the other side of my days
ご意見,ご感想,ごいちゃもんなどございましたら
NISHIMURA Ken <nis@bigfoot.com>まで。


2003/10/04(Sat) ほとんどデート
2003/10/05(Sun) 昔読んだ本
2003/10/06(Mon) シュー
2003/10/07(Tue) 視界50cm
2003/10/09(Thu) 同期会
2003/10/10(Fri) レット・ゴー
2003/10/11(Sat) 波長
2003/10/12(Sun) ギフト
2003/10/13(Mon) 日本の腐敗度は91カ国中21位
2003/10/14(Tue) ラム肉
2003/10/15(Wed) パッションは恥ずかしくない
2003/10/16(Thu) イメージと論理
2003/10/18(Sat) ウサギの目はなぜ赤いのか
2003/10/19(Sun) できないものはできない
2003/10/20(Mon) やけ食い
2003/10/21(Tue) 休む時間なんて死んでからいくらでもある
2003/10/24(Fri) Japanese


2003/10/04(Sat)

ほとんどデート

お昼にマイクと待ち合わせ。新宿で炭火で焼いてくれるハンバーガーを食べる。スタバでコーヒーをがぶがぶ飲みながらボーイズトーク。気づけば夜。中華を食べる。その間、ずっとしゃべってるわけだから、よく飽きもしないよなと思う。泳ぎに行くつもりがすっかりマイクと週末デート状態みたいになってしまった。
「まだ話すのは練習が必要だね」と言われるけど、やっぱり半日ずっと英語を使ったような日は、ぜんぜん言葉のでるスピードが違う。夜に海外の友達から電話があって驚いたけど、明らかにしゃべれる量とスピードが違う。やっぱり語学ってのは日々使うことが大切なんだ。

2003/10/05(Sun)

昔読んだ本

ショウペンハウエルの『自殺について』を拾い読み。確かに19歳のころに読んだはずなのだけど、まったく記憶に残っていない。改めて読んでみると、たいしておもしろくなくて、自殺を罪だとするのは、一神教のユダヤ教系の信者たちだけだけど、そんなアホな話あらへんで、ということを言ってるだけだった。
不思議なことに、仏教国であるはずの日本でも、自殺は現実から逃避する卑劣な行為というようなことを言う人が増えている気がする。
とうとう初めてブロードバンドルータというやつを買ってしまった。今まではLinuxをルータにしてたけど、やっぱりめんどうなことが多い。2時間かけてあれこれドキュメントを読んで設定ファイルをいじったりするより、いっそルータ買っちゃえよってこと。3980円だった。安すぎる……。

2003/10/06(Mon)

シュー

相変わらず甘いモノを食べることだけが1日の終わりの楽しみになっている。ぼくはどうもシューが好きらしい。「シューなんとか」という名前の食い物は、だいたい好きだ。で、シューってなにさ?

2003/10/07(Tue)

視界50cm

水着に着替えてから、ゴーグルを忘れたことに気づいた。水着とかキャップとかを忘れると、あきらめるしかないけど、ゴーグルなら、なくても何とかなる。と、思って泳いだら、ぜんぜん何も見えなくて驚いた。むかし、プールではゴーグルなしで泳ぐこともよくあったと思うんだけど、こんなんだったっけ。視界50cm。
カルキいっぱいのプールで裸眼を水にさらしすぎると、出社してから「どうしたの、その赤目?」と言われそうなので、なるべく目をつぶって泳ぐ。これが非常にむずかしい。クロールって、海で泳ぐとまっすぐ泳ぐのがほぼ不可能と言われてるけど、目をつぶっていてはプールでもまっすぐに泳ぐのはむずかしいらしい。プールサイドに足をぶつけたり、コースロープに手を突っ込んだり、急に手が壁にあたって驚いたりしながら、1km。
このところ距離が短い。過去5ヶ月で34km→25km→21km→19km→15kmと確実に距離が減っている。今月は、このペースだと12kmにしかならない。まずい。
ヒトラーだったっけか。その日いち日で片づけるべき問題を片づけて、心の中で、ひとつずつそれらの問題のスイッチを切っていく。すると、すぐに眠りが訪れる。そんなことを言ってる人がいた。そんなにうまくいく人って、世の中にどんぐらいいるんだろうか。切っても切っても、あっちのスイッチがオンになり、こっちのスイッチは切ろうにも切れないというのがふつうじゃないのか。ぼくのスイッチなんて、いくつかは煙が吹いてるぞ。

2003/10/09(Thu)

同期会

珍しく幹事などというものを名乗り出て同期会。同期入社組27人(ぐらいだよね、、、)のうち半数が集まるという規模は久しぶり。こぢんまりとメシでも、と思ってたのに、意外にも14人も集まった。みんな相変わらず。
10人ぐらい集まった段階で、ふと気づくと、独身なのはぼくとKの2人だけ。みんな結婚してしまったんだね、この何年かで。Kは、そのことをさびそうに言うけど、いいじゃん。独身は独身でさ。最近ふと気づいたんだけど、「婚姻」ってさ、「女が囚われる」と書くんだよ。いや、嘘つきました。因(ちなむ)ですね。でもね、英語だと「wedlock」って単語があるよ。やっぱり、結婚はlockなんだよ。そして独身はfreeなんだよ。うーむ。
23時に会社に戻って、ゲラ待ち。もう後はさっくりだろうと思ったのに朝8時までかかった。くたびれた。

2003/10/10(Fri)

レット・ゴー

いまだに、文法的にどう考えて良いのかわからない英語の慣用表現がある。そもそもぼくが聞き間違えてるだけの可能性もあるんだけど、それは「Just let go.」というふうに使われる。レッツゴーじゃなくて、レット・ゴー。もう何度も出会った表現なので、目的語をぼくが聞き漏らしているとは思えないし、いま改めてウェブで検索してみても、確かによく使われている。
意味的にも文法的にも、「Let it go」とか「Let it out」とかであるはずなのに目的語が欠けている。命令形だから主語のyouはもともと隠されているけど、目的語までが隠されるなんてあるんだろうか。使役の他動詞だったletが自動詞的になっている。いや、それだけじゃない。直後に原形不定詞が来てるわけだから、これはむしろ、現代米語のhelpとかgoと同じ語法に整理しようという心理の現れじゃないだろうか。
で、レット・ゴーはどういう時に使うかというと、たとえば誰かが何か感情を抑えてたり、言わずに心にしまっているようなものがあるときに、そういうものを「出しちゃいなよ」と語りかけるようなシチュエーション。「無理しなくていいじゃん」というのにも近いのかもしれない。レット・ゴーは「解き放つ」「(止めるのをやめて)行かせてやる」という感じ。手綱を緩めるとかというのも、レット・ゴーだと思う。
ここ2週間ぐらい、ぼくは自分自身に対してずっとレット・ゴーと語りかけている。ずっと長らく抑えていた何かを「そのまま出してもいいんだ」と思い始めている。

2003/10/11(Sat)

波長

お昼にマイク、ユカさんと新宿で待ち合わせ。いつものインディアンを食べ、いつものスタバでコーヒーを飲む。長話。ここのところ、週末はゆっくりとコーヒーを飲みながら誰かと話をしていることが多い。新しい職場に移ってから週末が週末らしくなったと思う。週末に、仕事がゼロで、さらに仕事に関する心配事がゼロなんて、そんな人生もあるんだ。
夜、ラーメン。新宿武蔵の1時間半の待ち行列が馬鹿らしいので、対面にある蒙古タンメン中本新宿へ。ぼくは辛いモノジャンキーを自称するぐらいだったので、北極ラーメンという一番辛いのを注文。これ、やりすぎですよ。いや、ぼくの辛さ耐性がさがってるのかもしれないけど、ただ辛いという以外に何の感想もなし。
News Deliの軒先のテーブルに陣取り、まったりと長話。夜更けに降り出した小雨で、ちょっと肌寒くはあったけど、リラックスタイム。
どうしちゃったのというほど、マイクがよく話す。話題によって、隣に座っているユカさんとの間に微妙な波長が行き来しているのがわかる。伏し目がちなユカさんの表情が、ときどき「あれ? 何よそれ。あたしへの当てつけ?」と言っている。そうかと思うと、ぼくにはよくわからないタイミングで波長のシンクロがはじまって、2人が笑い出したりする。あぁ、sweetだなと思う。あぁ、なるほどなと思った。

2003/10/12(Sun)

ギフト

Amazon.comで岡倉天心の『茶の本』を検索すると、アメリカ人もイギリス人もかなり好意的な感想を書いているのがわかる。他人がほめると自分はけなしたくなるという悪い癖で、ぼくは、どうせ「ゆがんだオリエンタリズムに酔いしれる欧米人」が大げさな感想を述べているだけだろうと思った。でも実際に読んでみたら、これはぼくの大間違いだった。欧米人以上に、ぼくは酔いしれてしまった。
『Gifted GROWNUPS---The mixed blessings of extraordinary potential』(Marylou Kelly Streznewski,John Wiley&Sons)、読了。この本も、Amazonに寄せられた感想を見ると、「この本の中に、自分の姿を何度も認めざるを得なかった」とか、「この本を読んで、どうして自分がこうであるのか納得ができた」というようなことが書いてある。「ああ、なんだかヤな感じ」、と思った。思いながらも、もしかして、と手に取った。結果は茶の本と同じく、いい意味で裏切られた。ぼくが心の奥底に沈めてしまって、自分でも気づかないようにしていた思いを代弁してズバリといいのけてくれるような言葉にたくさん出会えた。
章立てになってはいるものの、基本的には多数のインタビューを年齢別にまとめただけというような本。下は18歳から上は90歳まで、全米でふつうに暮らす100人がインタビュー対象。学生、ビジネスマン、学者、医者、弁護士、犯罪者と、さまざまな社会階層、職業、年齢の人に、彼らの人生について話を聞く。彼らは著者が言うところの「gifted」な人たち。
著者は肝心のgiftedに明確な定義を与えていない。IQテストを最初に開発したビネーの昔から、一般にはIQテストで130を越える人たちが「gifted」と分類されるけど、この著者はgiftedを示す特徴として「IQテストで130以上をマークするかもしれないし、そうじゃないかもしれない」と書いている。むしろ、飽くことのない好奇心、過剰とも見える活動エネルギー、鋭い五感と感受性、ユーモアのセンス、異なる複雑な概念を結びつける抽象的思考能力、理解の速さと深さ、揺れ幅の大きな感情なんてことを、giftedであることのサインだと言うにとどまっている。ほかに、いたずら好き、チャレンジ好きで、本の虫であることが多いなんてことも、gifted peopleに共通してみられる傾向だと言っている。
周囲のほとんどの人より頭の回転が速い人々は、「ほかの人と違う」という事実によって、何十年かの人生を生きるなかで、ふつうの人と違った困難さに出会い、とまどうという。学校、学業、デート、友達選び、キャリア、仕事、結婚、家族、老後。
学校に恨み言を言わない人は、まれ。ほとんど全員が口をそろえて言う。「学校は死にそうに退屈だった」。ところが、IQの高い人には高校でドロップアウトする人が、平均的なIQの人より3倍も多いというデータがあったりする。「なんでそうなっちゃったかわかんないけど、あるとき落ちこぼれたんだよ。たぶん興味をなくしちゃったのかな。子どものころはすごく勉強ができたんだけど」。
30代という年齢の章が、とうぜん今のぼくには一番気になる。結婚、パートナー選び。キャリア選択。
周囲と違うというとき、それはたいていはネガティブに捉えられるし、多くの女性にとっては大きなプレッシャーにもなりうる。54歳の女性の印象的な言葉が、この本の見返しに引用されている。「周囲はみんな私のことを頭がいいと言ったの。泣いたわよ。私はね、セクシーになりたかったし、女っぽくありたかったのよ!」。男は自分より頭のいい女性に出会うと、気後れして、たいてい逃げ出してしまう。
結婚式の3週間前に婚約者を棄てた30歳の男は、こう言っている。「自分がとてつもなくヒドイ男に思えたよ。ぼくは、彼女を深く傷つけてしまったってことを一生背負って生きていくんだと思う。彼女は本当にかわいい女性だったよ。でも、、、、彼女は本を読まない人だったんだ! ぼくが何か本を読み終わって、興奮ぎみに彼女にその本の話をしようとしても、彼女はただ読書なんてつまらないって言うだけだったんだ。ぼくはそんなふうにして、これからの人生をずっと生きていくなんてできなかったんだよ。婚約者が読書をしないから結婚の話をぶちこわしたなんて、そんなこと、人に言えると思う? みんなおまえは気でも狂ったのかって言うだけだよ!」。
森を愛し、自然に学び、自然の中で暮らす30代のある女性は、こう言っている。「私は彼のことを心から愛していたと思う。自然への憧憬は共有していたし、2人ともアウトドア派だったから。けど、ろうそくをともして、ロマンティックな夕食をともにするようなとき、樹木や野鳥の話をひととおり終えてしまうと、私たちには何も話すことが残ってなかったの。彼は、私と違ってあまり本を読まない人だった。でも、私は知的な会話に飢えていたのよ。だから、私は、彼の元を去るよりほかなかったの」。
30代なかばの女性は、こう言っている。「デートに誘われるでしょ。バーに腰掛けて少し話し始めると、もうこんなふうに考え始めてるのよ。ああ、どうやってもう会わないほうがいいって切り出せばいいんだろう。どうやれば、あなたの話、悪いけどつまらないのよと言わずに済むんだろうって」。
「誰かを傷つけてしまって、そのことで自責の念にさいなまれるのはもうコリゴリなの。だから今では最初からスクリーニングするようにしているの。死刑制度についてどう思うかと聞けば、その人と、どういう話ができるかたいていわかるわよ」、と言う女性もいる。
……。まあ、いろんな話があるけど、この本、けっこう貴重かも。著者の見解や提言にはたいして見るところがないと思うけど、「なんだ、ぼくだけがこんなふうじゃなかったのか」と思えるという意味では、ほかにない証言集。で、ぼくは人生の重要な謎がひとつ解けたような気がしている。それほど重要じゃないけど、非常にイライラする問題の数々についても、あれこれ解決の糸口が見えた気がする。

2003/10/13(Mon)

日本の腐敗度は91カ国中21位

『世界の汚職日本の汚職』(石井陽一,平凡社) 、読了。ロッキードだウォーターゲートだといった個別の歴史的汚職事件について書かれた本はゴマンとある。特定業界の腐敗を告発するような本もある。ところが意外にも、有史以来あらゆる社会を通して共通するこの病理を、普遍的な形で体系的に概観するような一般向けの本というのは少ないらしい。Amazonを検索して発見できたのは、ほとんどこの本ぐらい。別に体系的、学問的に論じた本が読みたいというほどじゃなく、ぼくの場合、しょせんは汚職に関するトリビア「20へぇ×10個」を求めてるぐらいだからいいんだけど。
文献に残る世界最古の汚職は? それはエジプト文明。第一王朝時代のアナディブ王のヒエログリフ文献に記録があるそうです。紀元前3000〜2900年ごろのことで、徴税に権限をもった文官が、ある地方の租税の一部を着服し、それを高位の官職を得るための賄賂として王の側近に送ったことがバレて処刑され、ナイル川に流されたとあるらしい。いや、全然嘘です。そんなことは書かれてません。
この本は現代のことしか書かれていない。各国の政治腐敗状況、ODAや開発支援の国際入札における贈収賄、オリンピック、サッカーW杯の利権がらみのどろどろ、途上国の路上で日常的に発生している路上汚職、そういった話。いちばんの驚きは、ODAがらみの汚職ってみんな白昼堂々とやってるってこと。ああ、新聞読もうぜ。ぼくは世間知らずだなと思う。国内での汚職や贈収賄に関する法律はあっても、たとえば開発援助の入札時に賄賂を送ったところで、それは処罰の対象になりづらい。で、それじゃイカンということで、ようやく、最近OECD加盟国間で「海外での汚職についても、それぞれその国内法で訴追しようやないか」という条約が批准された。まだ「みんなイカサマなしで勝負しようぜ」といい始めたというぐらいの段階なわけだ。シーメンスも三菱商事も伝統的に汚れてるんだ。ODAがらみの汚職は、何も途上国側の政官だけの問題じゃない。
もうひとつ意外だったのは、各国の地下経済の規模。日本ではGDPのわずか3.3%という試算があるらしい。ラテンアメリカの50%(経済の半分は闇経済!)やアジア諸国の47%なんてのは論外としても、OECD加盟諸国ですら平均16%というから、日本の地下経済は非常に規模が小さいことがわかる。
裏経済に絡んでめまいがしたのが、南米で「まっとうな商売をやる」ことの難しさ。
路上で警察官が日常的に賄賂を受け取っている理由のひとつは、そもそも賃金が安すぎて、そういう副収入がないと生活が成り立たないからという事情があるという。日本で路上汚職が極端に少ないのは、日本が豊かだから。たかが数万円のために免職のリスクを犯すような役人や警察官がいない。職業的プライドだけが理由じゃない。で、同じような話で、南米で経済の半分が地下に潜り込んでいるのは、表の経済や行政システムが、あまりに不合理だからということ。たとえば、田舎から都会にでて、ちょっと何か商売でモノを売ろうとすると関連省庁に申し出て各種の認可を受けたり、登録したりしなけばならない。その許認可取得プロセスというのは、ほとんどカフカ的世界で、関係する手続きが膨大で下手すると2年も3年もかかったりするという。その間、あちこちで賄賂を要求されるわけだから、とてもじゃないけど、正当なルートで商売を始めることなんてできない、ということになる。結果、誰もが認可なしで商売を始めることになる。やりたくて違法行為をしているわけではなくて、ただふつうに生きるために、極貧のなかでたくましく生きるために、不条理なシステムを無視しているだけ。
透明化インターナショナルによると、日本は透明化中進国。先進国では、北欧とニュージーランド、オーストラリアあたりが極端にクリーンである以外は、けっこう似たり寄ったりの腐敗指数という評価になっている。アメリカ人のマイクはよく、「日本の腐敗はヒドイ」と言っているけど、実際にはアメリカの透明度指数は7.79(15位)、日本のそれは6.72(21位)と、その違いは目くそ鼻くそと言って差し支えない。先進国中の例外はイタリアの2.99ポイントとか。イタリアはマフィアを温存した歴史が長くて、確かに政治家にも血なまぐさく金まみれの印象はあるけど、それより何より「イタリアって先進国だったの?」という疑問もある。
最近の日本で問題になっているのは、内部告発や自浄作用の欠如だろうと思う。これはスウェーデン発祥のオンブズマン制や、告発者の権利を守る法整備でずいぶんよくなるんじゃないかというのが著者の提言。
南米は汚職天国、いや地獄。そのなかで、チリやコスタリカは例外的にクリーン。で、実はクリーンな国ほど、貧富の格差が小さく、国際競争力も高いという相関が見られる。迂遠に見えても、クリーン度を高めて透明性の高いビジネス、政治を行うことが、結局は国益にかなう。と、これは当然の帰結のような気もするけど。
あ、その透明度指数の一覧表が気になる人もいるかもしれません。最新の調査結果は、Transparency Internationalの、ここのページにあります。2003年10月7日(って1週間前か)にリリースされた調査結果で、133カ国が対象になってるようです。途上国の9割は、直ちに具体的な策を講じないとまずいとレポートは指摘している。
資本主義市場の登場に、「互いが互いの債権を、権力や暴力で不当に踏みにじったりしない」という社会的信頼の輪が必要だったという話がある。ぼくらは自明だと思ってるけど、ずっと昔はそんなことはなくて、商取引の安定性というのは歴史的にじょじょに浸透したもの。同様に、グローバルなビジネスや政治についても、クリーンでルールに乗っ取ったやり方でやっていくのが、結局全員の利得にかなうのだと気づいて、ルールづくりをした時点で、だんだんと安定していくんじゃないだろうか。人間は、いつまでも矛盾や非効率を放っておけるほどバカじゃない、と思うのは楽観的すぎるんだろうか。

2003/10/14(Tue)

ラム肉

ばたばた仕事を始める週明け。これだけは絶対に、という仕事だけ片づけて夕方は定例飲み会へ。いつもの例からするとやけに集合時間の早いヨーカ会。淡路町18時スタート。ラム肉のしゃぶしゃぶ。ちゃんと時間通り集まってる常連メンツ。ややびっくり。「なんだやればできるやんか」とか。でも「いや、いまごろ編集会議がですね……」とか不安なことを言うUさん。大丈夫か、*経ク**ク。
Uさんの知りあいのKさんとOさんが新参加。ぼくの友達としてマイクも参加。長らくメンツが固定されてたヨーカ会に、珍しくメンバー増員の気配。
22時過ぎに会社に戻って、またばたばたと仕事。ぎりぎりで終電アウト。ああ、雨が恨めしい。
『自殺について』(ショウペンハウエル,斉藤信治訳,岩波書店)、読了。「人間の生涯とは、希望に欺かれて死のかいなにとびこむことにほかならない」と、老境に達したこの厭世哲学者は言う。人生とは「裏切られた希望、挫折させらた目論見、それと気づいたときにはもう遅すぎる過ちの連続にほかならない」。なんか「あなたは死んだら地獄に堕ちるんですよ」的な、くらーい話だな。しかし、このおじいさんの話は皮肉っぽくはあっても惨めっぽくないのはなぜだろう。だって人生ってそうなんだからさと、突き放してるだけ。
ぼくらは「死」というものを、自己という存在が破壊されてしまう出来事のように感じるけれども、それは時間という認識形式がもたらす誤謬である、と。むー……。ショウペンハウエルは1860年没というから、まだアインシュタインの相対論って影も形もないはずだけど、ここにある認識って、時間を空間軸と同等に見る相対論的な見方じゃないのかしら。相対論的な宇宙は、歴史を持たない。それはただ存在しているだけ。同様に、人間の肉体的、精神的存在は確かに時間の流れの中で見ると、始まりと終わりがあるように思えるけど、そこに存在している宇宙の中で考えると、それはある時空の領域をしめるひとつの事象にすぎない。
あまりに時代が違いすぎて、ショウペンハウエルの持つ現代的意味というのがよくわからないけど、何か引きつけられる論点がいくつもある気がする。とはいえ、じゃあ『意志と表象としての世界』を読むかと言われたらしりごみするわけで。
そもそもぼくの生活に哲学なんて必要かと言えば、まったくそんなことはなくて、シュークリームでも食って早寝したほうがよっぽどいいんじゃなかろうか。

2003/10/15(Wed)

パッションは恥ずかしくない

せわしない日々。まったくせわしない。「週末が完全なる休日」というのが早くも崩れそう。なんか、そりゃねぇだろ的な仕事の増え方してるなぁ。
「こんど時間ができたら」という例のあの決まり文句ありますよね。あれ、みんな使うけど、あの「時間」ってやつ、東京だとどのへんに行くと売ってるか知ってますか? いやね、あれ、売ってないんだってね、どこにも。みんな知ってた? どうりで時間が足りないわけだ。ノルウェイあたりだと「時間」は売ってたりしますかね。
夕方、会社を抜け出して食事へ。
かつてお世話になった元上司のNさんと飯田橋で待ち合わせてタイ料理「ロティー」へ。Nさんもぼくも、それぞれすぐに会社に戻らないといけない「ご多忙モード」。だから、料理がテーブルに並ぶ前には、もうすでにぼくはマシンガンのようにしゃべり始めてしまう。久闊を除するなんていう優雅なものじゃなく、過去5カ月分を一気に話す。もうあまり話したくない過去の話だけど、本当のところNさんのような人の意見が聞きたい話。だから、話出したらぼくは止まらなくなった。
ほとんど一口も食べずに、しゃべる、しゃべる。Nさんのコメントと「それで?」に誘われるように、しゃべるしゃべる。ぼくがトムヤム味の名前のわからない貝料理を黙々と食べ始めると、今度はビールでやや饒舌になったNさんが、今のぼくの会社のこと、今のNさんの会社のこと、仕事のこと、業界のこと、将来の仕事像のこと、本のことを語り始める。NさんはNさんで、少し何かに取り憑かれたかのように話す。
確かにタイ料理はおいしかった気がするけど、2人とも料理そっちのけで話してた気がする。まるで、短時間の逢瀬でむさぼるように愛し合う恋人のように……。いや……、いや……、ぼくはホモっけあるかな、やっぱり。
「パッションだよ。熱意を持って仕事をすることが恥ずかしい時代じゃないんだよ」とNさん。「そろそろキミは何かアウトプットする年齢なんだよ。チャンスも才能もあるのに、なぜ何もしないんだ。そんな仕事でいいの? それがやりたいことなの?」と、ここのところ会うたびに言われるお説教。買いかぶってくれている人の話は、耳に逆らうところはないけど、どうもぼくにはわからない。ぼくには何かが欠けている。確かにパッションかもしれない。意志や欲望かもしれない。
また1冊、Nさんが最近手がけたという本をいただく。

2003/10/16(Thu)

イメージと論理

ちょっと早起きしてプールへ。1200m。今月はぜんぜん泳いでいない。このままじゃやばい。目に見えて腕と胸の筋肉が落ちている。人間の身体ってわかりやすいな。
『ジェスチャー---考えるからだ』(喜多壮太郎,金子書房)、読了。ジェスチャー研究の歴史ってたかだか40年の話で、特にここ20年ほどの理論的発展にはめざましいものがあるらしい。いくつも仮説を立て、実験をし、分析し、理論を構築していくというサイクルの20年分を一気に200ページで読める、おもしろい本。タイトルも装丁も地味な本だけど、めちゃくちゃおもしろい。人はなぜジェスチャーをするのか。
ふつう、ジェスチャーは発話を補完するコミュニケーションの一種だと、ぼくらはそう素朴に感じている。でも、よくよくジェスチャーと発話の同期の仕方、あるいは同期のずれを観察してみると、ジェスチャーというのはぼくらの持っている常識的な見方と全然ちがった役割を担っていることが見いだされる。
ジェスチャーは相手に何かを伝える働きだけを持っているのではない。相手と視覚的環境を共有していないシチュエーションにもジェスチャーは見られる。これはぼくらがジェスチャーというものを、他人に伝えるためというより、自分のために何かをしている証拠。ジェスチャーには「自己指向性」という側面がある。おもしろいのは、これの研究。なぜなら、ジェスチャーというのは、思考というのもがどうやって心の中に生まれ、いかに言語化され、どういう処理を経て外部へでてくるのかという心のシステムの全体像に迫る重要なピースであるから。
ジェスチャーというのは、言語という分析的な思考様式とは異なる、イメージや身体感覚に根ざした思考の外化だという。このふたつは、独立したモジュールであるものの、思考という大きなシステムのなかで統合されてもいる。言語的、非言語的思考は、「種」となるひとつの心象イメージからそれぞれ別々に生み出される。このとき、このふたつのプロセスは、対等に、互いにフィードバックを与えあう。両者は互いにせめぎ合い、言語的表現と非言語的表現とで落としどころを決める。ジェスチャーを無理に抑制されると、ぼくらは言葉が詰まる。道を尋ねられて、「右へ」と言うとき、ぼくらは右手を使っている。ブランコの動きを描写するときには、ぼくらの手は円弧を描く。ところが、円弧の往復運動を言い表す動詞は、英語ならswingとヒトコトで言えるのに、日本語には特にない。その影響で、日本語話者と英語話者でジェスチャーを比較すると、日本人はブランコの動きを直線の往復運動としてジェスチャーにする様子がより頻繁に観察されたりする。
言語こそ思考である、言語なくして思考なしとしたサピア=ウォーフ仮説を、ぼくはどこかで真に受けて「言語の形をしていなければ、それは思考ではない」とまで感じてたけど、そんなことはない。言語に乗りづらい非言語的、イメージ的思考は、身体のイメージの助けを使って行われる。ぼくらは、身体でも考えている。
人間は、環境から情報を受け取り、それを加工して出力してるわけだから、その処理が外界の物理的世界やおのれの身体性に強く依存していると考えるほうが自然なんだ、きっと。どれほど抽象的な論理にでも質量、ものの順位、変化、変形、移動といった空間的な情報処理は欠かせない。

2003/10/18(Sat)

ウサギの目はなぜ赤いのか

秋葉に買い物へ。久しぶりに自作系のショップをあさる。いや、楽しいもんだ。会社のお金で小物を大量に買い込む。「磁石つきじゃないドライバを探してるんですが」という買い物をいぶかる店員。わざわざ磁石なしっていう指定をした客はたぶんぼくが初めてなんだろうな。「磁石のついてないドライバでも、先端にスティックのりをちょっとつければ、ほらネジがいいアンバイにくっついて、ネジ止めも楽々」という文脈だから、どうしても磁石なしのドライバでないとイケナイ。ところが秋葉のその手の店は玄人っぽいものしか扱ってない。説明するのも面倒なので、「いや、磁石なしの安っぽいヤツで、その新品がほしいんですが」と続けるぼく。
AKIBAスペースという場所を取材。秋葉で買い物したパソコンユーザーに、1時間500〜600円でスペースや必要な機材をレンタルして、その場で初期不良や相性などといった問題をテストさせてくれるサービス。経営してるのは、ぼくとたぶん年齢のかわらない週末起業家の、Wさん。出版系の仕事で月−金で仕事して、週末だけAKIBAスペースを経営してるんだとか。「じゃあ、休みなしですね」と当たり前のことを聞いたら、「いや、もうここの開店準備でずっと休みなしですよ」と笑ってた。楽しいんだろうな。ぼくが行ったときには、お客さん来てなかったけど、うまく商売が軌道に乗るといいですね、と思いながら写真を撮る。
大量に買い込んだ荷物を会社へ置きに行ってから千駄ヶ谷のプールへ。またやってしまった。ゴーグル忘れ。で、やっぱりコースロープに手を突っ込んで軽く突き指。突き指って、最後にやったの中学生ぐらいじゃないかと思うんだけど、子どもってどうしてあんなにしょちゅう突き指してるんだろうか。いや、大人はどうして突き指しないかと問うべきだろうか。
だいたい30分ぐらい、1500mを超えると明らかに身体のモードが切り替わって、いわゆるランナーズハイになる。その状態になると、ほとんど目をつぶったままでも安定して泳げるということを発見。むしろ目をつぶって泳いでみると、自分の姿勢とバランスのイメージに意識が集中するので、練習になるのかもとか思った。
1時間で目が真っ赤っか。あまりに真っ赤。
そういえば、ウサギの目はなんで赤いだっけ。と、考え出したら気になって眠れそうにないので、Googleで検索してみた。かつてぼくの知り合いに「空はなぜ青いの?」という質問に答えてくれる全知識データベースを作ることが夢だと言ってたヒトがいたけど、いまやGoogleはそれに近づきつつある。
と、思ったら、ウサギの目の赤い理由は見つけられなかった……。インターネットも、まだまだだな。なんだっけ、なんだっけ。Wikipedia.comならでてくるかと思ったけど、こっちもそれらしい記述はない。誰か知ってたら教えて。
そうそう、ちょっと前の日記に「で、シューって一体なんなのさ」と書いたら、教えてくれたヒトがいました。シューはフランス語でキャベツだそうです。エクレアは稲妻を意味するフランス語で、その心は「稲妻のように速く食べないとクリームがこぼれてしまう」というのが一説とか。ティラミスはイタリア語で、pick-me-upだそうです。愛らしいネーミングじゃないですか。
元上司のNさんにもらった、『会議力』(奥出直人,平凡社)、読了。「出るも地獄、出ざるも地獄。そんな、あなたの会議ニヒリズム、この本読めば克服できます」と帯にある。いいな、この日本のサラリーマンの95%ぐらいが抱いている心情をずばりと名指しする「会議ニヒリズム」って言葉が。
会議を生産的にするポイントは、会議の運営上でのテクニックなどになく、会議に至るまでの知的生産の仕事のサイクル全体をどうデザインするかにかかっている、という。この本は、会議力というタイトルがついてはいるけど、いかに仕事のフローをデザインし、どうやって多人数でコラボレーションするかという話が軸にある。会議は、あくまでその中のひとつのイベントで、仕事の進め方を正しくすれば、自然と会議はよくなるもの、という。
「よい会議とは、会議がはじまる前に全員が議論に必要な情報は共有し、その上で話し合いをし、新しいことを決め、会議が終わったらすぐにその議事録が出てくるものだ。」
いや、まったくそのとおり。これは別の本に書いてあったことだけど、いやしくも会議を生産的な場にしようと思う熱血サラリーマンなら、会議の前に資料はすべて回覧し、周知徹底し、メールで論点を洗い出すぐらいのことはやっておくべきだ。実際に会って話すのは、メールベースでの議論ではインタラクションのサイクルが間遠すぎて話にならなくなる、一番最後の段階だけに限定するべき。
で、この本はメール、それもメーリングリストを中心とした仕事のスタイルを提案している。現状、確かに下手なグループウェアを入れるよりも、「とりあえず関係者で例のプロジェクトのメーリングリスト作りましたから」ということをやるほうが、はるかに情報の共有がうまくいく、というのはぼくの実感としてもある。逆にいえば、ちょっと今さらな指摘という気も少しする。ぼくはPCのツールは、きわめて行き止まり的状況に陥っていると思ってて、タイプライタの登場や、電話の登場、メールの登場が仕事のスタイルをそれぞれ一変させたような変化が、向こう数年でもう1度起こってもおかしくないと思っている。だって、産業革命以上の速度で変化してる時代ですよ。だって、マイクロソフトみたいな創造性のかけらもない会社が世界のデスクトップを制覇している暗黒時代ですよ。たとえば、この本にはOutlookExpressやBecky!といったメーラの振り分け機能をどう使え、なんてことが書いてあるけど、それは非常に些末な問題というふうにぼくには感じられる。たとえば、Operaのバージョン7に搭載された「M2」というメーラは、電子メールというものについてぼくらが持っている概念を吹っ飛ばしてしまうぐらい画期的なものだけど、そういうものが半年レベルで普及してしまい、「昨日までそれなしで生きていたのが信じられない」と、そういうことが起こる可能性がある世界なわけですよね。
で、プロジェクトマネージメントの方法論を歴史的に振り返る章がおもしろい。この章にかぎらず、梅棹忠夫やらKJ法やらといった、ぼくが生まれる前にブームになったような話に始まり、バネバーブッシュやらマクルーハンやらが出てくる変わった本だけど、この章だけ独立して本にしたほうがむしろ良かったんじゃないかと思ってしまった。1900年代前半からアメリカで起こったOA化の歴史と、それにともなって生まれた大量の事務処理、その事務処理をこなす新しい労働階級ホワイトカラー層の登場なんてあたりの話が、ぼくにはとてもおもしろい。下手なビジネス書より、この本の文献リストに出てくる歴史的名著を通読したほうがいいのは間違いない。
最近やたらと日本でもプロジェクトマネージメントという言葉がブームになっていて、何か「アイソイチマル何とか」のチャートを使ってクリティカルパスをホゲホゲすると、うちの会社も効率的になってプロフィットもアップ! みたいな話があるわけだけど、PMというものの歴史は古くて、それはエジプトのピラミッド建設の時代にまでさかのぼる。まともなPMなしにピラミッドは完成をみなかったはずだろうという意味で。
探検家や冒険家は、まさに近代的プロジェクトマネージメントの先駆的存在であったから、いまだに経営学の書として冒険家の本が読まれてるなんて話もあるのだとか。PM的ツールや方法論は私企業よりも軍隊で発達した。空爆の精度を高めるだとか、史上最大のプロジェクト、原爆づくりのマンハッタン計画なんかも、膨大なリソースをひとつの目標に向けて束ねていくという近代的PMツールが成し遂げたマイルストーンとも言えるんだとか。
最後の章で、「これから21世紀の仕事のスタイルはどうなっていくのか」ということが提言とともにいろいろと示唆されている。まるで、いつも元上司のNさんと話していることが文章になっているような気がした。そもそも企業は何のために存在しているのか。そこまで立ち返って考えるというのは、『会社はこれからどうなるのか』と同じスタンス。Nさんは、「ずっと、そういうスタンスで考えて本を作ってるよ」と言ってたけど、本当に。

2003/10/19(Sun)

できないものはできない

秋晴れ! バイクが気持ちいい。でも、向かう先は撮影スタジオ……。なんだってこんな天気の良い日に、昼間っから穴蔵みたいなところで仕事なんだ。
ハンズへ立ち寄って、撮影用のドライバと工具箱を購入。ネジ山が削れてバカになったときに使うネジ止め液を探してるんですがと売場のおじさんに聞いたら、「お客さんね、そもそもお持ちのドライバがまちがいなんですよ」と、ぼくが手にしていたドライバを奪って、1号、2号、3号というドライバの規格のレクチャーを始めてくれた。おもろいオッサンや! 調子にのって、山が崩れてしまったネジを強引に抜き取る最終兵器というのを見せてもらった。何だと思いますか。ドリルで削るっすよ。2000円でドリルが買えるっすよ。で、ふつうの右巻きと逆の、左巻きのネジを強引に挟み込む。その逆巻きのネジはテーパー構造という先細りになってて、ぐいぐい入れれば入れるほど、下のネジは持ち上がるという仕組み。おおぉ。ハンズはおもしろいなぁ。
殺虫剤のノズルを使うと、曲がってしまったCPUの足をいい感じに直せる。というわけで、殺虫剤をあちこちのコンビニで物色。いま売れてるのは、ゴキジェットとキンチョールらしい。というか、どこもそれしかおいてない。どっちもノズルがあんまりCPUの足に適してない。いまのノズルって発達しすぎてて穴が小さいんだね。霧状に拡散するようになってるのか。
爪を切っとくんだったなぁと思いながら、自ら手タレとなって撮影。やや腰を痛めながら、重たいディスプレイやケースと格闘すること9時間。50点撮るのに9時間もかかってしまった。カメラマンもすっかりくたびれ顔。
床一面にとっちらかったCPU、メモリ、マザーボード、パーツ類、グッズ、ネジ、ケーブル、それらの梱包ケースや袋に呆然。なんだかイヤになって、全部流し込むように袋に流し入れてしまう。
深夜の誰もいない編集部で関係者にメール。この会社に入って2度目の弱音メール。1度目は体力的にも精神的にもくたびれきって、もうどうしようもなくて書いた本当の弱音メールだったけど、今回は淡々と「やんなっちゃいましたよ、仕事減らしてくださいよ」というメール。仕事内容と所要時間を改めてリストアップしてみたら、確かに時間が足りていない。隔週で特集やれば働き者だって言ったのに、10週間で7週も特集やってるし。話を聞いたら、どうもそんなペースで特集を量産してるのって、ぼくだけやんか。1日9時間以上仕事やる気ないって正直に書いてしまった。できないものはできない。それでもやれっていうなら考えるけど、まあ残業代か、休日手当か出せって話だよね。もともとやんなっちゃうぐらいぼくの給料なんて安いのに。たぶん今度こそ会社やめるな。今や仕事内容の9割は猿仕事だし(キャリア10年にして読者プレゼントの発送をしこしこやってるのだ!)、本当にぼくは時間を浪費してる気がしてならない。
いや、ホントは時間がどうこうとか、給料とか、そんな次元の話じゃないんだよな。Nさんが言ったとおり、ただ時間労働という見方で仕事を考えるなら、うちの会社なんて、まず最悪の居場所なんだ。

2003/10/20(Mon)

やけ食い

今年流行の風邪とかけて、結婚3年目ととく。その心は? 「熱は冷めてもセキは抜けない」。
会社に行くなり「あの、西村さん……」とボスが席にやってきた。どういう反応が来るかちょっとどきどきしつつゆっくり振り返ると、ぼくが日曜深夜に書いたメールの打ち出しに目を落としながら、そうでなくともヒトの良さそうなSさんは、いつも以上に丁寧な口調で言った。「いや、なんて言うか、西村さんこれね……。申し訳なかったです。ビックリしましたよ、これ。特集はね、3週に1度の担当になるようにしてるんですけど、たまに、連続しちゃったりするんですよ。でも、10週で7本はひどいですよね。めちゃくちゃです」。
めちゃくちゃだよ。この会社にはマネージメントなんて発想はなくて、要するに「オレは忙しい」という顔をするか、言うかしない限り、パンクするまでやらせる会社だ。ぼくは涼しい顔をしてさっさと退社してちゃいけないってわけだ。前の部署に比べれば遙かにマシだけど、しょせんは同じ会社、同じカルチャー、同じ理不尽さ。
「めちゃくちゃですよね」という上司にたいして、「いや、まあ何とかなるかとは思うんですが」と、ぼくは必要以上に愛想良くニコニコしちゃったりする。もうホントにぼくは救いようがないな、と自分でも思う。
ヒトが1やる猿仕事を、2やったところで偉くもないし、誰も見てもいないし、誰も評価もしない。もう絶対に仕事、ぜんぶ断ってやるぞ。いつまでもぼくが何でもやると思ってたら、大間違いだぞ! と心の中で叫びつつ、やっぱり今日も企画を次々と出してやけくそ気味にプレゼン。適度な忙しさはヒトを高揚させるもの。「お、ニシムラ死ぬまで仕事する気か(笑)。えらいぞ」と編集長。「死ぬほどやるので死ぬほど給料ください」と、やっぱりそういうふうに言うべきだったんだ、あのタイミングで。
むしろ、死ぬほど仕事したい気がする。どうすれば仕事にやりがいがもてるだろうか。やっぱりこの仕事じゃないのか。
シュークリームのやけ食いでもするしかない夜。

2003/10/21(Tue)

休む時間なんて死んでからいくらでもある

流浪の天才数学者エルデシュの伝記『The Man Who Loved Only Numbers』を読み始める。「数学者というのは、コーヒーを定理に変換する機械だ」「休む時間なんて死んでからいくらでもある」と言い切り、休む間もなくカフェインとアンフェタミンをたっぷり摂って、ただただ数学の美だけを追い続けた生涯。エルデシュは、生涯ずっと家族も持たず、家も持たず、ただスーツケースにいっぱいのノートと論文たけを携えて世界の大学、世界の数学者の家々を訪ねてまわった。
生涯で1475本の優れた論文を単独、または共同研究で発表するという数学史上まったく比類のない膨大な業績を残した奇人だけど、この人は本当に愛すべき人だ。そのエネルギー、その世界観、ユーモア。余分なお金も数学上のアイデアも、惜しげもなく他人に分け与え、ただひたすらに数学の美を求めた。
文豪スタンダールの墓碑には「彼は生きた。彼は愛した。彼は書いた」とキザなことが書かれてるけど、こういう衒いは見る方が恥ずかしくなるようなところがある。でも、エルデシュのお墓に、「彼は計算した。彼は証明した。彼は発見した」と書いてあったとしても、少しの誇張もないと言えそうだ。本当に数学以外のいっさいに屈託がなかったらしい。
エルデシュと言えば、「エルデシュ数」。
ふつう数学者というのは、どんなに一流の人でも「自分が一番に発見した」という業績に、ものすごくこだわる。ところが、エルデシュは、数学の問題を自分が解くか、他人が解くかにはおかまいなしだった。それは神によって書かれた本を解読する作業で、誰がやろうとかまわない。ただ、彼は問題を自分か、誰かが解くのを見たかっただけ、という。数学の証明に対してエルデシュが与える最高の賛辞は、「That's straight from the Book.」だったという。数学の証明には、エレガントなものと、まだるっこしいものとがある。
彼はただThe Book(といえば英語ではバイブルだけど)の解読にだけ興味があった。誰が解読しようとかまわない。だから、彼はやたらめったらとほかの数学者たちの戸口にひょっこりと現われては世界中を共同研究をして回った。エルデシュと連名で論文を発表したことのある数学者というのは、485人にものぼる。このエルデシュと連名で論文を発表したことのある485人の数学者が、まず「エルデシュ数1」。その485人と連名で論文を発表したことのある人は、「エルデシュ数2」。エルデシュ数3の人は、エルデシュ数2の人と共同で発表した論文のある人、と以下ずっと続く。現在知られているもっとも大きなエルデシュ数を持つ数学者というのは、エルデシュ数7らしい。
アインシュタインって、エルデシュ数2だったのね。ぼくはエルデシュ数∞、つまり数学の論文を書いたことがない。大学のときの論文をまともに書き上げてたら、もしかしたらエルデシュ数5ぐらいになった可能性もあったのかも。ぼくが大学のときにいた研究室の先生は、日本の数学学会じゃ名前の知られた人というから、エルデシュ数3とか4だったのかもしれない。

2003/10/24(Fri)

Japanese

マイクによく「Don't be so Japanese.」と言われる。これは「なんでそんなに働くの?」という意味。香港人の友だちが、ぼくに「You are being Japanese.」と言うときには、これは「言いたいことはハッキリ言ってもらわなきゃわからんよ、こっちは日本人じゃないんだからさ」という意味。
もう日本人やめたくなってきた。

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NISHIMURA Ken <nis@bigfoot.com>