2003/02/11(Tue)
パソコンおたくな休日
Debian GNU/Linuxにするか,ARMA Linuxにするか,あるいはGentoo Linuxにするかで迷ったけど,かなり生っぽいLinuxが味わえそうなGentoo Linuxに決定。まだあまり知られていないLinuxディストリビューションだけど,FreeBSDのportsライクでありながらDebianのdebより強力な依存関係・バージョン管理システムを備えているというportageが魅力。さらにインストール時に,gccやglibcなんかまで自分のマシンでmakeするという選択肢があるのがLinux From Scratchっぽくてグッド。1度はこういうのやってみたかった。
ThinkPad s30は仕事でも使うので,さすがにWindowsを使わないという選択肢はなく,デュアルブートマシンに仕立てる必要がある。20GB→40GBのHDDの引っ越しでWindows 2000はそのままに,残り半分をLinuxにしてしまう。WindowsはLinux上のVMwareから使うように計画。
ACPI周りが面倒なノートPCでは,WindowsをホストOSにしてVMware上でLinuxを動かし,Windows上のXサーバ(Cygwinのxfree86.exeとか)を使うのが定石だけど,「もうWindowsなんてイヤッ」と発狂気味なので,多少の苦労があってもLinuxを下にする覚悟。なんで苦労してまでLinux? と聞かれることも多いけど,Windowsで耐えなければならない不可解さや不自由さを知らないからLinuxが苦労のかたまりに思えるだけで,Linuxにある自由と透明さを知ったらWindowsとかWindows的なソフトウェアなんて使ってられないぜ,というも事実なのです。どっちも一長一短。でも,Windowsの「長」はWindowsが良くできてるからというよりも,それが業界で95%を越えるシェアを持っているからという理由が大きいと思うけど。
ThinkPad s30はCD-ROMもFDもないのでインストール方法は特殊。デスクトップで動いているLinuxマシンにノートから取り出したHDDと引っ越し先のHDDをぶら下げて,ddコマンドでWindowsパーティションをブートレコードごとをコピー。続いて半ば手動でLinuxをインストール,chrootしてブートローダーを適当に設定,それをノートPCに戻せば完了となるはず。Gentoo LinuxはブートCDがISOイメージで配られてるけど,それはHDD上に置いてloopbackデバイスとしてマウントすれば,あとはほげほげという感じ。
イメトレ完了。理屈は簡単。と,思ったら引っ越し元HDDのデフラグだけで3時間もかかってしまった。がく。
と,仕事を離れてまでパソコンな休日を過ごすなんて馬鹿でしょうか……。楽しいからいいんだけど。久しぶりにLinuxの記事やりたいなぁ。
2003/02/21(Fri)
金曜日の夜は
かなりアクロバチックなスケジュールで対談のアポが取れ,大阪出張決定。ヤッタ。気分良く仕事がはかどる。仕事って絶対的な忙しさはストレスにならなくて,自分が仕事に追いついてないという焦燥感がストレスになるものだけど,そういう意味では,今月は今のところまだストレスフリー。すでに頭を抱えるような事態が3つも4つもあるけど,それにしたって「やれば解決する」のだな,きっと。
とうとうお酒をやめて1カ月。いや「とうとう」というのは大げさで,自分では本当にやめてしまったと思っているので,長くも短くもない,ただふつうの1カ月。こんな調子でこの先1年が経つんだろうし,10年が経つんだろうと思っている。どっちにしても,もう毎晩飲む生活には戻りたくない。
とはいえ,今日は金曜日の夜。何となくむずむずする感じはある。仕事に区切りがつき,体力もある。誰かに電話して一緒にビールでも飲みたい気分。誰も捕まらなくても,久しぶりに昔なじみのバーにでも出かけたい気分。走るバイクのタイヤが地面についていない。
ビールが喉を通る爽快感とか,冷たい液体が胃に落ちる感触を思い出すと「ビールは良かったな」とは今でも思う。バーボンの甘い香り,喉を焦がしながら落ちていく感じ,少しずつやってくる酩酊感。カラン,と美しいグラスに響く氷の澄んだ音。冷たいスツール。ゆっくりと心を溶かしていくBGM……。そういう諸々。
それもこれも冷静に考えれば,本当にぼくのしたいことじゃない。ぼくはアルコールでハッピーにはなれない。
お酒がないと人生寂しい。かつてのぼくなら,そう考えたけど,本当はそうじゃない。お酒がないと寂しい人生は,お酒があったところで寂しいに決まっている。お酒を飲まないと腹を割ったコミュニケーションができないという意見もあるけど,飲まないと話せないようなことは,そもそも話さないほうがいいに決まってるのだ。薬物の力を借りて作られた人間関係なんて,薬物中毒と同じくらいむなしい。人間は薬物の助けなしに,陽気にもなれるし,人と親しくもなれるし,ハッピーにもなれる動物だ。
浴びるように酒を飲んでたと思ったらピタッとやめてみたり,実はティーンエージャーのころは「酒なんか飲むのアホやで。オレは一生あんなもん飲まへんで」と言ってたという事実があってみたり,だいたいぼくは言うこともやることも極端に走りがち。極端から極端へ揺れ動く振り子みたいなもの。でも,確かに中庸の美徳ってのはあるかもしれないけど,ぼくは過激な変節漢であるほうがいいと思う。何1つ激しく主張できないような人は,何1つ真剣に考えていないってことだ。いや,うそです。
2003/02/22(Sat)
意志の強さ
お酒をやめたことで「でも,つき合いで飲める人(social drinker)になって,節度を保って飲めるなら,もっといいし,それができるなら本当に意志が強いってことだから尊敬しちゃうけど」と何人かに言われた。「キッパリやめたわりにしょっちゅう話題に出てくるところを見ると,未練がある証拠じゃないか」とも言われた。いくつか反論があります。
1つは意志の力でアルコール中毒にならずに済むというのは結構危険な勘違いだということ。確かに,飲み過ぎずに節度を持ってアルコールと付き合っている人は多いです。というか,むしろ世の中の9割の人はそういう「みんなで楽しく飲むなら」というソーシャルドリンカーです。このタイプの人は,そもそも意志の力で酒量や飲酒をコントロールする必要がなく,言ってみれば「アルコール中毒」への入り口で戯れている人たちです。一生,そういう状態で終わる人が大半。だからこそ何千年かの飲酒文化の中で,アルコールの危険性に人々は目覚めなかったのだろうと思うわけです。まして昔はみんな短命だったから,30年も飲酒を続ける前に,ふつうは感染病で死んでしまっていたわけです。現代は違います。誰もが70年も生きる時代。20歳で飲酒を始めると,まだバリバリの壮年時代の40歳ですでに20年の飲酒歴になる。
大半の人はアルコールの問題に陥らずに一生を終えています。だけど,ある一定の割合,たぶん1割か2割の割合で,入り口から中へ中へ進んでしまう人たちがいます。好奇心や探求心かもしれないし,周囲の影響かもしれない。あるいは仕事や人生がつらくて,お酒が何かを癒してくれると思っているのかもしれない。理由はどうあれ,10年,20年と飲酒を続けると,やがて酒量のコントロールのきかないところまで飲んでしまう人がいるわけです。誰がそういうタイプかはわかりません。
最初はぼくだって受験勉強の合間の缶ビール1本から始まったんです。一説によるとアルコールによる酩酊状態を快いと感じる脳内細胞は遺伝するというので,酒飲みを父に持つぼくは,突き進んでいくタイプっぽいなとは前々から思ってたわけです。実際,明らかにぼくは進むべきでない道を進んでいた。あのまま毎晩ボトル1本を飲み続けていたら,きっと5年か10年で肉体的か精神的かわからないものの大きなダメージを負っていたんじゃないかと思うわけです。すでに言動がおかしくなっていると,ぼくをリアルワールドで知ってる人は言うかもしれませんが,それはお酒のせいじゃないです,たぶん。ひとまず希望的観測としては。
ともかく,傾斜のきつい滑り台をすべり落ちるように,ある瞬間から落ちていく人々がいることは間違いない。確実にいるわけです。ほとんどの人は滑り台のてっぺんの踊り場で上品にお酒をたしなんでいる。だけど,だからといって落ち始めた人に向かって「滑り台の真ん中でじっとしていられるならいいけどね」とアドバイスするなんて,あり得ると思いますか? 滑り台の上で陽気にお酒をたしなんでいるハッピードリンカーをうらやましく思ったり,またその仲間に入れればと願うかと言えばそんなことはない。だって,次にいつ誰が滑り出すかもしれない場所にいる人々を,うらやむと思いますか? ぼくは今30代前半だけど,これから10年ぐらいの間にぼくの周囲で滑り出す人が何人かでてくるに違いない。すでに3人ほど,かなりのところまで滑り落ちたのを見たし,この人は滑りつつあるんじゃないだろうかいう人が,ぼくの知人に今でも少なくとも3人はいる。それでもまだ,滑りかけたぼくに向かって「また滑り台に戻れるといいね」というアドバイスをしてくれるわけですか? それを意志の力だなんて言うわけですか? わざわざリスクを冒すのが格好いいオトナだなんて言うワケじゃないですよね。
国内だけでも年に数人が急性中毒で命を落とし,毎年何十万人もの人がアルコールに起因する肝硬変や消化器系のガンで命を落とすか,あるいは致命的な病を患っている。寒い地方では飲み過ぎて屋外で眠り,凍死する人もいる。痛風というやたらと痛いらしい病気もビールがなければここまで一般的じゃなかったかもしれない。酒気帯びでの交通事故も入れれば,飲酒にはかなり高い命のリスクがある。精神を病む人だって多い。それなのに「心臓発作のリスクは非飲酒者より飲酒者のほうが3〜4割低い」という事実を誇らしげに報じる学者グループがいて,それをまた大した反省もなく掲載する新聞なんかがある。これは何故か。それは単に世の中には酒飲みが多いという事実を証明しているだけ。「適度なアルコール摂取は健康にいい」なんて,論理矛盾なんです。適度で済まなくなるから危険なのに「適度ならいい」というアドバイスほど無責任なものはない。「節度をもって飲めるなら,それが一番」と言う人の多くは,体質的にお酒が飲めない人か,あるいはお酒を知らない人。意図せざる痛飲を経験したことのある人なら誰だって,多かれ少なかれ節度を保てなくなることがあるのを知ってるはずなのです。それは意志の強さ,弱さと関係がない。どんなに意志が強くてもコカイン中毒になってしまうのと同じ理屈で,アルコールは薬物なのだから中毒になる危険性は意志の強弱によらず存在している。飲み過ぎてしまうのは意志が弱いからじゃなく,それはアルコールが麻薬だからなのです。節度を持って麻薬を楽しむのが意志の強さを証明するのだとしたら,ぼくはさっさとしっぽを巻いて逃げたい。
日本ではあまり広く知らされていないものの,数百万人が中毒症状に苦しみ,うち数万人は施設に送られ,家庭や仕事,人生まで失っているわけです。ハッキリ言うと,アルコールは千年以上にわたる文化があり,日本では法的に禁じられていないというのが違うだけで,コカインやヘロイン,あるいはマリファナなどのドラッグと本質的な危険は何ら変わるところがない立派な薬物なわけです。長年摂取を続けると中毒になり,依存症状を引き起こすドラッグなんです。ぼくはカリフォルニアに住んでいたことがあって,自分でも何度か試したからわかるけど,マリファナのほうがエチルアルコールより安全かもしれないとすら思ったりします。アメリカ人やヨーロッパ人の少なからぬ人が,そう思っていて,実際に欧米でマリファナは合法化の流れにあります。いや,ぼくはマリファナ万歳なんて言ってるわけではなくて,マリファナもやっぱりリスクを冒すには危険なゲームだとは思ってます。めくるめく幻惑やスリル,あるいはファッション的な目的で若いころに遊ぶには楽しいゲームかもしれないけど,危険を忘れて常習するようになるとヤバいのです。
常習性があるのを知りながら遊ぶなんて,ヤンキーのトルエンやシンナー遊びじゃあるまいし。なんでアルコールだけが例外なのか。虚心坦懐に考えてみると,不思議な話です。常識を疑わない人はアルコールも疑わないでしょうけど,疑ってみると,これは本当に不思議な話。アルコール関連市場は超巨大で,国家的に見ても大きな税収源になっているから,そういう政治的なしがらみも大きいのかもしれない。というより,誰も疑っていなくて文化だと考えられていることが,この問題をものすごく深いものにしていると思った方がいいと思う。
エチルアルコールが危険なドラッグであるという事実を覆い隠す千年の文化,あるいは社会システムがあることは,ある意味では「お酒」をコカイン以上に危険な薬物にしていると思いませんか。コカインで命を落とす人と,アルコールで命を落とす人と,どっちが多いかは,よくよく調べてみたほうがいいのです。アルコールは手なずけることができるドラッグだなんて思うのは,事実誤認に過ぎないのです。ぼくは21世紀中に人類が薬物依存の歴史を断ち切れるとは思わないけど,もしも断ち切れるのだとしたら,そのとき最後の最後まで残っているのはエチルアルコールだろうと思ってます。そのくらい人類の文化に深くアルコールは根を下ろしてしまっている。だけど,WHOがアルコールを地球上から根絶すべき危険なドラッグのリストに入れているのはまったく正しい判断だと思う。
ある行為に命を落とす危険があっても,それがもたらしてくれるメリットがリスクより大きければ人は当然それをやる。毎年1万人に1人が死ぬと知っていても人々は車に乗るわけだし,100万回に1度パラシュートが開かないと知っててもぼくのようなスリル好きはスカイダイビングをやってみたりするわけです。
じゃあ,お酒のもたらすメリットは何か。これについての世間の人々の認識は非常に複雑に幻想にからめ取られている。だから『禁酒セラピー』という本の冒頭で,筆者は「最初から最後までページを飛ばさずに読んでほしい」と書かなきゃいけなかったんだと思う。一般に,人がお酒に認めている価値のほとんどは,実はエチルアルコールとは無関係である,というのが禁酒セラピーの基本的な主張で,ぼくはそれに同意したのです。お酒の場で楽しかったこと,気分の良かったこと,お酒のおかげだと思っていたことの数々,そういうものが本当にエチルアルコールのおかげだったのかと改めて反省してみると,ことごとくそうじゃないことに気づくというわけです。
実験室のエチルアルコールを蒸留水で割ってもおいしくないのに,何故ワインがおいしいかというと,それは葡萄ジュースがおいしいからであって,ワインのおいしさはエチルアルコールとはまったく関係がない。「違いがわかる」と,したり顔のワイン通は前々から胡散臭いと思っていたけど,冗談じゃないぜ,ウマイも不味いもない。基本的に劇的に不味いエチルアルコールを混ぜてある以上,ピュアな葡萄ジュースに,味の点でワインが勝てる道理がない。いや,まあ人間の嗜好はそれほど単純じゃなくて納豆の匂いのような例もあるので,これはもうチョイ込み入った話かもしれませんが。でも,本当に自分がお酒が好きだと思うなら,まずはエチルアルコールと言わないまでも,度数98%のロンリコをなめてみるべきだと思うのです。全然おいしくないですよ。ロンリコにタバスコを入れて喜ぶのは20代だけでケッコーなのです。
酒飲みは,陽気になれるのはアルコールのおかげと思っているけど,本当はアルコールはダウン系のドラッグだから気分を鬱にする効果のほうが強い。単に五感が麻痺し,大脳皮質が麻痺して警戒心や緊張がなくなるから陽気になっていると勘違いするだけ。楽しく話せてるのは,楽しく話せる友人のおかげであって,エチルアルコールの力はあまり関係がない。そもそも楽しいのは最初のうちだけで,大いに飲み過ぎると自分の糞尿や吐瀉物が洋服につくのさえ気にならなくなったり,ケガの痛みもわからないほど頭が鈍って,喧嘩っ早くなったりまでするわけです。ぼくは「酒場こそ人生を学ぶ場所だ」とばかりに酒場で一体何千時間過ごしたかわからないけど,たくさんの醜い酔っぱらいを見てきた。
お酒がもたらしてくれる数々のメリットを,お酒と切り離して考えるというのは時間がかかる。だから,ぼくは今でも「むずむず」するんです。でも,やっぱりお酒の場の楽しみ,ビールといただく料理の味,仕事やスポーツのあとのお酒のリラックス,そういったものは何もエチルアルコールのおかげじゃなかったんだと,そういう発見を1つずつやっている段階なのです。未練があるからお酒のことを考えてるんじゃなくて,未練を未練じゃないと確認するためにお酒と人生の関係を考えているわけです。そのプロセス自体は新鮮で楽しいものです。
少し酔っぱらったりすることで心を開き,男女が親密になれるとか,そういうのは確かにあるような気がする。この点はぼくは認めるので,これから先,一体どうやって女性を口説けばいいのかという問題は悩ましい。いや嘘ですが。でも,そんなデメリットは,お酒の持つリスクに比べたらまったくものの数に入らない。それに「お酒の力を借りて」何かをするという発想は,酒飲みの時代から嫌いだったのです。伊丹十三が飛び降り自殺したときも,恐怖にうち勝つために泥酔してたと聞いて「意外にしょうもない男だったのかもな」と思ったりしたものです。
さあ,ここまで読んだ人がどれくらいいるか。ははは。まあ文章を書くというのは頭の中の交通整理なので,ほとんど読む人がいなくてもぼくは構わないんだけど。
さて,もう1つ反論の大きなポイントがあります。それは,意志の力で何かができると思っている点です。意志の力で何かをやり遂げられると考えるのはナイーブだと思います。人間観察というか,自己省察足りないんじゃないですかと,ぼくは言いたい。何かを決意したり目標を立てて,それを意志の力でやり遂げた経験なんてありますか?
ダイエット,禁煙,禁酒,あるいは語学の勉強でもなんでもいいですが,カタイ決意にも関わらずほとんどいつもスタートしたとたんに失速して失敗しているという人が少なくないですが,それは意志の力でやろうとするからです。人間が意志の力で何かを継続できるなんて考えるのは元日の子どもぐらいであって,自分の行動パターンを何十年も見てきたオトナなら,そんな頼りない計画は立てないものです。計画が失敗に終わって自信を喪失するのが目に見えているから。
ぼくが最近つくづく思うのは,人間はゲーム理論的な意味で,とても合理的に動く生き物だと言うこと。インセンティブと情報の構造が,人間の行動を決めるのであって,意志の力なんてのは関係はない。ただ「快」を感じる方向に進むだけです。といっても人間は未来を見通すことができる動物なので,いわゆるエピュキリアン的な短絡的行動原理が日常に顔をのぞかせるなんて言うわけじゃないんです。
アリとキリギリスの喩えで,まるでアリさんが立派だと言わんばかりのことを主張する人がいますが,どっちも利己的に動き,自分の「快」を追求しているに過ぎないという点はまったく変わらない。違うのは視線の高さ。どこに「快」を見るかが違うだけ。つまりダイエットを継続できる人というのは,継続した後のメリットを正しく理解し,納得し,その道筋を正しく歩んでいる自分に満足できる人。意志の力というよりも,理性の力。ちゃんと納得していれば,継続することなんて努力のうちに入らない。お預けに涎を垂らす犬じゃあるまいし,目の前の小さな誘惑に負けるなんてことにならない。未来の大きな欲望を現在の小さな欲望に優先させることに失敗するのは,情報のコントロールミスでしかない。自分に正しく未来の情報をインプットしていないから計画が頓挫するのであって,意志の力なんて関係がない。本当に未来に大きなインセンティブを認めるとき,人間は1年や2年ぐらい辛酸をなめることだってできるのです。というよりも,端から見たら辛酸をなめるような行為ですら,人間は未来を夢見て楽しむことができる動物なわけです。
ぼくがお酒をやめたという事実を言い換えると,不正確あるいは虚偽の情報のためにインセンティブの見積もりを大きく誤っていたのに気づき,自分がインセンティブだと思っていたものを,まったくナンセンスだと判断するようになったからです。さらに,リスクをリスクとして正しく見つめてみたことで,インセンティブと情報の構造が変わったのです。ぼくにとってはもはやお酒を飲むという行為には逆インセンティブが働くようになったのです。
お酒のことを「愛すべき人生の友」だと今でも思っていたなら,ぼくだって「一生飲まない」なんてつれないことは言いませんよ。
節度をもってつき合いで飲むことも,ぼくは本当はできるんじゃないかと思っています。だけど,試してみる価値があるとは思ってません。状況が許す限り,ぼくはアルコールを避けると思うのですが,それはちょうど普通の人が何かの間違いで紛れ込んだマフィアのパーティーで,親分たちに囲まれて「さぁ,やれよ」とでも言われない限りコカインに手を出さないのと同じことなのです。
一応また付け足しておきますが,ぼくは問題の存在に気づいていない,あるいは気づく必然性のないハッピードリンカーたちにまでお説教を垂れて場を白けさせたりするほど馬鹿ではないので,飲み会の席ではこういう話はしません。タバコを吸ってる人に「アンタ自殺行為だよ。死ぬなら勝手に死ね。オレまで巻き添えにするな」と面と向かって言わないのと同じコトです。
と,ここまでさんざんっぱらアルコールの悪口を書いてきたわけですが,ぼくはぼくと同時代の人がアルコールを楽しむのは仕方がないと思ってます。むしろ性格的なことを言えば,お酒を飲まない人より「お酒大好き!」という人のほうが今でもずっと好きなのです。これはタバコも同じで,タバコはもうホントに根絶すべき悪だと思ってますが,一方でタバコを吸う人には外向的,共感的,活動的,魅力的な人が多いとも思ってます(これは偶然じゃなく,心理学的説明ができるはず)。さらに人間には「悪」を楽しむ傾向がある。とっても健康,健全,品行方正! なんてツマンナイのです。そういう意味で,もしアルコールをマリファナと同列に並べるなら,たまにはこの悪を悪として楽しんだりすることは,とても人間らしい行為だとも思ったりします。現実的にはありえないですが,アルコールが非合法だったら,ぼくは1年に1度や2度ぐらいはアルコールパーティーをやってたかもなと,そんな想像もしたりするのです。ちょうど悪友とマリファナパーティーなんかをするように。非合法だとそうそうしょっちゅう入手できないから,1年に2度3度となるわけですが,そうするとアルコールで慢性中毒になる人はごくごく少数になって,それは密かに楽しむべき小さな悪になるはずです。で,ぼくらが現在「酔っぱらう」と呼んでいる肉体的精神的変化が,実はものすごく激しいトリップであることに人々は改めて気づき,その危険性も鋭く嗅ぎ取るようになるはずだと思うのです。
2003/02/23(Sun)
論理的思考による行動
なんだか私信メールへの返信を日記化してるかも。まいっか。割と普遍的な話題だし。思うところのある人は気軽にメールでもください。
TOEIC360点からスタートして,仕事をしながらの3年間の英語との格闘のあと,渡米前にTOEIC900点をマークしてMBA留学した高校時代の友人からのメールです。あ,TOEIC360点を白日の下にさらしてしまった,すまん,カミカワ。いや,大した努力でスゴイ話だと思うし,きっと勇気づけられる人もいることでしょう。
で,意志の力で人間は何かできるほど強くなくて,人間が何かを継続できるのは長期的展望による未来の欲望にコミットするときだと言ったことに対して,彼はギモンを呈しました。英語の勉強を根気よく続けられたのが「長期的なメリットを理解した論理的思考だけでは説明できない気がする」ということ。
確かに,人間はそこまで物覚えがよくない。「継続」を可能にするものは中長期的な見通しだけじゃないかもしれない。いや,考え直してみると,まるっきりそんなもの,未来の欲望なんて役に立たないのかもしれない。だって人間の意志なんて弱いものだから。未来の欲望が現在の欲望に勝てると期待しないほうがいい。
じゃあ,なんで人が努力を継続できるかというと,それは楽しいからでしょう。結局,ここがポイントで,人間楽しくないことなんて3日も続きません。中長期的な見通しをもって,本来楽しくないはずのことを楽しいものに変える力,そういう理性の力があるのが人間だと思っていて,そういう力こそ大切にするべきだし,自分をうまくコントロールして「楽しめる」ようにするのが,継続的に何かをするための秘訣じゃないでしょうか。
中にはマゾヒスティックな性格の人もいて,「頑張っちゃう自分」に酔いしれるタイプもいます。ぼくは自分にややこの傾向があることを自覚しています。でも,それだって利用するべき人間のキャラクターで,何も悪いことじゃない。ぼくが水泳を一生懸命続けてるのは楽しいからであって,別にドーバー海峡という遠大な目標があるからじゃないのです。泳いでいるときにちょっと苦しくても,自分の能力が向上していく喜びに比べたら,まったくそんなモノは気になりません。数字を付けること,タイムを計ることによって,どれほど勇気づけられ,またそれが「自分は向上することができるのだ」という自信を与えてくれるか。目標に近づいているのだということ自体より,どこかに向かって走っているという高揚感と充足感,日々感じることのできる満足感こそが,継続を可能にするんじゃないかと思うんです。
きれい事を言ってるんじゃないんです。ぼくは自分が意志の弱い快楽主義者であることを知ってるから,そういう自分に見合った計画を立てないと,自信もなくし,挫折ばかりすることになると思ってるわけです。そしてぼくの観察では人間は例外なく意志の力で何かができるような動物じゃない,ということです。意志の力で何かをやり遂げたなんて顔してるのは,ただ思い上がった勘違い野郎か,そう言ってみたがるカッコつけなんです。意志の力でできるのは情報を集め,整理してインセンティブの構造を変えること,そしてそれによって自分の行動を変えることであって,意志は行動に間接的な影響力しか持ち得ないのです。
人は向上心と言いますが,これは立派な中毒です。かなりナルシスティックな中毒です。だけど,アルコールなどの中毒と違うのは,向上すればするほどさらに気分がよくなり,しかも人生が豊かになる「よい中毒」というところです。中毒になるに値する中毒です。
ぼくがTOEICを受け続けるのは,1つには自己顕示欲のためであり,1つには将来の履歴書のためであるわけですが,本当のところ,TOEICを受ける一番の理由は,自分の伸びを感じられることほどうれしい報酬はないからなのです。語学学習というのは地道で効果が感じられにくい作業なので,こういう目に見える形の報酬を積極的に学習計画に採り入れないのは,もったいないと思っています。TOEICのように能力を客観化するテストに過剰に反発する人の多くは,つまらないプライドや偏見のせいで非常に大切な機会を失っていると思うんです。まあ,TOEICの話は置いておきましょう。
きっとTOEIC360点からスタートしたカミカワも,徐々に英語力が付いていくのに,非常に大きな喜びを感じたに違いないと思うのです。語学はさまざまな人生訓を引き出せる非常に良い自己修練の道具だと思っているんですが,それはなぜかというと,語学力というのは人の努力を裏切ることが一切ないからです。短期的に見ると,確かに伸び悩む時期が続いたり,冷静に考えると外国語習得なんて本当の意味では一生達成できっこない難事業ではあるのだけど,一方では非常に rewarding な,知的興奮と喜びに満ちあふれた道筋なのです。
最初は外国人の言うことが少し聞き取れるようになって「やった」と感動する。初めて自分の外国語が通じたことに感動する。ふと気づくとテレビからの外国語がわかるようになっている自分に感動する。1カ月おきに伸びていく自分に感動する。やがて口からすらすら外国語が出てくるようになって感動する。新鮮な感動の連続なのだから,語学学習者がやっているのは苦行なんかじゃなくて,むしろ快楽をむさぼる作業なのです。語学はたゆまぬ努力だなんて美化しちゃいけません。涎を垂らす犬と本質的なところは違わないんです。だからといって下劣だと言ってるんじゃないですよ。むさぼるに値する快楽と,むさぼるべきじゃない快楽というのがあるだけです。
語学学習は,たとえ日々の学習がどれほど地道な作業に見えたとしても,基本的には楽しいからやってるのです。登山にたとえると,こういう感じ。最初は山頂を目指してスタートしたけど,山頂なんてすぐに見失う。でも,登っていくこと自体が喜びに変わるし,変えることができるのが人間だと思うのです。変えない限り上れないほど高い山はたくさんあるし,もしかすると人生というものそのものが,山頂の見えない登山かもしれないと思うことがあります。山頂にたどり着けるかどうかはもう問題じゃない,登ること自体が喜びだと。
MBAの彼は15年もラグビーを続けてた。15年も続けられたのは努力や意志の力ではないかもしれないし,振り返ってみて「15年前に戻ったとしても,もう1度ラグビーをやると思うよ」と誇れるような達成感があることが,あらかじめわかっていたからとも考えづらい。やっぱり日々の喜びを見いだしていたから続いたんじゃないかと思うんです。そりゃ疲れ切って「もう2度とやるもんか」と思うような夜もあるかもしれないし,仕事で忙しいのに社会人になってまでなんで身体をこき使うんだとギモンに感じるときもあるかもしれないけど,基本的には「楽しいから」やるんでしょう? ラグビー嫌いの人間が15年もラグビーを続けれるわけはないし,たとえそんなことをやったとしても,だから何? って話です。
意志の力を強調するのは危険だと思う。というよりはた迷惑じゃないかと思うんです。だって,ホントは意志の力で継続しているわけでもないのに「オレは意志の力で努力した」と言われたら,周囲は感心して,そうかもしれないと思うじゃないですか。それで「よしオレも」とやってみる。それで挫折する。
努力や継続を可能にする動機を分析せずに,「意志の力」と言ってしまうと,ほとんどの人は挫折感にさいなまれるまま生きていくことになると思うんです。そうじゃなくて,いかにプロセスを楽しむか,そのためにいかに情報を収集・整理して自分を納得させるか,そこがミソじゃないかと思うんです。たとえば語学は最初の感動が訪れるまでに,かなり長い時間がかかるし,その後いくたびもやってくる感動にしても,非常に多大な学習時間の間隔をおいて訪れるものなので,あらかじめ「時間がかかる」ということを自分にしっかり言い聞かせないと継続できないんじゃないかと。だけど,いったん1つ目,2つ目と甘い果実を手にしたらしめたもので,あとは存分に中毒の道を突き進んでいけばいい,というわけです。語学学習という道のりは感動の連続であると同時に蹉跌の連続でもあるけど,やっていく間にだんだん挫折感とのつき合い方もわかってくるものです。
15年のラグビーもそうかもしれないけど,語学でなにがしかの「達成感」という果実を味わったことがある人は有利じゃないかと思うのです。というのは,最初の1つ目の果実がスタート地点から非常に遠い地点にあって,それを何とかもぎ取るという経験をしたことがあるはずだからです。どんな物事でも最初の1つ目の果実がなかなか手に入らないことが多い。ダイエットだって効果が目に見えるのは早くて1週間とかかかります。だけど,1度でも「最初は我慢だ」ということを知った人は未来の欲望に対してより忍耐強く,あるいは貪欲になれると思うんです。努力が報われるという快感を知った人は,努力を努力だなんて思わなくなる。ダイエットで言えばダイエット中の空腹感は喜びにさえなる。これは人生を豊かにする非常に強力な力になると思うんです。
翻ってお酒。ぼくがお酒をやめたのは,それがぼくにとって喜びだからであって,何も努力や意志の力じゃないのです。タバコをやめたときも同じだけど「エライよね,ぴたっとやめられるなんて」と言う人が多いけど,それは誤解でぼくの禁酒禁煙の動機は不純というか,きわめて利己的で自己満足的です。自分のエゴのためにタバコを吸い始め,自分のエゴのためにタバコをやめた人がエライわけありません。
「やめたこと」を続けるのは楽しい。少なくとも楽しむべきだとぼくは思っていて,それこそが中長期的に自分がハッピーになるための条件だと,お酒に関してはそう判断したのです。少しずつ,お酒のことを忘れていくこと,お酒と生活の喜びを切り離していくこと,そういうプロセスを,ぼくは楽しんでいるのです。こうやって周囲の人に,その喜びを伝えること自体,実は結構楽しいことでもあるし,ぼくはそれを意識的に利用してもいるのです。利用するべきものはすべて利用する。お節介や他人の迷惑にならない限りにおいて。自分の弱さに目覚めた人なら意志の力になんて頼ったりしないと思うんです。
2003/02/28(Fri)
伝道者
やっちゃ駄目だといわれたことでも,自分でやって初めて学べることがある。というよりも,ある程度苦い経験をしないと学べない真実というのはあると思う。
『禁酒セラピー』には「禁酒を他人に勧めたくなるかもしれないが,どんなに時間をかけて話しても無駄だから,お酒をやめたいと思ってない人に禁酒の話はしないほうがいい」と書いてある。読んだときには頭では納得したのに,結局ぼくも,ほかの人に禁酒の論理を教えてあげたいという欲望に負けてしまった。まるでスタンダールの言うクリスタリザシオンのように,それは不可避的な心の変化だったんだと思う。
週末の大阪出張で一緒だったK氏はワイン大好きのワイン通。そのK氏が,あまりにぼくの禁酒の論理に簡単に同意してくれたのでちょっと驚いた。「いやお酒やめたんですよ」の一言で一瞬で興味を示して15分ほどであらかたの主張に同意してくれた。さすが文化相対主義を標榜して国際会議で議論を戦わせるような人だから,論点の整理も突っ込みも非常に鋭い。どこまで同意できて,どこが納得できないかを端的に切り返してくる。論理操作のイメージを共有しながら話している感じが強くする。「お酒をやめる」という結論に対して苦笑いしてたK氏も,個々の論点に同意した結果としておおむね結論の妥当性を認めてくれた。ぼくにしてみれば,どのポイントが弱点かも,非常によくわかった。
K氏の同意に気をよくしたぼくは「イケるかも! こうなったら伝道者になろう」と思って,お酒をやめた理由を,折伏せんばかりの勢いで次々に周囲に話してしまった。結果として,著者の言っていた「無駄だから」というのを認めなかった自分を馬鹿だったと思った。かなり疲れた。
中にはK氏のように,他人の好奇心や他人の論理にオープンで,同意さえすれば論理にしたがって自分の意見や生活を変えることを少しも厭わない人もいるけど,世の中のほとんどの人は変化などというものは求めていない。まして自分が楽しんでいるものを「やめるといいですよ」などと言われて聞く耳を持つ人は少数派。
人は変化なんて求めていない。外部からの押しつけには反発する。でもきっかけが押しつけだろうと何だろうと,自分で考えて同意して,それで自分が変化するなら,それは自発的な変化だし,厭うべき変化じゃない。そういう意味では,たとえ一見自分はとても同意できないということを主張する人の意見の中にでも,何か学べるものがあるのじゃないかと考えて,虚心坦懐に耳を傾けるというのはとても有効な戦略だと思うんだけどなぁ。
論理,あるいはモノの見方といってもいいけど,そういうもののステップ1つ1つに同意するか,あるいは同意しないかがすべてあって,なにも頭ごなしに「お酒をやめる」という結論を云々しているわけじゃない。1つでも同意できない部分があれば結論にも同意できない,それだけのこと。なのに,いきなり結論の部分に猛烈に反発するか,笑い飛ばす人ばかり。結論の過激さのために,個々の論点についてもともかく反発しなければ気が済まないという,ありがちな感性的な反応。個々の論点を独立して考えることがどうしてできなんだろうか。議論をブレイクダウンして個々の論点を独立したものとして扱い,認めるべきものは認め,1つずつ互いにステップを確認して進む,そういうのって議論の基本じゃないのかと思うんだけど。結論に同意できないというのは,論理を構成するプロセスか,条件のいずれかに同意できないから。どこが同意できないか,なぜできないか,どこが意見の相違でどこが情報の違いなのか,そういうのを互いに発見するということをしないと,議論する意味がない。価値観の違いとか,考え方の相違,立場を認めあう相対主義だなんていう口当たりのいい言葉が思考停止の言い訳になっている。
それまでお酒が大好きだった人が「一生お酒を飲まない」と主張しているという事実だけでも興味がわくことで,理由の1つも聞いてみたくなると思うんだけど,そうじゃない人も多いらしい。それとも,ぼくは何かイケナイ宗教に入信した馬鹿とでも思われてるんだろうか。
ぼくは人と話すことが好きなおしゃべりな性格だと思うけど,議論ぽいことになると,後悔してばかり。タバコの煙が嫌いな人はタバコを吸っている人に近い付いたりしないけど,ぼくがやってるのはそういう矛盾。議論をすれば消耗すると知っているのに,どうして議論してしまうんだろうか。話すということや考えるということについて,もっともっとぼくは考えた方がいいんだろう。
NISHIMURA Ken <nis@bigfoot.com>