地人を平然と殺戮させ、その行為を正当化したのだから、意味がわからん。
何というか……。これほど人類の歴史や文化に影響を与えた本は、ほかに存在しないのだから、そういう興味はあるけど……、どうにもくだらなく思えてならない。もともとエジプトを逃れた奴隷たちの共同体法規の性格をもっていたわけだろうけど、今さらそんなの参照しなくたって、現代社会には道徳も法も、社会秩序維持の知恵はいくらだってあるわな。殺すな盗むな隣人を愛せよって、昨日山から下りてきた猿じゃないんだよ、言われなくてもわかるわな。
2000年にわたって生命力をたもったテキストだというけど、たとえば創世記なんて「フーテンの戯言」のような内容じゃないか。よく指摘されるとおり、やっぱり神への絶対の愛を誓わせるのって、中央集権国家における大衆支配の方便だったんじゃないのか? 自分の子どもを殺せと命ずる神なんかと、ぼくは契約したくないな。自分の愚かさや小ささを認めることは、ただちに絶対的な超越者を認めることには帰結しない。その点で、ぼくは仏教のほうにはるかに共感する。
天皇機関説をとる見方では、天皇はこう仰せになったとか、御意はこうであるとか、周囲の政治家が天皇という象徴を利用して権力を利用するけど、聖書にも、ちょっとそれに似た構造がないだろうかと思った。曖昧なテキストに解釈を加え、「神の意志」であると言って、強大な権力を掌握、すなわち大衆の自発的な従属を促す。宗教を共同体の社会秩序維持のための求心力発生装置とみるなら、どうして日本に一神教的な宗教が少なかったかもわかるような気がする。日本で本格的な中央集権体制が整うのは明治期で、そのとき神道が大きな役割を果たしたってわけか。もしこういう単純な見方ができるのだったら、宗教は近代以前の遺物となるんだろうけど、しかし、そういう見方をする人間が大半を占める社会というのは、ちょっと考えづらい。いや、現代日本社会は? 日本人は品がいいからハッキリ言わないだけで、内心では、時にはた迷惑な身勝手な信仰を煙たがったり、危険視してたりしないかな。魂の救済という個人にかかわる面については、そもそもそんなもの必要としていない人がほとんどなので、どっちみち宗教など不要だし。
どちらかというと、個人の内面にかかわる宗教にしか興味がないと思っていたけど、内面から自発的に生まれる信仰にしたって、それは社会規範の内面化のようなものと区別がつかない。そういう意味では、宗教って個々人の魂の救済が目的じゃなかったのかよという逆ギレ的逆恨みを感じたりもしないでもない。
キリスト教もユダヤ教も、どっちもぼくには受け入れがたそうだけど、それにしても旧約も新約も読んでみないとなぁ。
肝心の聖書のテキスト。英語版は、かなりいろいろとあるけど、オンラインで日本語で読めるものというと、たとえば、Holynetとか。やや怪しい日本語だけど。
2005年08月07日
犀の角のように独り歩め
中村元訳『ブッダのことば――スッタニパータ』(岩波文庫、1958)
現存する最古の仏典の邦訳。ゴータマブッダが行く先々で弟子たちに語ったとされる言葉。詩文と散文の混交で書かれている。散文のほうは、あとから弟子たちが付け足したものが多く、それを釈迦が語ったように書いているらしい。聖書にも似たような成立事情があるというけど、まあおおらかなもんだ。元はパーリ語で、サンスクリット語訳になったものを、ダイレクトに日本語にしているので、中国を経ていない仏教典ということになる。漢籍の仏典や日本で編纂された仏典とはずいぶん様子が違う、素朴な言葉が並ぶ。
ブッダが国も妻子も捨てて出家したときには、インドの山には多くの修行者がいたという。そういうバラモンに対して語りかける釈迦の言葉は、まだ仏教というよりも、仏教的発想をもった「教え」という程度のもので、これがいずれ世界宗教に発展するおおもとなのかと思うと拍子抜けするほどシンプル。宗教というよりもむしろ、修行者のためのモラルのようなもの。その後、漢語を割り当てられたり数え上げられたりする苦しみの種類や悪徳の数々も、平易な言葉で語られている。怒るな驕るな、悪口を言うな、陰口するな、妻以外に手を出すな、酒は飲むな、親孝行しろ、執着の元を絶て。
何かの本で読んだブッダのモーチベーションの根本には、苦しむ人々を助けたいという大乗仏教的な他者救済があったように思う。「目の前に矢が刺さって苦しんでいる人がいる。なによりもまず、矢を抜いてあげることが先決だ」。でも、スッタニパータを読むと、もともとブッダがいかに小乗的だったかがよくわかる。「自らの矢を抜け」としか語らない。そもそも、誰にでもそれが可能だという意味のことは全然言ってない。出家して、あらゆる欲望が妄執から起こるものと観じて、あらゆる執着から離れよというばかり。子なんて欲するな、いわんや朋友をやと。
仲間の中におれば、休むにも、立つにも、行くにも、旅するにも、つねにひとに呼びかけられる。他人に従属しない独立自由をめざして、犀の角のようにただ独り歩め。
かれははからいをなすことなく、(何ものかを)特に重んずることもなく、「これこそ究極の清らかなことだ」と語ることもない。結ばれた執著のきずなを捨て去って、世間の何ものについても願望を起こすことがない。
真のバラモンは煩悩の範囲をのり超えている。かれが何ものかを知りあるいは見ても、執著することがない。かれは欲をむさぼることなく、また離欲を貪ることもない。かれは<この世ではこれが最上のものである>と固執することもない。
教えに耳を傾けようという気持ちより、原始仏教とはどんなものだったんだろうという好奇心で読み始めた本だったけど、しつこいほどの詩文的リフレインで心に染みこんでくる文句の数々に妙に納得。ふっと楽になったように思う。俗世間の塵埃にまみれた凡夫が、すべてのこだわりを捨てるなんてできんのだろうけど、何で今まで捨てられなかったんだろという妄執がみえた気がする。釈迦が指摘する2000年前の愚かな人々の拘泥の例を見ると、猛烈に今の自分が相対化される。今の自分にとって大切に見えることも、よくよく長い長い目で見て考えてみると、実に頼りない基盤しかもってないじゃないか。
キルケゴールは「自分の心臓には矢が突き刺さっている。それを抜こうとは思わない」という意味のことをどこかで言っていたように思うけど、あれはひょっとして、ブッダのたとえに対比してのことなんだろうか。
かつて思春期には、絶望と虚無以外の答えを求めることは、現実から目をそらすという欺瞞でしかないと思っていた。自分の死が存在しないかのように振る舞える世間のほとんどの人を、自分とは異なるエイリアンのように感じていたものだけど、そういう潔癖さにしたって、絶対の答えを求めてひとつの価値観に拘泥しているという時点で、知的迷妄と言えなくもないのかもしれんなぁ。
この世で、執着の元になる何ものかは、同時に悦びをもたらすものでもあるわけで、両方得るか両方失うかのどっちか。悦びもない代わりに悲しみや喪失感もなく、そういうふうに心の平安を求めるのが賢者だという。わりと現代的な価値観で言うと、悲喜こもごもでいろいろあるから人生には価値があるんじゃん、ということになりそう。悲しみや苦しみを恐れてたら悦びはない、と教えるのが、今どきの自己啓発っぽい。うーん、このへん、うまーくあんばいよくして、まんなからへんで……。感情のジェットコースターのような人生は避けるにしても、一切の欲望がないモノトーナスな人生も、ちょっとねぇ。ということで、うまーく何とかおいしいトコ取りで……、といってる時点でもう執着と妄想がはじまっとるがな。なむー。
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2005年08月02日
アジアは一つ
岡倉天心『東洋の理想』(1903)
「アジアは一つである(Asia is one.)」ではじまる天心の代表作。『茶の本』以上に悲痛な叫びが背後に聞こえる気がするのは、やっぱり社会的な蹉跌や結婚生活の破綻といった個人的事情があったからなんだろうか。と、そういう個人的事情が著作のカラーに反映しているという事情はあるにせよ、脱亜入欧を叫ぶ当時の時代の流れの中で、高らかに東洋の理想、アジアの歴史的資産の価値をうたいあげたことの意味は、国内的にも国際的にも大きなものがあったのだろう。ただ、解説によると、当時、東洋的、あるいは日本的思想や文化を再評価する機運が国内にはあったらしいので、何も天心だけが叫んでいたわけではないらしい。今の右翼のようなショービニススティックなナショナリズムとは異なり、西洋に学ぶことは学ぶにしても、東洋的な価値観を捨ててはならないという、バランスの取れた議論が当時はふつうにあったらしい。
天心が描くアジアの「思想的遺伝」の基本的な伝達構図は、インドから中国に伝わり、他のアジア地域に伝播しながら最終的に日本へ入っていく流れにある。個人主義的なヴェーダの哲学から原始仏教を生んだインドの哲学が南にあり、ヒマラヤ山脈を隔てて中国には孔子の社会共産主義的儒教が北にある。同じ中国でも北方に儒教、南方には老荘思想があるというように「アジアは一つ」にして「多様」。中国が易姓革命という政治的サイクルで定期的に文化も思想も荒廃し、インドがその政治的無関心や組織への無執着から西洋に蹂躙されてエネルギーを失うことになっても、万世一系の皇統という希有の政治的安定構造をもった日本は、あたかもアジアの思想と芸術の貯蔵庫として機能した、ということらしい。たとえば奈良・平安の宝物を伝える正倉院は、ポンペイの遺跡のごとくに1000年以上も前の日用品を現在に伝えている。
Laurie Bauer, Trudgill, Language Myths(Penguin Books,1999)
英語話者は日本語話者よりも使う音が高いので、日本人には聞き取れない音がある。だから英語が聞き取れない。というような、ちょっと考えれば嘘っぱちとわかるようなアホな主張がはびこっている理由はふたつある。ひとつは、日本人が言語学的に比較的孤立した言語を母語としているために、外国語習得に非常な困難をともなうという事実。第二言語を話す人が少ないので、第二言語を話すとはどういうことかを日本人は知らなすぎるように思う。多くの人は外国語学習で挫折して、「自分が外国語ができないのには、何か秘密があるはずだ」と考える。ホントは答えは簡単。「単語を覚えるのって大変なのよ」の一言に尽きる。文法も発音も、まして発声の高さなんて関係ない。
もうひとつ、言語学的にばかげた俗説が繰り返し繰り返し登場する理由は、言語学者がなすべき仕事をしていいないからだ。学者は、学問研究から得られた成果を、一般に広く説明する責務を負う。
言語学者は、するべき仕事を、あまりしてこなかったのではないか。そういう問題意識から、英語話者が一般に抱いている「言語にまつわる神話」を、ひとつひとつつぶさに検証していく、という本。見出しを見るだけで、神話の構造がわかる。たとえば、日本語は英語との比較で「日本語は論理的でない」ということが言われていたりする。英語話者はフランス語との比較で「英語は論理的ではない」と信じている。言語Aは言語Bより論理的だ、という主張がいかにばかげた非論理的な主張かが、このへんからだけでもうかがえる。
- The media are ruining English.
- Some languages are harder than others.
- Some languages are just not good enough.
- French in a logical language.
- Some languages are spoken more quickly than others.
- Children can't speak or write properly anymore.
- Women Talk Too Much.
- In the Appalachians They Speak Like Shakespeare.
- Italian Is Beautiful, German Is Ugly.
- They Speak Really Bad English Down South and in New York City.
問題意識もいいし、設問もどれも興味深いけど、解説が浅すぎてツマラナイ。事実を述べて「それは神話にすぎない」と解説するだけじゃなく、その背後にある神話を生み出した心理や、あるいは言語の背後にある普遍的な法則といったことにまで切り込んでほしいもんだ。「フランス語は今までに存在したどの言語よりも、論理的で人間の思考を明瞭に表現できる言語だ」という、今となってはお笑いの主張は、どこからどう出てきて広まったかということについて、かなり詳細に解説されていたりするけど、項目によっては説明らしい説明がない。たとえば「単語の意味が変化する」のがふつうのことだという結論を知らないヤツが、今どきいるのか。なぜ変化するのか、どの程度変化するのか、どういう法則がそこにはあるのか、と、それが知りたいのに。
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2005年07月24日
会社はだれのものか。数学の歴史
岩井克人『会社はだれのものか』(平凡社、2005)
前作の『会社はこれからどうなるのか』から、やや視点を変えてはいるものの、基本的には同じテーマを扱った会社論。第一部の頭で、会社とは何かをもう1度振り返ってみようと言ってるあいだに主張は終わり、最後の「会社とは社会のものなのです」という命題をとってつけたような印象もある。前作で繰り返し説明されている会社の所有の二重構造や、モノとしての側面とヒトとしての側面を併せ持つ不可解な「法人」というものを理解していれば、会社が誰のものであるのかという答え、あるいはどう答えるべきかということは、ある意味自明。そういう意味では、ライブドアとニッポン放送の買収茶番劇をみて「会社って誰のもの? 株主主権って善なの? 悪なの? グローバルスタンダード?」と疑問を抱いた人で前作を読んでいない人が読むべき会社論入門の本という感じになっている。
結論は「会社は社会のもの」であるのだけど、そう単純に答えて終わるような話だったら本なんて書く必要はない。この命題は、真偽がどうこうというより、それはつまり、会社のあり方や、企業社会はどうあるべきかという問題を考えるときに出発点となる話でしかない。
会社は、社会や個人、集団の結節点であり、それは営利の企業活動だけを行なうものではない。もともとコーポレーションは、僧院や大学といった非営利の、いまで言えばNPO的な寄り集まりからはじまったという。だから株式やお金だけに還元できる即物的な存在などではないし、そんなものであった試しは一度もなかった。
会社の健全度を指標化する参考値でしかなかった数字が一人歩きをはじめ、数字をようすることが経営者の手腕であるという倒錯が、何度も指摘される。株主が儲かればいいのなら、製造業者は研究費を削って研究所を閉鎖すれば3年ぐらいは見かけ上は儲かる。あるいは食品業者なら、味の基準や安全管理の基準をさげればいい。あるいは先行き不透明なベンチャー企業なんて、モノになるかどうかわからないアイデアに引き続き投資するよりも、起業当初より価値が増えてるんだったら、もうばら売りにして、そのお金を株主で山分けすればいい。でも、会社ってそんなものじゃないでしょ、という割に人間くさい話。もちろん、こうした話は短期的な利潤追求が長期的な利潤を損なうという意味で、相変わらず利潤追求の目線の違いにすぎないという論理もありえるのだけど、それだけに還元できないのだと著者は繰り返し主張する。
CSRとかSRIといった社会福祉に資するような活動が最近の会社で盛んになっているけれど、そうしたドライな利潤追求からみたら不利となるような活動は、企業の競争力を落とすのではないか、という懸念に対して、「みんながやれば問題ない」という。だから、最近のCSRバブルはいいことだ、と。
たばこ会社が環境問題に取り組んでいるなんて話を聞くと、眠たいこといいやがってと思うんだけど、でも、企業は社会奉仕を最初はブランディングのためのポーズではじめるとしても、それはそれでいいのじゃないかという気がしてきた。人間社会に道徳や倫理があるように、法人にも、法人がひしめく企業社会にも、法人に道徳や倫理をもとめるべきだし、利己主義的で株主の顔色しかみないような法人は、身勝手な人間が人間社会でうまくやっていけないと同じように、うまくやっていけないような、そういう金融や法律の仕組みや、会社文化を作っていくことはできるように思える。いや、ぼくはむしろ必然的にそういう秩序が生まれてくるのではないかという気がする。ただ儲かっている会社よりも、いい製品やサービスを提供しているとか、社会的に有意義な会社に投資をしようと思うような経済的に不合理な感性が、人間には生来備わっているように思うから。
森毅『数学の歴史』(講談社学術文庫、1968)
数学は古代ギリシアに生まれ、その後も確かな歩みで発展してきた、なんてことはない。自然科学は素朴に事実だけを積み重ねる営みではない。2000年(あるいは3000年)の数学の歴史というのは「発展」などという言葉で総括できるような単純な歩みではなかった。数学の歴史には、人間社会や地域の文化、時代思潮といったさまざまな要素が影響を及ぼしてきた。文明や民族ごとに異なる特質をもった数学が、互いに影響を及ぼしあってきた。
数学史を、そんなふうに大きな歴史の流れに重ねて描いた本を読んだのは初めてだけど、複雑多様な歴史のプロセスから、大きな流れと意味を抽象する森先生の力強さや鋭さに、岡倉天心のアジア論に通じる深い知性を感じるものでござました。天心同様に、しびれるような詩的なフレーズが随所にちりばめられてもいて、読んでいて何度も鳥肌が立つような本だった。
しかし、こんなに難しい本を読んだのは久しぶりかも。数式も幾何学図形も一切登場しないのは、一般向けの自然科学系読み物ではよくある話で、それは、数学的知識が十分でない人も読者として排除しないという配慮だったりする。ところが、この本。数式がひとつも出てこないというのに、読者に要求する数学的知識の高さは尋常じゃない(笑)
そもそも、ギリシアで数学がはじまったという単純な考えを、森先生は採らない。ギリシア数学の起源はエジプトにあったし、その発端自体は、他の古代文明がもっていた数学と異なるものではなかったろうという。にもかかわらず、何をもってギリシア数学は偉大であったのかというと、それは「体系」と呼ぶに値するものを備えたこと、そしてその完全性がひとつ。自分たちの世界観や哲学を表現しうるほどの体系となった。もうひとつは、近代数学に通じる概念に到達したこと、だそうだ。
古代ギリシアというのは、現在ギリシアと呼ばれる国と地理的に完全に一致するわけではない。「ギリシアで生まれた数学」がたどった運命を、ざっくり総括したこんな言葉が印象的。
歴史はもっと皮肉であって、「民主的」アテナイは観念論イデオローグとしてのプラトンを出したが、学問的生産が行なわれたのは「神権的」アレクサンドリアであり、「文化的」ローマにいたってはギリシア数学没落の責任者である。
アルキメデスがローマの兵に殺されたのは象徴的な出来事だと言う。いまでもヨーロッパ人は、自分たちはローマを介して古代ギリシアの正統な後継者であるような顔をしているけど、ヨーロッパなんて歴史の大部分を通して、文化的、文明的にそんなに立派な場所だったわけじゃないよな。
古代において、ギリシアが実用や応用を忌み嫌ういっぽうで、中世、つまりアラビア世界においては数学は、何よりも商人たちにとって実用のツールだった。森先生のこんな言葉が、数学発展の意外な面を教えてくれる。
ギリシアが現世から遮断された純粋性の中に体系を見いだしたのと反対に、イスラム人は課題に密着することによって問題解決の技術に数学を見いだした。(中略)そして、この思弁的でない世界で「数概念」は成熟した。負数や無理数に「数」としての権利を獲得させたものは、哲学や体系ではなく、この日常性であった。
商人たちのプラグマティズムが「虚ろな数」に権利を獲得させた。むはー、いいなぁ、笑える。こういう出自を考えると虚数とか超越数に必要以上に神秘を見ようとする小川洋子的憧憬って、やっぱりお笑いだ。
現代数学が本格的に花開くのは17~19世紀ヨーロッパ。森先生はざっくり総括して、それぞれの世紀を、端的にこう呼ぶ。17世紀は「原理の世紀」。それに続く18世紀は、オイラー、ラグランジュ、ダランベールらの輝かしい成果があふれだした、「事実の世紀」。そして19世紀は「体系の世紀」。20世紀は後世の人の評価待ちとしながらも「方法の世紀」かもねと。
あらゆる数学分野でその名を冠した基本定理がある、というほどの業績を残したオイラーはもとより、19世紀に革命的な数学を創始したようなガウス、コーシー、アーベル、ガロア、ロバチェフスキーらすら、森先生は、創始者としては、あまり評価していないらしい。こうした数学者たちは、啓蒙主義時代の数学者たちの後継だという。先人が蒔いた種によりもたらされた果実を収穫したのであれば、真に革命的であったのは、種を蒔いた啓蒙時代の先駆者たちだというわけか。
そういうわけで、森先生はライプニッツの「超時代性」をものすごく評価している。形而上学ですら記号化しようとしたライプニッツこそ、後に続く数学の土壌を準備したというのはまだわかるような気もするけど、モナドやエネルギー概念やら、二進法の話やら、それがいったいどれほど数学と関係するのか、よくわからない。
大学で数学の勉強というと、18~19世紀に現れたきら星のごとき数学者たちの定理なり概念を理解することだという印象がある。基本定理には数学者たちの魂が刻まれている。では、20世紀、あるいは21世紀にはそうした天才的数学者はどこに行ってしまったのか。いまでも数学という営み自体は行なわれているはずなのに、どうしてわかりやすい形で、たとえばガウスやガロアのように彼らは輝いてみえないのか。日本で言えば小平邦彦、広中平祐のような人々でさえ数学関係者しか名前を知らないのじゃないかというほどマイナーだし、300年の難問を解いたワイルズだって、一時ニュースになって忘れ去られる。
現代社会にとって数学は何なのか、数学者とは何者かということについて、終章の「いかに、数学は現代につきささっているか」で、森先生はペシミズムとも恬淡とも言えないトーンで、こう書いている。
数学技術者の爆発的増加ばかりか、社会そのものが数学と結合することを背景として、<数学の大衆化>が必然となる。功利主義にしても、かつては大数学者の頭と魂に潜んでいた思想の微妙なゆらぎを、外的な構築として顕在化し、大衆の眼前においたのだった。そしてそのことはかえって、「数学者」の個別価値を突出させなくもする。そして数学が物質化していく中で、「数学の魂」を懐かしむことは、現代人にとって気恥ずかしいことだ。これが現代人の贖ったものだった。こうして現代人にとって、数学は彼につきささっている。いまではすでに、数学は社会構造の一部であるから。
「気恥ずかしいこと」と言ってるけど、ここに数学者の嘆きのようなものを読み取るのことを、ぼくは深読みとは思わない。
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2005年07月19日
殺人雑誌
殺人マニア向け(?)雑誌『実録! マダー・ウォッチャー』(洋泉社)が届いたので早速読んでみた。
子どものころから、人を驚かせたり、眉をひそめさせることにかすかな快感を覚えるぼくの最近のお気に入りの発言は「趣味は殺人です」だったりする。それはこの雑誌を監修した柳下さんのホームページにあったセリフ。柳下さんみたいな筋金入りの殺人マニアからしたら、ぼくごときはまあ殺人検定五級とかになるんだろうけど。
悪趣味を装う衒いというのもあるけど、内心では「そんなの悪趣味だ」と眉をひそめる感性の鈍い人々を嗤うという歪んだ心理もあったりする。悪趣味も何も、我々人間はみんな人殺しを内に飼っているじゃないかと思う。
人間の歴史は人が人を殺してきた歴史だし、合理的、理不尽とを問わず、いまも昔もたくさんの人間が数え切れない人を殺してきた。そういう人間の暴力の普遍性を考えるなら、自分のなかにも同じ傾向があると考えない理由はない。殺人者は我々(自身)の中にいる、という巻頭辞に、ぼくは同意する。
数十万年前に数十種存在したとも言われるヒト科の霊長類、ホミニドが、ほとんど全部絶滅し、その後にぼくらホモ・サピエンスとなる種族だけが生き残ったのは、人間という種がもっとも好戦的で残虐だったからなのだという説明には、ぼくは一定の説得力があるように思う。白昼夢から目覚めて、ふと我が手をみてみると、鮮血に染められていて呆然とする、というような、ホラー映画にでもありがちなモチーフそのままだ。好戦的で血に興奮する種族だからこそ、いまだに格闘技が盛んという話がある。
ちょうど普段は地下で胎動しているマグマが吹き出す火山の噴火のように、殺人事件や虐殺事件、テロは、人間の内なる暴力性が顔をのぞかせる吹き出し口のようなもの。
おぞましいと言って目をそらすのは、ある種の人々にとっては上品な態度だと思う。でも、もし暴力について意味のある話をしようとするなら、暴力から目をそらすなんて、誠実な態度とは言えないと思う。
軍隊の存在が事実でも必然でもないかのごとく言いつのり、近代国家に暴力など不要だと理由もなく主張し、建設的な、たとえばシビリアンコントロールについての議論にもたどり着けないような、そういう欺瞞的で夢想的な平和主義者と、このへんはパラレルな話じゃないかと思う。暴力は不可避的に存在する。それをむやみに断罪することが暴力の根絶にはなるはずがない。暴力の諸相を知ることは、なんにせよ最初の第一歩じゃないかと思う。
ところが、暴力は理性を拒む面が強い。暴力は、近代社会という理性の構築物のなかにオリのように残った異物のように感じられる。我々の内なる暴力性は、排除も理解も拒む。だから、「殺人」はゾッとするようなおぞましさとともに、得も言われぬ蠱惑的な響きをもつのだと思う。いったいどれほどの小説、映画、芸術作品が現実に起こった殺人事件を題材にしてきたことか。眉をひそめながらも、みんな殺人事件に興味津々じゃないか。裁判にかけられる殺人犯をみて「あんな人でなしは殺してしまえ!」と殺人鬼のようなことを思うじゃないか。殺人を憎むあまり死刑制度廃止の議論に反対する人々は、同時に殺人を望んでるというんだから矛盾した話だ。
殺人に対するときに人々が見せる矛盾に似たものが、家畜殺しにもある。屠殺場見学に行こうとぼくが周囲を誘ったとき、この誘いにみな眉をひそめたものだ。それはまあ当然の反応だと思う。だけど「残酷だと思う。自分は耐えられない」というコメントほど、この矛盾をハッキリ示しているものはなかった。何を言ってるんだ、毎日まいにち豚も牛も間接的に殺して食っておきながら、今さら誰のどういう行為が残酷だと言うんだ。目をそらすのは好きずきだけど、そういう矛盾に気づかない鈍感さのほうがぼくにはよほど怖い。ちょっとベールをかぶせるだけで残虐さを覆えるとでも思っているのだろうか。相手の痛みを想像するところから暴力に対する自覚やコントロールがはじまるんだとしたら、こういう想像力の欠如こそ、他方で暴力を増長させるリソースとなっているのではなかろうか。
自分が目をつぶっていれば相手の痛みを見ずにすむなんて冗談じゃない。目を開けて、痛ましい姿を見ようじゃないか。ルワンダで、隣人のフツ族によって家畜同然に農具で殺されまくったツチ族の姿を見ようじゃないか、、、、いや、家畜が殺されるところさえ見たことがないわけだ。やっぱり、ここに、ぼくはどうしても現代人、平和な先進国の住民が抱えている矛盾を感じずにいられない。
日々世界で起こる現実の暴力から目をそらす一方で、いまや映画も小説も暴力でいっぱいというこの矛盾。これは昇華なのか、カタルシスなのか、それともやっぱり欺瞞的現代人に対する挑発なのか。
と、自称平和主義者を嫌うあまり、残虐嗜好の言い訳めいたことを書いてはみたけど、もちろんぼくには、有り体に言って怖いモノみたさの悪趣味もあるわけだったのだけど、肝心のこの本、『実録! マダー・ウォッチャー』は、やや期待はずれに終わった。テレビや新聞が報じないというセンセーショナルなうたい文句の割に、内容が薄い。海外ネタを多く扱っているということをのぞくと、週刊誌のルポとたいして違わないじゃないか。それにライター陣も筆力にすごく差があって、とても読めたものじゃない記事が……。加古川大量殺人事件の現場ルポなんて、ただ「行ってきました!」以外に何も書かれていない小学生の遠足日記レベルだし。
巻頭カラーの現場写真だって、ただうつぶせになっている死体が並ぶだけで、どうということもない。グロテスクな死体写真を集めた実験的なサイト、grotesque.comで、かつて見た写真に比べれば、平和なものばかり。
しかしまあ、タイで幼児を誘拐しては内臓を食っていた間抜けな小心男の話だとか、イタリアの悪魔信者でカルトと化したヘビメタ集団の話だとか、オランダのイスラム系移民が起こす不穏な殺人・暗殺事件だとか、銃乱射事件を起こしたネイティブアメリカンの話だとか、よくもまああるはあるは頭のおかしくなりそうな事件が次々と。殺人事件の詳細を知ってゾッとするのは、実行犯の狂気が恐ろしいからというよりも、濃度こそ違え、同じ狂気を自分のうちにも感じることのほうだったりして。完全に動機が理解不能という殺人事件は、むしろ少ない。
投稿者 ken : 23:21 | コメント (10) | トラックバック
2005年07月09日
そんな漢字は読めません
加納喜光『この漢字が読めますか?――日本語の奥は深い!』(PHPハンドブックシリーズ)
動植物名、地名、著名な人物名、隠語、業界用語と、どっかで見たことあるような難読漢字のオンパレード。いちおう一通り読み終わったけど、もう一度頭から読んだら、やっぱり2、3割ぐらいは読めない漢字だと思う。
はじめのうちこそ全部覚えようと3度ずつ読み返したけど、漢字検定を受けるぐらい気合いある人じゃないと、これをすべて読めるようになるなんてムリだ。そもそも、読み方どころか、それが何を指しているのか知らないモノも多い。「薯蕷芋」がとろろ芋ってのはまだいいけど、「顳?(ひかがみ)」って何だ。膝の後ろのくぼんだ部分を指すんだって。そんなの初めて聞いた。
この手の本って、ただ難しければいいだろう的に難読漢字を集めただけのものになりがちだけど、そういうのに比べると、この本は良心的。初級クラスの単語は、オトナの日本人として読めないとちょっと恥ずかしいというレベルのものが並んでいる。
語源や漢字の成り立ちを中心に語られるコラムが出色だ。該博な著者の垂れる古今の日中漢字事情のウンチクには、もううっとり。ググったら5秒で出てきそうな浅い民間語源学をとくとくとひけらかす連中の鼻っ面に投げつけてやりたいような本だ。1年近くかけてトイレの中で読んだ本だから、いい感じに芳香剤の香りが染みついてる。鼻っ面にキンモクセイの香りをぶつけてやるよ。
たとえば「桜」。この字の旧字体は「櫻」。「2階のオンナが気にかかる」と覚えろと高校の国語教師に教わったのを思い出すけど、この字の右側は2つの「貝」と「女」が組み合わさった、嬰児の「嬰」。これは赤ん坊を表わす。“木偏に赤ん坊”の「櫻」は、もともと赤ちゃんの唇のようなプリッとしたサクランボの実を表していて、「櫻」はサクランボを指す字だった。ところが、それを誤解した日本人が、櫻の字をサクラに当てるようになった。ところが、この間違った用法が、桜の木とともに海をわたって中国に逆輸入され、いまでは中国人ですら、何の疑いもなくサクラを指す文字として「櫻」を使ってるんだとか。いにしえの日中の文化交流や文化誤解の話がおもしろい。「鮭」とかも、割と知られた話だけど、日本人が間違えてサーモンを指す字として使ったために、いまでは中国人も、これをサーモンを指す字として使っているという話。
あるいは、武士の「武」。ほこがまえは、武器や戦争にかかわるものを示し、中に入った「止」は、これは足を表している。だから意味はウォーリアーになる。そう言われてみると、象形文字としての漢字の味わい深さがにじみ出てくるような、そんな字だ。知らなかったよ、漢字っておもしろいよ。
象形文字は単純に絵としておもしろいだけじゃない。漢字は文化を背負っているから、その解題は古代中国の文化を思わせる。たとえば「県」。これ、「首」という字がひっくり返っている。木に吊られた首を絵的にあらわした象形文字なんだとか。ひよえー。恐ろしい。なんちゅう字だ。「梟首(きょうしゅ)」というさらし首の刑罰の様子を表している。
意味で組み合わさったものもおもしろい。たとえば「罪」と「罰」。これは、なんでこんな字を書くのか。上の「四」の部分は「あみ(網)」を表わす。悪事(非)を網でとらえるイメージ。天網恢々疎にして漏らさずだよ、と、そんな意味が込められている。罰のほうの下にあるのは、「言」と「刀」。これは判決の言葉と、刑罰の刀を表している。
もうひとつ驚いたモノ。「騒」という時。馬にノミがつくと、かゆくて馬が暴れ回るからということらしい。知らなかった。虫はあちこちにいる。「濁」の右側、「蜀」は何やら動植物にこびりつく虫のことだったらしい。それで水がこびりつくイメージから「濁」という字が生まれた。なぜか虫が入っている「虹」の字。むかし、中国人は虹を生き物と捉えていたってこと。
いやぁ、漢字っつうのはおもしろい。白川静の本でも眺めてみるか。
投稿者 ken : 13:06 | コメント (2) | トラックバック
2005年07月04日
殺人雑誌
新聞広告でみかけた柳下毅一郎監修の『実録! マーダー・ウォッチャー(2005 summer issue)』(洋泉社)が気になる。広告には、こうある。「目を背けるわけにはいかない。テレビや新聞が伝えない、世界で起こった衝撃と実録の犯罪誌」。どうやら季刊のムックらしい。ルワンダの虐殺やら、アメリカの銃乱射事件やら、いろいろと詳細にレポートされているんだとか。
実は売れてるんじゃないだろうか。アマゾンで検索したら在庫切れ。サブカル猟奇系季刊雑誌、うーん、刷り部数は5000部とか? もっと売れるのかしら。
わざわざネット上の書店巡りをしてオーダーしてしまった。楽天ブックスって会員登録なしで、ふつうの通販グッズのように本が買えるのね。いいかも。
柳下毅一郎って山形浩生の同級生で、マイナーなオカルト小説なんかを翻訳してる人だったような。と、そういうヘンなつながりで、ちょっと内容を信用してみようかという気になった。
どうしよう、1週間ぐらい食べ物が喉を通らなくなったら。いや、ぼくはそんな繊細な人間ではないのだけど。
検索してみたら、柳下さんは特殊翻訳家を名乗っていて、最近は殺人が趣味らしい。もちろん実行じゃなくて、資料集めや調査・研究だとか、そういったこと。『世界殺人ツアー --殺人現場の誘惑』という本が、ちょっとおもしろそうだ。
投稿者 ken : 11:00 | コメント (5) | トラックバック
2005年07月03日
2000年前の落書きと今日のニュース
本村凌二『優雅でみだらなポンペイ――古代ローマ人とグラフィティの世界』がおもしろい。約2000年前、ローマ帝政時代の一地方都市の選挙戦の様子やら、円形闘技場の外で起こったヌケリア人とポンペイ人の乱闘騒ぎというような話を読んでると、今日の国内ニュースの都議選関連と、横浜スタジアムの外で起こった阪神・横浜ファンのけんかにダブったりして。今の日本では剣を抜いて相手の腕を切り落としたりはしないけど、やってることは同じようなもんやんか。
ローマ時代の投票率ってどのぐらいだったのだろうか。
投稿者 ken : 23:42 | コメント (0) | トラックバック
2005年06月29日
読者の権利に追加
何か本を読んだら、ざっと振り返ってサマリー的な文章を書く ようにしようと思って、いままでそれなりにそうしてきたけど、こ れがけっこうめんどうくさい。めんどうだと言ってる間に読んだ本 が、線を引かれた箇所や折られたページすら読み返されることなく 積まれていくというのも何なので、手短な感想しか書く気にならな くても、それはそれでいいかという気になってきた。
ダニエル・ペナックが唱えた読者の権利10カ条に、第11条とし て「本の感想を1行で述べて片づける権利」も付け加えたらどうか。 と思ったら、第10条「読んだことを黙っている権利」というのとほ とんど同じか。罪悪感を感じることなんてない。勉強した気になっ て、すべて内容が脳みそから流れ去っても、まったく読まなかった よりはきっとマシ。それでいいんだ。
- 読まない権利
- 飛ばし読みする権利
- 最後まで読まない権利
- 読み返す権利
- 手当たり次第に何でも読む権利
- ボヴァリズム(ボヴァリー夫人みたいに小説に書いてあることに染まる)権利
- どこでも読んでもいい権利
- あちこち拾い読みする権利
- 声を出して読む権利
- (読んだことを)黙っている権利
宮台真司、宮崎哲弥『M2 われらの時代に』(朝日文庫、2004)
サイゾーの対談連載。いつも楽しみにしている対談で、わりと 欠かさず立ち読みしているつもりだけど、連載開始当初の古いぶん は、けっこう読んでなかったらしい。
対談した当人たちは意図的にやったと告白しているけど、とく に最初のほうでは「この議論をするなら、これぐらいの思想史的流 れや概念を理解しておいてくれよ」というような、やや講義モード が入っている。勉強家の宮崎が、またよく知ってて何でも手際よく まとめるんだな。
森村進『自由はどこまで可能か―リバタリアニズム入門』(講談社現代新書、2001)
はじめてのリバータリアン入門。おもしろい。見事によくまと まった本だ。
ぼくはパナーナリスティックな代表制議会政治や官僚制って、 社会運営方法として、そう悪くないと思っているけど、確かにもは や社会も経済も(人間の幸せの最大化のために)人間の頭で、どう あるべきかを考えられるようなものではないのかもしれない。人為 や作為よりも、マルチエージェントな市場に任せろ、と。経済だけ じゃなく、政治も教育も。
リバータリアンにも、理念よりも結果としての有利さを主に主 張する人々と、自己所有権テーゼと、それから当然に帰結される自 己決定権を道徳的に自明な自然権だとして主張する人々とで分類で きるらしい。ぼくはてっきりリバータリアンはみな「帰結主義」と 呼ぶべき立場で論じているものだと思っていた。
自明の自然権なんてあるのか。時代思潮や、既存の概念、社会 通念に強く依存するような、「自然さ」は、議論として弱くないか。 というので、ぼくは何であれ「権利」を自明に考えることはおかし いと思う。道徳も同じだけど、なぜ人間はそれを自然権と「感じ」 るのかを数理モデルといわないまでも、原理的に分析して、その戦 略上の優位を明らかにして、それに改めて個々人が合意するほうが はるかにいいと思う。要するに、「こうあるべきだから」ではなく、 「こうするといい結果がでるのだから、権利はこう規定しようじゃ ないか」と議論してほしい。
ロールズの正義論が説得力を持つのは、人間心理の数理モデル にもとづくからだと思う。
リバータリアニズムの根幹をなす自己所有権テーゼに、違和感 を感じる。自分の身体は自分のものだろうけど、自分のもってうま れた才能や健康、美貌など、そういったもの、とくに現代社会で、 もっと重要な要素、成功に結びつく稼得能力にかかわる頭脳は、は たして本当に自分のものなのか。もちろん誰に侵されるべきもので はないけれども、英語で「gifted」というように、こうした才能的 なものが天から授かる運任せのものであるなら、それに運良く「当 選した」というだけのことで、どうしてその人がその全権利を主張 できるのか、それがわからない。たまたま適当に飛び乗ったクルマ のエンジンがいいか悪いかだけで、レースの結果が決まるとき、そ んなレースを公平だと思うだろうか。いいエンジンに乗った人間が、 性能の低いエンジンで苦労している人間に、手をさしのべる道徳的 理由はないというのだろうか。
ロールズを論駁したという、リバータリアニズム中興の祖(?)、 ロバート・ノージックの著作を読まないと。
カタログハウス編集『大正時代の身の上相談』(ちくま文庫、2002)
笑っちゃいけないけど、笑っちゃう、大正時代の人々のお悩み。 いまの悩みだって、100年後の人々には笑いのタネとしかならない のかもしれないよな。リバータリアンの本で描かれる強い個人主義 のもとでの家族像なんかを考えると、平成の「家族」「結婚」に関 するお悩みなんてのも、そもそも悩みとして成立しない時代が来る のかもしれないなぁ。













