2003/12/03(Wed)
時代はマイ・データベース
お昼に某社記者発表会へ。通訳のレベルの低さにビックリ。逐次通訳を聞いていて、何だかぼくでも簡単な通訳ぐらいならできそうな気がしてきた。風貌からするにベテランの域に達しててもよさそうなその通訳者の翻訳は、訳し漏れが多いうえに、訳文の日本語が、日本語としてまるっきり滅茶苦茶。表面的な通訳テクニックや反射的な訳語選択の痕跡が見て取れるあたりにプロっぽさを感じるのだけど、ベースとなる通訳能力が頼りない。発表内容や技術をよくわかっているぶん、今日のプレゼンと質疑応答の通訳なら、ぼくのほうがずっとうまくこなせたと思う。想像するに、日本のビジネスマンの英語力はグングンあがっているから、こういう通訳者って、そのうち仕事のレベルの低さが露呈して干されるようになるんだろうなぁ。
久しぶりにプールへ。よく見ると最後に泳いでから半月も間があいているし、とうとう先月は1ヵ月の距離が10kmを切ってしまった……。とはいえ、今日ついに「あと1450mで200km突破」の1450mを泳いで無事に200kmを超えたぞ。
とつぜんデータベースに目覚める。RDBMSとかリレーショナルデータベースと呼ばれるアレです。すなわちSQLです。ふつー、PostgreSQLです。Oracleなんて使いません。
ヤフオクでもアマゾンでもHotmailでも、これほど日々リレーショナルデータベースのお世話になっていながら、それがどういう働きをしているのか、あまり知られていないというのは考えてみたら不思議なもの。ちょっと技術がわかるユーザーであれば、HTTPとかADSLなんかは原理的なレベルで理解されているけど、そういうのと比べると、データベースの世界は「なんだかスゴそう」というぐらいに思われてて、ずいぶん違う。
ひとまず手元のDebianで「apt-get install postgresql」として、PostgreSQLをインストール。やっぱりDebianは楽だ。で、チュートリアルにあるとおりに「creatdb my_first_database」などとしてデータベース作成。テーブルを作り、適当にデータを突っ込んでみて、「select * from hoge」などと検索クエリーを打ち込んでみる。おおぉ、うごくうごく。30分とかからずに入門は終わり。思ったよりもデータベースは手軽だぞ。
Ruby、Emacs Lisp、PHPあたりのキーワードとPostgreSQLで検索をかけて、あれこれ調べる。夢が広がる(なんでやねん)。
BSDハッカーにしてPostgreSQLもPHPも極めまくっている同僚に、晩ご飯のあいだレクチャーを受ける。で、ようやくRDBMSやSQLってのがどういうものかイメージがつかめた。それほどコードを書くわけじゃないけど、頭の中がすっかりRuby的オブジェクト・パラダイスになっているので、今さらC言語の構造体のようなPostgreSQLのTABLEにビビる。型なんてintでもcharでも「よしなに」処理してくれよ、というわけにはいかないらしい。ていうか、stringじゃダメなのか。ドットでアクセスできないのか……。
何でも包み込んでオブジェクトとして扱おうという発想と逆の、できるだけ複数のテーブルにバラして「正規化する」という発想が新鮮。そうか、リレーショナルって、そういうことだったのか。データベースに直接バイナリを突っ込まないという話は意外だったけど、つまりデータベースってオブジェクトを突っ込むものじゃなくて、オブジェクトの関係だけをどうこうするソフトなんだ。
しかし、バックエンドでどんなスゴいアルゴリズムが動いてるか知らんけど、データベースってそういう意味では原始的なのね。まあ原始的だからこそ、速度の最適化に有利なわけだろうけど。
紙の上と頭の中で思い描いてたシステムの実現に、どういうアプローチがあるのかが、ちょっと見えた気がする。正規化とインデックスの張り方の基礎あたりだけ押さえれば、もう後はゴリゴリとPHPなりRubyなりでインターフェイスを書くだけかも。
いやあ、データベースって楽しそう。読んだ本のリストとか、泳いだ距離の記録とか、この日記なんかも全部データベースに突っ込んでみたくなった。ぼくにレクチャーしてくれたK氏は、確定申告関係のメモをPostgreSQLで管理しているらしい。もちろんPHPでWebインターフェイスを書いてあるので、自宅からでも会社からでもどこからでもデータの参照、変更ができるんだとか。カクイー!
2003/12/05(Fri)
使いづらいパソコン
表紙の絵にちなんでシーラカンス本と呼ばれている、石井達也『PC UNIXユーザのためのPostgreSQL完全攻略ガイド』を買ってきてゲラ待ちの間に読む。入校が朝8時までかかったので、時間たっぷり。一気に読破。おもしろいぞ、データベース! すごく便利そう。どうしてこういうものが、帳票システムだとか企業の情報システムにしか入っていないんだ? 本当にデータベースを必要としているのは、個人ユーザーじゃないか?
WikiWikiとか、TRONの実身/仮身モデルとか、データベースとか、パソコンユーザーがいま本当に必要としているのは、そういう、根本的に情報との付き合い方を変えてくれるようなものじゃないかと思う。
ひとつは、ネットワーク透過なリポジトリ。それがパソコンだろうが携帯だろうがPDAだろうがカーナビだろうが、あるいは自分のマシンだろうが他人のものだろうが、公共の場のパソコンだろうが、どこでどんな端末からログオンしても、「自分の情報」というのが常に同じように見えているという、そういう状態を可能にするネットワーク上のレポジトリ。マシン名やハードディスクやドライブの名前なんて意識もしたくない。できればバックアップや情報更新履歴のことも適当に面倒みててほしい。Plan9のdumpfsのように。ていうか、Plan9のファイルシステムは、まさしくこういうイメージ。
もうひとつは、ハイパーリンクシステム。ドラッグ&ドロップだけで、どんどんリンクを張れる柔軟なハイパーリンク。B-TRONというOSにある実身/仮身というシステムは、すばらしいと思うんだけど、ああいうものがほしい。ウェブが登場したとき、リンクの威力にぼくらは驚いたものだけど、いわゆるハイパーリンクの世界を矮小化してしまったことは事実。ぼくらはまだハイパーリンクの本当のすごさを知らないんだと思う。
あとひとつは、ファイルとかフォルダとか前時代的異物じゃなくて、動的な分類、検索方法を提供するデータベース的な情報管理システム。そろそろファイルシステムも、B-Treeがどうしたとかジャーナリングがどうしたとか、そんなこと言ってないで、もう一段うえのレベルでのサービスを提供することを考えたほうがいいんじゃないか。もうディスク上にもメールボックス上にもフォルダなんて作りたくない。本当に作りたいのは検索クエリをプリセットしたビューだ。このギガクラスのCPUとハードディスクの時代に、なんでファイルシステムは、いまだにデータベース的に振る舞ってくれないんだ! と、そういう時代になんでマイクロソフトはFATなんていう化石みたいなファイルシステムで特許料を徴収するなんてバカなことを言い出せるんだ!
なんで、パソコンや情報機器はこんなに不便で使いづらいんだろうか。個別に見ると、要素技術は十分にあるし、実装だってあるのに、どうしてそういうものが普通に使えるようにならないんだろうか。
2003/12/07(Sun)
新しいドアを開けること
「Ed」というアメリカのドラマが結構好きで、何となく見てしまう。そのドラマを見るともなしに見ていたら、ちょっと不思議な女の子が登場した。真っ赤な服を着たそのキュートな女の子は、ある朝、コーヒーショップから出てきたばかりのエドの首に手をまわして抱きつき、いきなりチューしてしまう。濃厚な。で、思わせぶりな笑顔だけ残して何も言わずに立ち去る。
見ず知らずの女の子にチューされたエドは、もちろん驚いている。連れの友達は冷やかしたりする。エドはエドで、とてもキュートな34歳(推定)のナイスガイを絵に描いたような弁護士で、いくらでもモテそうなヤツなんだけど、さすがに、いきなりチューされるなんて経験は初めて(ということだと思う)。
すぐに立ち去ったその女の子に、もう一度会おうとエドはあちこち探し回る。探しているうちに、エドは町行く人々にチーズを配っている彼女に偶然出くわす。彼女はヘンテコなチーズを模した着ぐるみを着ていて、チーズ会社のプロモーションのバイトのように見えるんだけど、エドが「なんでチーズを配ってるの?」と聞くと、「やってみようと思ったからやってるだけ」と、またもや不思議な笑みとともに答える。楽しそうにチーズを人々に配る。
ちょっと当惑しているものの、何たってその女の子はすごくかわいいので、エドは食事に誘ったりする。その子は快諾する。で、この食事というのがまた不思議なもの。
いきなりエドを連れて、見ず知らずの人の家の戸をノックする。「おたくのディナーに招待していただけませんか? 一度も会ったこともないですし、私たちのことも知らないでしょうけど、私たち、いい人なんですよ」とか。眉をひそめるおじさんは、戸惑いながらもエドたちを招き入れる。
結局、見ず知らずの家族のディナーに加わった2人は、その家族ととても楽しいひとときを過ごす。帰るみちすがら、エドは当然の質問をし、その質問にたいして、その子はこんな風に答える。
「いつもこんなことしているの? その、、、つまり、見ず知らずの人にキスしたり、見ず知らずの人のディナーに入ったり?」「夜寝る前に、明日何か新しいことをやろうとメモするんだ。次の朝起きたら、これをやろうって。でね、次の朝起きたら、それがやりたくてもやりたくなくてもやるのよ。どんなにやりたくないと思ってもね」「でも、なんでそんなことするの?」「人生ってね、新しいドアを次々と開けることがすべてなんだよ。新しい人との出会い、新しい物事、そういうものがドアの先で待っているのよ。ほとんどの人は待っているだけでドアを自分で開けようとしない。だけど私は違う。自分で次々と開けてみているのよ」「でも、そんなことして本当にいいことがあるの?」
と、ここで歩みを止めて、「いいこと? あるわよ。こうしてあなたのような人に出会えたし」とか言いながら、またキスしちゃうのがドラマだなって感じなのだけど、なかなかいいこと言うよなと思った。こういうイカれた女とは付き合いたくないなと思うし、しょせん男の脚本家が描いたひとつの理想の女性像ってものなんだろうけど。
ドアを開けてみようと思い立っても、いざとなると「別にこのドアを開けなくても、ぼくの世界は十分な人とモノで満たされている」と言い訳しながら、ちょっとした勇気がもてないことってある。
ずっと昔、新聞の投書欄に「パンツ君」についての話が載っていたのが忘れられない。それは中年女性からの投書で、あるとき、若い男の「パンツ何色?」というイタズラ電話がよくかかってきて、その家族で彼のことをパンツ君と名付けたという話。イタズラ電話だけならよくある話だけど、徐々にパンツ君はその女性と、ふつうの話をするようになり、やがて友達になってしまう。年齢も境遇もぜんぜん違うのだけど、それから長いつきあいの友達になり、やがてパンツ君が社会人となり結婚するということになったときには、その投書女性はパンツ君の結婚式にまで出席したという話。
人間のつきあいにおいて、出会い方なんてどうだっていいって話じゃないかと思う。どんなに不自然な出会いであっても、自然な関係が築ける人同士なら自然な関係になるのだろうし、そもそも自然な関係が築けない人同士なら、どんな出会い方をしてもうまく行かない。それだけのこと。
だとすると、どうして普通の人が開けないようなドアの開け方をしない理由があるんだろうか。
いや……、言うのは簡単で実行するのはむずかしい。ちょっと前に「1日に最低ひとり、誰か知らない人と話をしよう」と決めたのだけど、やってみると結構たいへんです。途中から「何となく顔がわかる人に話しかける」に切り替えても、まだぼくにはきつかった。
ドラマのような極論は極論としても、「ドアを開こう!」というのは、心に留めておいていいことだろうと思う。
2003/12/08(Mon)
クジラの見る夢
Mさんにいただいた本、池澤夏樹『クジラが見る夢』(新潮社)、
読了 。1994年の春、バハマの海でイルカやクジラと泳ぐジャック・マイヨールとしばらく行動をともにした作家による、マイヨール伝。紺青の海に舞うイルカたちとジャックの写真が美しい。ジャックは当時すでに齢六十七にもなんなとする高齢だったというのに、無駄のない均整の取れた肉体。スキンダイブで100メートル潜る人間、人間のなかではもっともイルカに近いと言われる人間だけのことはある。
高校時代の友達が、イルカと泳ぐためにやっぱりバハマに出向いたことがあるという体験談を聞いたばかりだったし、どうもイルカが気になっているこのごろ。
この本に出てきたジャックの言葉、クジラについて語っている部分は、どうもどこかで聞いたことがあったように思う。天敵らしい天敵が存在せず、物質的な心配事のないクジラたちが、あの巨大な脳味噌でいったい何を考えてるのか、という話。ジャックによると、彼らクジラは、自分たちの存在について、宇宙について考えてるんじゃないだろうかという。
出社前にプールへ。イメージは前半はイルカ、後半はクジラ。800mはイルカのように、ブンブン泳ぐ。800mはクジラのごとくに泰然と。水の中をゆらりゆらりと進む。どうもまだ身体の軸がぶれて水の抵抗が大きくなる瞬間があるような気がしていたけど、クジラ泳ぎをしていると、そういうことがよくわかる。午後の陽光をたっぷり含んできらきらと光る水の中を、ゆったりと泳ぐ気持ちよさ。じたばた泳ぐばかりじゃなくて、たまには水の浮力や自分の身体の慣性力の感じを全身で楽しむというのもいいものだ。
水泳の
記録ページ をデータベースで作り直す。PostgreSQLもPHPも基礎はわかったぞ。
2003/12/10(Wed)
見栄を張ろう
福田和也『悪の読書術』(講談社)、
読了 。正月に読んでちょっといいなと思った福田和也の『悪の対話術』から続く「悪の」シリーズの3作目。2作目の『悪の恋愛術』を読んで「続編にヒットなし」と改めて認識せざるを得なかったものだけど、それでもやっぱりぼくはどうも福田和也が好きだし、気になる。なんといっても「読書」をテーマに本を書いてるんだから読んでみないわけにはいかない。
シリーズに通底しているテーマである「悪」とは、ふつうこの言葉の持つ意味での悪ではないし、露悪趣味やサディスト的な耽美趣味とも関係がない。福田のいう悪とは、「自らの無垢さ、善良さを前提とする甘えを抜け出し、より意識的、戦略的にふるまうためのモラル」で、要するにもうちょっとオトナになりましょうということ。
読書において意識的、戦略的になるとはどういうことか。社交の道具として読書を見た場合、それはまず「ロークラスの本を面白いと思うことを、恥ずかしいと感じる感性こをが、スタイルのある成熟した大人への第一歩」なのだという。こういう一種横暴とも言える断定に、ぼくはぱちぱちぱちと拍手を送ってしまう。と、同時に、ああぼくは服装と同じく、読書の趣味に関しても相当無頓着なもんだなと我が身を振り返る。かなり恥ずかしい本を、読んだと公言しているし、あまつさえベストセラーのいくつかをおもしろかったなどと言っている。ある種矛盾した話ではるけど、この『悪の読書術』を読んでおもしろかっただなんて言ってること自体が、あまりぼくが読書に意識的でない証拠。
もちろん、読んだ本を恥ずかしげもなく公開している厚顔さには二重性がある。ぼくの中には恥ずかしさと見栄が同居している。もっともっと見栄を張ったほうがいいと思いつつ。見栄を張るというのはつまり背伸びだけど、多少知的に背伸びをしないで、どうして知的に成熟できるもんか、というのが福田の論点のひとつ。見栄を張りなさいと。若い人であれば、読んでない本を読んだと見栄を張って、あとで恥をかくようなことをしてもそれがばねになって必死で勉強したりするもんだから、それでもいいんじゃないかと。虚栄心は頼もしい見方だ、と。ぼくの場合、微妙にそういうのがむずかしい年齢になりつつあるけど。
この本はFRAUという女性誌の連載をもとにしているので、福田は読者を読書をファッションと比較してこう説得する。本は娯楽であり知識の収集源であり、心を豊かにするために読むのだから、他人がなんといおうと自分が読みたいものを読めば良いのだというのはまちがいではない、けれども、服装についてはいくら自分が気に入っているからといってTシャツとジーンズでソワレに出て言いと誰も考えないでしょう、と(ソワレなんてのを日本の女性誌の読者にたいして持ち出すあたりが、この人のなかなか戦略的なところだ)。須賀敦子はコンサバなワンピース、最高最強のドレスは白州正子。
そんなわけで、自分が何を読んでいるかについての他人の視線に意識的でありましょう、と。似合う本と似合わない本があるし、そもそも読むこと自体、あるいは愛読書と公言すること自体、恥ずかしい本というのがある。本には階級がある。
内容もわからず味わいもできない本を小脇に抱えても、それは似合いっこないブランドのカバンを抱えて歩くコギャルのようなもの。けれど、そのブランドに見合う背丈になろうとあれこれ努力することと同じように、レベルの高い本に似合うように努力もできるし、その努力の方向が正しいかぎり、それはおおいに結構なことである、という話。
「わが国においても、そろそろ総中流社会は終わりを告げて、階層分化がはじまっているといわれます。文化についても、同様でしょう。というよりも、これまでもそうした階層はあったのです。ただ、ないことになっていたり、判りにくかっただけで、実際には、文化による、この場合は読書による階層分類はありました。たとえば、エセーでいえば、“大河の云々”とか“美女云々”とかを愛読書として公言することは、知的には下層階級に分類されるでしょう。」
同じ福田による『作家の値打ち』は作家や作品の持つ「中身」の価値判断を並べた本で(しかも100点満点というわかりやすさ!)、この『悪の読書術』で紹介される作家や本についての解説は、それが持つ外見についてののもの。誰それを読むとは、どういうふうな印象を周囲に与えるか。
たとえば、宮部や高村の作家としての資質や作品そのものの価値判断はおいておいて(福田は高く評価している)、これらの作家を若い女性が読むということは、どういう意味を持つのかというと、「ああ、この人はプライベートが寂しいんだろうな」とげすの勘ぐりを受けかねないと、かなりネガティブなことをいっている。あんな分厚い本を読むなんて、よっぽど暇なんだろうなと。レディースコミックの回し読みサークルに入っているOLやハーレクインを読む乙女のように欲求不満なおぼこには見えないのだけど、ボーイフレンドもいないんだろうなというふうに見える。さらに、宮部、高村の「元OLがワープロを前にして何か書いてみました」的な出自は、訳知りな人たちには、これらの読者が「世間知らず」だという印象を与える。
世間知らずという印象を与えてもいいのだという人もいるかもしれないとしたうえで、福田はこう言う。「今の日本は、成熟を強調するよりも、むしろ無垢さや無邪気さ、純粋さ、下手をすれば子供っぽさの方が有益な場合が多いことは事実かもしれません。それは、とりもなおさず、いかに日本という国が、子供の国か、あるいは幼稚な国かとういことを意味しています。誰もが大人になって責任を負うことから逃れて、子供として甘え続けようとしている。私にとっては、なんとも暗澹とするような風景ではありますが、そういう国に生きている以上、ピュアとかナチュラルといった、非成熟を押し立てていくほうが賢明なのだ、という判断はたしかに合理的なのかもしれません」。
読後感をまとめておこうと思って書きだしたら中途半端な引用だけになってしまった。村上春樹やマンガを語るあたり、気になる点がいくつかあるけど。
2003/12/11(Thu)
主体的に考えて行動する民衆?
土居丈朗『財政学から見た日本経済』(光文社)、
読了 。財政に関する専門知識を学んだとき、このままではいけないと感じたという筆者が、「国民が有権者としてこの国を健全に動かしていくのに不可欠な話」をまとめた本。日本の財政はかなりやばいところまで来ている。で、ホントにやばいのは、やばくなった原因を野放しにしていること。反省していないこと。なんで国も地方も借金漬けになったのか。
2002年度末で国債発行累積額は約414兆円、地方債などが約195兆円、重複分をのぞくと、しめて約693兆円。これは日本のGDPの1.4倍。この借金を1年で一気に返済しようとするなら、国民ひとりあたり毎月約50万円の特別税でも課するしかない。4人家族なら200万。かなり危険な状態になっている。たとえば、国債の償還期限の平均値をとると、年々それが短くなっているという統計データがある。もう日本の国債を長期に保有したくないと、市場は思い始めてるわけで、いよいよ「日本はやばい」という心理も顕在化しつつある。
なんでそんなに借金漬けになってしまったのか、この国は。著者の用意している答は実に簡単で、「不況を克服するために借金をしてでも公共事業バラマキの財政政策をしてしまったこと」「財政投融資という裏帳簿を悪用してしまったこと」につきるという。
景気対策として公共事業を増やすこと自体はまちがいではないけれど、より高い効果のあることをやるのが当然なのに、90年代、公共事業は四国や北海道といった地域を筆頭に地方重視で行われた。その結果、そういった地域の経済活動は微妙に活性化したという数字はあるけれども、日本全体としてみればそれは誤差のような話で、本当に税金を注ぐべきだったのは、東京や大阪といった、この国のGDPの半分以上を稼ぎ出している都市部。地元の人がいらないといっているような、誰も使わない林道を造るより、都市の再開発や交通網などのインフラを整備すべきだった。東京でも大阪でもやるべきこと、できることはいくらでもある。
「公共経済学の文脈では、すでに効率性と公平性がトレードオフになっている状況では、公平性よりも効率性を優先する方が望ましいということが、1996年にノーベル経済学賞を受賞したマーリース・ケンブリッジ大学教授らによって証明されている」という著者の指摘を待つまでもない。船が沈もうとしているのに、肝心のエンジンの修理をせずに、舳先や甲板の修理を始めるバカはいない。90年代の日本はそれをやっていた。著者はこれを失政であると指摘する。地方の人間も都市部の人間も、地方、地方とノスタルジックに叫びすぎたということもあるんだろう。
借金の構図は簡単。東京や大阪、愛知といった都市部で稼いだお金を「財政規律が働かず、地方交付税漬けの自立できない地方自治体」や「放漫経営を続ける借金意識も倒産もない特殊法人」が、じゃぶじゃぶと使い込んでいた。なんで借金をいつまでも続けられたか、あるいは続けられているのか。それは郵便貯金や厚生年金、簡易保険といった国が集めた資金を運用する財政投融資からお金が流れ出るから。
なんでそんなことが起こっていたか、あるいは今でも起こっているのか。それは「与党議員の地域的に偏った政治的影響力の結果」。地元によりおおくの補助金を国からぶんどってくるのが政治家の手腕として評価され、多くの票を得る。ここにはいわゆる「定数格差」という、かなり根深い問題がある。地方の一票と、人口の多い都市部の一票には格差がある。これが、より地方重視の政策を採る与党議員が幅を利かせる理由。小泉首相は定数格差の是正を「少なくとも二倍以内が妥当」と言っているけど、本来的に言えば、格差なんてあっちゃいけないと、著者は何度も繰り返す。ぼくも、いちおうはそう思う。2倍というのは、とんでもない数字だ。多数決という民主主義では、数が力なのに。
定数格差の放置は違憲だろう。それがなぜいつまで経っても是正されないのか。本来であれば、行政府を監視する役割を担う司法府が何とかするべき。ところが、最高裁の裁判官は行政府の内閣が任命することになっているらしい。定数是正に不熱心な与党が最高裁の人事権を持っているんだから、そんな最高裁から「定数を是正せよ」などという動きは出て来にくい。
ビックリ! そんな根元的で基本的なところで、三権分立が破綻しているなんて知らなかった! そんなことでいいのか? なんでそんな状態で誰も何も言わないんだ? えっ、言ってる?
そもそも小選挙区制がよくないんじゃないかという議論があって、ぼくもそうなのかなぁと思っていたけど、著者の指摘によると、本当によくないのは、国家財政が国家規模で便益が及ぶ行政サービスのみを対象としていないという事実のほう。地方に予算をぶんどることがシステム上不可能であれば、はじめから問題は起きない。事実アメリカはそうなっている。なるほど。
90年代には痛恨の失策もいくつかある。今さらのようにそういうのを勉強してびっくりしてるぼくって、やっぱり世間知らずってことなのか。97年の金融危機の話がやっとわかった。拓銀や山一が破綻した話だけど、あれは拓銀、山一に先立つ三洋証券の破綻がすべての始まりという。銀行同士が無担保でお金を貸し借りするコール市場で、三洋証券が債務超過で破綻したとき、最高裁はそれをあたかも一般企業の倒産と同じように処理してしまった。債務不履行と決定し、債権者の優先順位も法律に基づいて決めたために、金融機関の債権が焦げ付いてしまうという事態が起こった。このとき、最高裁は法律に基づいて処理しただけではあるものの、その決定の日本経済への波及効果をまったく理解していなかった最高裁は「経済音痴」だったのだと、著者は指摘する。コール市場で、債権が焦げ付くということはあり得ない話で、これをきっかけに金融機関が金融機関を信用しなくなり、コール市場を支えていた金融秩序が一気に崩壊する。で、そういう金融危機が起こっているときに、当時首相だった小渕さんが何をしてたかというと、金融危機を財政危機とはき違えて、せっせと借金してまで地方の公共事業へ投資を続けていた。
銀行が銀行にさえお金を貸せない時代に、企業に貸せるわけもなく、いわゆる貸し渋りが起こる。銀行は預金をどう運用するかというと、もう国債ぐらいしかない、というわけ。本来、経済という大きな絵のなかで回転しているべきお金の流れが完全におかしくなってしまった。景気低迷で消費者がお金を使わずに銀行や郵便局に貯金したお金は、金融機関や国を通して、地方自治体や公共事業という無駄使いのブラックホールへと吸い込まれていった。金利なしの貯金をしているつもりが、実はマイナス金利付きの膨大な借金を重ねていた、というわけで、まるっきりシャレにならん。
日本経済破綻の2つのシナリオが興味深い。まず国自体がデフォールトを宣言するようなことはあり得ないので、借りたお金は返す。じゃあどういうことが起こるかというと、あり得る可能性は、政府主導の大幅なインフレ政策か、あるいは大幅な増税。どっちにしろ、ぼくらの生活も財産も、かなりめちゃくちゃになる。どっちにしても、国が借金を返済するってことは、国が合法的に私有財産を没収するか、あるいはお金の価値自体を下げて意図的に借金の額面を目減りさせるか。
得する農村(地方)、損する都市。それが、この本の主張の大きな柱だけど、ひとつ結構すごい主張をしている。農村部あるいは農業というのは稼ぎが悪いので、みんなもっと都市部に移住したほうがいい、ということを言っている。「効率性の観点から、農村部重視の公共事業や補助金を削減し、もっと都市部に人を集めてまず日本経済全体のGDP自体を大きく増やす必要がある」。「生産性の低い地域に住んでいる人に対しては、他の国民、あるいは政府が、「本当にそこに住んでいてもいいのか」という問いかけを積極的にすべきである」。そうでなくても都市部は人口過密なのに、と思ったら、そういう意見に対しては「混雑効果による弊害よりも、人口集中による集積の利益のほうがはるかに大きい」という答えを著者は用意している。うーむ。土日の新宿なんかを歩いてると、どうやってこれ以上人を増やすんだろうかとか思ってしまうけど、なかなかおもしろい。過密に思えるのは、インフラが整備されていないことや、過度な一極集中があるからということはあえりえる。東京にも寂れた街がたくさんある。
この本は、どういう本なんだろうか。確かに、この本に書かれていることは別に難しいものではないし、国民一人一人の生活に直接的に関わる重要な話であるというのはわかる。でも、すべての有権者がこういう話を個々に考え、判断し、主体的に政治にコミットしていくといくのが民主主義だなんて話は、やっぱりおとぎ話じゃないのかと思う。
2003/12/13(Sat)
裸の女王様
Gregory J.Chaitin『The Limits of Mathematics---A Course on Information Theory and the Limits of Formal Reasoning』、
読了 。この本というか、この人の主張は一体、数学をやってる人にはどう読まれるんだろうか。Chaitinは、過去30年かけてアルゴリズム情報理論と呼ばれる学問分野を一人で切り開いた人で、彼の業績はゲーデルとチューリングの仕事の延長上にある。ヒルベルトの夢を突き崩したのと同じ「不完全性」というのが、実は純粋数学、それもたとえば数論にさえ潜んでいるということを、このIBMのワトソン研究所に勤める禿頭のオヤジは言っている。ある種の数学的事実というのは、別に理由があって真理となっているわけではなく、単に偶然そうなっているだけに過ぎない、だから、論理的にそれが正しいかどうかなんて永遠に証明できないんだよ、なんてことを言ってしまう。実に数学者を怒らせてしまいそうな過激な結論。量子力学ばかりでなく、数学の世界でも神様はサイコロを振るんだ、という。シュレディンガー方程式や、リーマン仮説が自明でないけれど実用的であるのと同じように、ユークリッドが公理というのは、それ自体で自明な存在であるとした言明は大きなまちがいだった、という。
この本は、あちこちの大学で数学者なんかを前にレクチャーしたものをまとめた本なので、物理学者の実用第一主義的な鷹揚さとか、それと対をなす数学者の理論的偏執ぶりを揶揄するような言葉が、ぼくにはなかなか面白い。この人のレクチャーは、ジョークがいっぱいで楽しい。
たとえば、素数についてある定理が成り立ちそうだと思って、コンピュータで実験をする。膨大な例から、確かにそれが定理として成立していると確信する。ところが、それを数学的に証明できないとする。そういうとき、数学者は「ずっと証明できなのは、ゲーデルの不完全性定理によるものだろう。だから、これは新公理として体系に足してしまおう」なんてことは言わない。でも、このChaitinは、もしかしたら数学者は、物理学者のようなほかの経験科学者と同様に、そういうふうにして数学を豊かなものにするべきなのかもしれないと主張する。数学というのは、直感や霊感、情熱が関与する芸術のようなものであると。
エルデシュにしても、ペンローズのような人にしても、それからゲーデルにしても、天才肌の数学者ほど数学的な世界の実在を信じて疑わない。自然数というのは、便利だから人間が発明した道具にすぎないという立場のアインシュタインなんかと違って、数学的実在はア・プリオリに、宇宙が存在するのと同じような意味で、数学的な世界に存在しているという。いっぽうのChaitinは、自然数でさえ、その存在が確かであるかどうかは「もはやわからない」と告白している。
この、アルゴリズム情報理論というか、彼が証明に使うのは、LISP。LISP is beautifulと彼は繰り返し言っていて、「I view LISP as the set theory of computational mathematics.」と言い切っている。そうだよ、やっぱりもっとも高級で美しいプログラミング言語はLISPなんだよ、きっと。
で、彼はLISPのevalに実行時間制限を付けたtryという関数をevalの変わりに加えた私家製LISPで、すべて彼の理論の証明を行う。このLISP処理系を、彼は1000行ほどのC言語と、100行ほどのMathematicaのコードで実装してて、それこそ、チューリングから70年経って、ようやく人類が手に入れた本当に動く万能チューリングマシンだという話。
数学とLISPがどう関係するのかというと、こういう話。LISPという記号処理機械を使って数学の公理系を導き出すことを考えると(それこそヒルベルトが目指したもの、だよな?)、そこにはおのずとシャノンの情報理論から来る限界がある。少数の限られた数の公理や論理的な手続きだけからは、数学というのは出てこないんだということ。なぜならそれができるということは、情報を圧縮するのに限界があるというシャノンの定理に反するから。おおぉぉぉ。
「I used to believe that all of mathematical truth, all the infinite variety of mathematical truth, could be compressed into a small set of axioms and methods of reasoning that we could all agree on, and that we learn as mathematics students. I felt this deep in my soul, it's part of what makes mathematics beautiful, the sharpness, the clarity---, it seemed inhuman, even superhuman! Unfortunately the existence of irreducible mathematical facts shows that in some cases there is absolutely no compression, no structure or no pattern at all in mathematical truth.」
細かい話もLISPの具体的なコードも飛ばして読んじゃったけど、結論は理解しやすい話ではある。
2003/12/17(Wed)
黒い目をした人
アメリカのような多民族国家では、指名手配書なんかに目の色や肌の色、髪の色なんかが書かれることが多い。同じく、ネットなんかで自己紹介を書くときとかには、自分の肌の色、目の色なんかを書く人が多い。
ある時、アメリカ人に「おまえの目の色はブラウンだ」と教えられてからというもの、自分でもブラウンだというようにしてきた。でも、幼稚園で顔を描けば必ず黒で目を塗りつぶしてきたように、ぼくは自分の目の色はずっと黒だと思っていたから、ちょっと釈然としないものを感じていた。日本人には茶色い目の人もいるけど、ほとんど黒。なのに、どうしてアメリカ人は日本人の目の色をブラウンだと言い張るんだろう、と。
まあ、欧米人は日本人の肌の色を「イエロー、ピンク、オレンジ」だなんてことも言うし、色彩語というのは、一筋縄ではいかないものがあるんだろうとぐらいに思っていた。鈴木孝夫がどこかに書いていたけど、英語のオレンジは日本語でいう茶色も含んでいたりして、色の呼び方というのは言語間で対応がとれていない。
ともあれ、黒い目、茶色の目の謎が最近ようやく解けた。日本人の目の色は、青や緑っぽい淡い色に比較すると黒と言えるけど、本当に黒い目の人から見れば、確かに茶色なんだ。
中国人、というか漢民族の友だちが「自分の目には瞳がない」とヘンなことを言うので、よくよくのぞき込んでみたら、これが確かに真っ黒。いわゆる瞳がまったく見えない。白目と黒目があるだけで、そのほかには何も見えない。日本人の目であれば、黒目のなかに瞳や虹彩が見えるはずのところが、何もかも真っ黒。
一日中ひとに会うたびに「見つめてもいいですか」と見つめてみた結果、確かに日本人のほとんどの人は目の色が茶色であることがわかった。
それより驚いたのは、日本人の来歴に関する若い中国人の見方。「日本人はその昔、大陸から渡った中国人の子孫だって知ってた?」という冗談とも本気ともわからない質問を、台湾人を含む、かなり多くの中国人に聞かれたのが気になっていたけど、この質問の裏にはまだストーリーがあった。それは、日本民族というのは、あるとき中国で選ばれたベスト&ブライテストの8000人の若い男女の末裔だという話。船に乗って8000人が海を渡った。ベスト&ブライテストなんだから、そりゃ優秀に決まってる。
もちろんナンセンスなんだけど、そもそもこういう日本人観が出ててくるということや、どうやら少なからぬ若い中国人に、このおとぎ話を受け入れる素地があるという事実が興味深い。いまや彼らは「日本人はすごい。なんであんなに器用に何でも異文化を吸収しながらオリジナルなモノを作り、クールな技術やマンガ、ドラマ、音楽を生み出せるんだ」というふうに見ている。ある中国人は「日本人はちょっと怖いぐらい何でも自分の文化に取り入れる天才だ」と感慨を漏らしていた。ぼくなんかは、目も当てられないJヒップホップとか、いんちき欧風カフェとか、恥ずかしいなぁと思っていたけど、漢字文化にしても中華料理にしても、ロックにしろジャズにしろ、ジャパニメーションにしろ、あるいは高い産業技術さえも、最初は物まねで始まったんだったと思うと、この吸収力というのは日本文化の決定的な特徴なんだろうなと改めて考えずにいられない。
これほど素朴に異国に憧れ、なんの躊躇もなく取り入れてしまう国は珍しい。フランスをみよ、彼らの外来語への拒絶反応は、あれはあれでほとんどビョーキだぞ。いつだって文明のはじっこに位置して孤立していたという、地理的に安定した独立性が、ナイーブな舶来モノ崇拝を許しているんだろうな。言語的孤立性と、民族的画一性あたりも決定的な役割を果たしているように思える。何を取り入れたところで日本は日本だし、日本人は日本人だし、日本語は日本語なんだ。この、多少のことではビクともしない安定感。
かつて日本観といえば「小日本(シャオリーベン)」と、いつだって日本人を馬鹿にしてきたはずの、あの中国人が、ベスト&ブライテストの末裔に違いない、と、なかば畏敬の念をもって眺めている。もっとも、いまでも北京のエリート層には日本民族蔑視は根深いという話も聞くけど。
2003/12/18(Thu)
日記
11時、目覚ましのなる前に目が覚める。まだちょっと眠い。昨日ヘンに力を入れて泳ぎすぎたのか、肩が少し痛い。テレビをつけてニュースを見る。今日も日本は平和らしい。
もう半年近く枕元においてある『国民の歴史』を久しぶりにパラパラとめくる。一番最後の節に妙に気になる文章が続く。ハイデッガーの言う3種類の「退屈」というもの。現代人を突如襲う空虚感。なんで、歴史の本にそんなことが書いてあるんだろうかと考えながら、ぐいぐい引き込まれる。退屈。人生には癒やしがたい退屈というものがある。
12時、ようやく寝床を抜け出してパソコンの前に座る。パソコンのテレビでCNNをつけ、メールを読み始める。今日も世界は平和、、、でもないらしい。土曜日9時から放送するというアフリカの飢餓の番組が気になる。
ミカンとチョコレートを食べながら、ウェブでニュースをあさる。5000億円だかの増税の話がasahi.comのトップ。友だちが送ってきたニュースのリンクをいくつかたどる。日本の、特に若年層の失業率の相変わらずの高さを示す統計を見ながら、他人事のようにコメントを書いて返信する。つい興が乗ってつらつらと森永卓郎の日本人300万円年収説について書き送る。日本人の年収は1億円を超える1%の超富裕層と、年収200〜300万円の一般層、それと年収100万円のフリーター層に分化するんだって話。どうだろうか。そういえば、昨日ネットで話したイギリス人は、イギリス人の平均年収は2000〜3000ドルだという話をしてた。
ヤフオクで入札価格の変動をチェック。ThinkPad X31が急にほしくなってきたので、いまウォッチリストには4機種ぐらいが入っている。それにしても相変わらず売り手市場のヤフオク。高いよ。やっぱり新品でThinkPad X40か。
13時、洗濯機を回してお風呂をわかす。泳ぎに行こうかどうしようかと考えながら、お風呂に入る。ちゃぷん。水分でヨレヨレになったTIMEを眺める。
14時、さすがにちょっと泳ぎに行くには遅くなったかなと思いながら、知り合いのウェブサイトをいくつか見る。うちひとつで日記の休止宣言。あまりに急だったので、その場でメールを送る。
14時半、むこう72時間ぐらい天気が崩れる気配がないことを確認してバイクで出かける。
15時、会社に着くと約40人中4〜5人しか出社していない。「昼間作られる雑誌は売れないんだよ」という編集長の意見にぼくは何かしら真理が含まれていると思っているけど、それにしてもちょっと遅いよなぁ。メンタイコフランスパンをほおばりながら、あちこちにメール。
16時、ちょろちょろと連絡すべきところに連絡したら、もう仕事をやる気がなくなって、再びウェブあさり。なんて悠長な年末モードだ。来年でいいなら来年にするかなどと、早くもやるべき仕事を来年に送ろうとか考え始める。なにが何でも年内中にやるんだとか、目標を決めないと危険な雰囲気。
16時半、ようやく人々が出社しだす。職場の空気が動き始める。
17時、打ち合わせ。拾っておいたネタの打ち出しを抱えて、ニュースを選別。わきあいあいと。
17時半、IBC岩手放送のJさんが来社。打ち合わせを抜け出す。新ビジネスの展開についてひととおりプレゼンをしてもらう。楽しそうな話がいっぱい。無責任にコメントとリクエストを並べ立てる。今年の春ごろ、そうやってぼくがコメントを並べ立てたときのビデオが、岩手県内でテレビコマーシャルとして毎日流されていると聞かされて、ちょっとびっくり。かなり恥ずかしいものがある。
19時、編集部Nさんがそろそろ出ましょうというので、忘年会へ。Nさんが、昨日ぼくのこの日記を読んだらしく、「ふふふ、ニシムラさんのことは何でも知ってますよ」などという。どきり。
19時半、忘年会。50名以上が集まる大所帯。詮索好き、噂好きのおばさんを演じきるNさんの隣で、編集部のメンバーのラブアフェアーをあれこれ聞く。それよりも、Nさんがぼくより1つ年下で、しかも子どもが実は小学2年生だと知ってびっくり。1つ年上で子どもは3歳ぐらいかと思っていた。さらに、広告部のYさんも実は1歳年下だと判明。がーん。Yさんは、ふだんマジメなスーツ姿しか見てないけど、思ったりずっと気さくでおしゃべりな人だった。美川憲一のモノマネが絶品だという周囲の言葉を聞いてから、もうYさんが美川にしか見えなくなった。Yさんの彼女は、実年齢より10歳ぐらい若く見える美人らしい。博報堂らしい。って、それって自分が担当する得意先でゲットしたってことか、と周囲から突っ込まれてもしあわせそうな笑顔で否定する。「たまたまだったんですよ、偶然」。偶然なわけがない。
毎週占いのページを書いていただいている星占いのF先生が忘年会のあいだじゅう、編集部の女性陣を占いまくる。長蛇の列、ではないけど、みんな熱心に順番待ち。付き合ってたヒトと3ヵ月前に別れたという同期のFが「妊娠注意」と言われて複雑な顔をしていた。ゆるめのワンピースを着たFの、ちょっぴりふっくらとしたお腹あたりを見て、「え、まさか、いますでに3ヵ月?」という言葉が口をついて出そうになって、あわてて飲み込む。
21時半、酔っぱらってグロッキーな幹事をほったらかしにしたまま三々五々と会社へ戻る人々。歩きながら、元上司のEさんと結婚の話。なぜか今日は一日じゅう結婚がテーマだ。いつの間にか40歳になっていたOさんが、結婚しようという気があるのかという質問に「ありますよ」と即答したのに驚いた。てっきり、もうそういう次元は超えてるんだろうと思っていたのに。「やっぱりOさんは、Tさんにプロポーズされたときに結婚しちゃったほうが良かったんじゃないですか」と思わず言ってしまう。すでに1度断わっちゃってるからなぁと、Oさんは苦笑い。すかさず、「そんなん関係ないですよ、あのとき断わっちゃったけどさぁとか言えばいいじゃないですか」と、ぼくとEさんは異口同音に反応する。加えてEさんは「交渉ごとってのは、ノーから始めろっていうしな」と、相変わらず無責任なおもしろいことを言う。いっぽうTさんの後日談を聞けば、転職先で若い男の子を捕まえようとしたら、実はその子の母親がTさんと同い年だったことに衝撃を受けたなんて話。ひぇぇ、そうか、そういう計算か。いくら見た目の若いTさんでも、20歳年下の男の子を食おうってのはまずいだろう。
23時、何をやろうにも気分が中途半端なので早めに帰ることに。
と、何となく今日は日記風に書いてみた。しかし、こうしてみると、ほとんど何もやってない1日だ。
2003/12/19(Fri)
日記風2
10時半に目が覚める。風邪っぽい。30分ほど寝床でテレビを見る。
バナナとミカン、ピーナツチョコレートパンを食る。水をがぶがぶ飲む。ニュース系サイトと、買い物系サイトを見て回る。洗濯機をあけてみると、まだ洗濯物が微妙に生乾き。乾燥ボタンをおしてから、お風呂に入る。
12時、今日もバイクででかける。代々木のオリンピック記念青少年総合センターへ。何とか渋谷高校の水泳部の若人たちが泳ぐレーンの隣で、ひとり黙々と泳ぐ。このプールは天気がいいと、冬でも日の光が射し込んで気分がいい。やや力を入れて1000mを泳いでみたら18分30秒だった。このところ以前のように速度も距離もあきらめ気分だけど、思ったほど遅くもなっていないらしい。がんばって泳げば1000m18分のセンはクリアできそう。
本屋へ。パソコン系の雑誌をざっと立ち読み。新約聖書のマタイ福音書が気になって岩波文庫で立ち読み。「求めよ、さらば与えられん。叩けよ、さらば扉は開かれん」が見つからない。おかしい。でも結局、聖書は買わず、なぜかその隣にあったニーチェのツァラトゥストラを買う。「ふつー、そういうのって思春期に卒業するよね」などとうそぶくのはやめて、ちゃんとこういう本を読みなおしてみようと思うこのごろ。30歳を超えた今だからこそ、聞き取れるメッセージもあるはず。
渡部昇一が「英文法を知ってますか」とか何とかいう本を出したらしく、ぱらぱら眺めてみる。grammarと、glamourは同じ語源だったらしい。どっちも「魔法」というような意味。英文法というのは、概念としても文法を分析した文書としても成立したのは、フランス語なんかに比べるとずっと後の話で、それまでは規範性のなさという点で、アングロサクソンは劣等意識を持っていたとか何とか。で、そういうときに出てきた「文法(grammar)」というのは何か魔法のような威力を持っているように思われたので、そう呼ばれるという話。LとRの音が区別できないのは、現代日本人だけじゃないのだよということ。ああ、やっぱり渡部さんって英文学者だったのね、と妙にナットクの1冊。新書コーナーでは、ほかにはインドの不可触民の本あたりが気になる。謎の国インド。
新刊書の棚では、猪瀬直樹の『道路の権力 道路公団民営化の攻防1000日』が気になる。山崎養世『日本列島快走論オ高速道路を無料にして日本再生へ』とあわせて読んでみたい。手にしてぱらぱら眺めてみる。年末年始に読むかなと思うものの、そもそもそう考えて買ってある本が山積みになっているのだから、これ以上買っても仕方ないかと思い直す。
どうやれば、「読んでみたいな」と思う本を限られた時間で読めるだろうかと思っていたら、ビジネス書、経済書の棚に『経済大論戦2』という朝日選書の本が。話題になった本50冊の要旨をすぱっすぱっと2〜3ページにまとめてある本。思わず買ってしまう。経済でもビジネスでもいいですが、あまりにサイクルが早い。50冊も読んでられるかっ、というぼくのような人は世の中にいっぱいいるんだろう。この本のあとがきに書いてあった話だけど、宮崎哲弥が今の時代にはミドルマンの存在がますます重要になるということ。専門用語で自分の専門を語る専門家は、専門の細分化と高度化のタコツボにはまってしまっていて、専門外の人に説明できなかったりする。あるいは説明している時間がなかったりする。そういう情報や知識が高度に細分化、専門家する社会では、専門家と一般人の間に立って解説してくれる「ミドルマン」というべき存在が、ますます重要性を増すという話。この経済書50冊を1冊であっさりと要点をまとめてしまおうという企画は、まあ、そういうミドルマンの仕事なんじゃないかと、執筆者の一人で宮崎哲弥の弟子の一人が言っている。なるほどな、ああ、ぼくがずっとやってきた仕事も、ある意味ではミドルマン的な話かなと思うと、少し救われる気がする。
パンを買って会社へ。年末までにやる仕事は何だっけなと予定表をひっくり返す。ここのところ、日々の仕事といえば、TODOリストの予定を毎日1日ずつ後ろへずらすぐらいのことなので、今日も仕事はさくさくと終了。
ルービックキューブ関係の調べモノ。20年前のブームのときに圧倒的に高速な解法で世界チャンピオンの座に輝いた、当時17歳の少女だったJessica Fridrichのページが大変おもしろい。で、実は2003年にトロントでキューブの世界大会があったということも今日知った。キューブを高速に解く「スピードキュービング」という遊びがあって、今でも結構マニアックな世界が展開しているらしい。中にはキューブの初期状態を記憶して、目隠ししてキューブを完成させてしまう強者もいる。
3年ほど訓練すれば、平均して17〜20秒ぐらいで3x3x3のキューブを完成させられるようになるらしい。実際に20秒前後でキューブを完成させるビデオがネット上にあちこちにあるけど、文字通り目を疑うような速さ。ポイントは、(1)効率の良い戦略を使うこと。これはもうJessicaが編み出したレイヤー・バイ・レイヤーで、ほぼ決まりということらしい。次のポイントは、(2)最低でも50〜100ぐらいの、5〜10回転の一連の回転からなるアルゴリズム(手順)を覚えること。特定の色のキューブ(あるいはキューブの組み合わせ)を、なるべく周囲へ副作用を及ぼさずに自分が望む位置に持っていくためには、あるアルゴリズムを適用することになる。かつてぼくが子供のころに覚えた解法では、わずか5つか6つ程度のアルゴリズムしかなかった。もっとも長いアルゴリズムは16回転ぐらいあったけど、非常に覚えやすい幾何学的対称性のあるパターンだった。覚えやすくて数少ないアルゴリズムでは、6面完成にいたるまでに、より多くの回転を必要とする。1997年にUCLAだかUCBだかの計算機研究者が明らかにしたところによると、キューブの初期状態がどんなふうであっても、必ず18〜20手ぐらいで6面完成できる。いっぽう、Fridrich Systemでは、100個ぐらいのアルゴリズムを覚えることで平均して45〜60手ぐらいで完成させることができるという。
スピードキュービングのほかのポイントは、(3)ぱっとキューブを見たときに、どの手順を適用するべきかを瞬時に判断するパターン認識の高速化。ある2面のパターンを見れば、向こう側にある2面を見なくても裏の状態は判定できる。それと、あるアルゴリズムを指が処理しているときには、もう次の色の配置を予測して、どのアルゴリズムを適用すべきかを考えるようにしろ、ということ。
Jessica自身は重要な側面ではないといっているけど、たとえば9つの回転からなる一連のアルゴリズムを1秒以内でやってしまうような指の鍛錬をきわめている人たちもいる。MPEG4の動画を見ていると、ガチャンと音がしただけで3種類の回転が終わっていたりする。指先の器用さと、鍛錬がモノを言う世界。
10代でキューブにはまり、自分のノートいっぱいにアルゴリズムを書き殴ったパズル少女のJessicaは、その後、暗号学者になっている。当時いっしょにキューブにはまった友達とは、なんとその暗号学研究で今や同僚となっているという。Jessicaは、コンピュータが最善の解法を計算してしまえるようになった今、もはやキューブにはかつてキューブが持っていたミステリアスな魅力はなくなった、と、そんなことを言っている。
……、と、キューブ解法の驚くべき動画をずっとネットで見ていた1日。これをネタに原稿に書きたい。さて、ネタをキューブにしたいと言って通るだろうか。「なんで今さら?」と言われそうだけど。
2003/12/28(Sun)
浅草寺
ネットを通して知り合った人たちと、お汁粉を食べようということで浅草へ。雷門での待ち合わせ。初対面の朽名さんは、噂通り着流しの和装姿で登場。ふらりふらりと歩く姿が妙に仲見世商店街に似合う。着物の似合う男といえば、どちらかといえば精悍な、りりしい顔を想像しがちだけど、
やさおとこも悪くない 。着物って、やたらめったらめんどくさそうなので、やたらめったらめんどくさがりのぼくには、やたらめったらムリかなと思うけど、やたらめったら着てみたくなった。
桃さん推薦の和菓子屋、
梅園 へ。いま調べて知ったけど創業1854年というたいへんな老舗らしい。老舗なんだろうとは思ったけど、150年かぁ、スゴイなぁ。観光地だし、老舗だし、繁忙期だったからだろうけど店員はけっこう愛想が悪かった。けど、お汁粉はうまい。
江戸下町の伝統工芸を集めた入場無料の博物館「ギャラリー匠」へ。桐のたんす、刷毛、ガラス工芸、銀食器、すだれ、はさみ、和菓子の型抜きなんかがゴチャマンと並べられている。べっこう細工の眼鏡フレームに「販売可」と書いてあるので、思わず値札をのぞき込んだら45万円と書いてあった。うーん、40万円ぐらいは伝統工芸保存協力寄付金ってことなんでしょうか。
ギャラリー匠の壁にあった「火の用心」と書かれた張り紙が、果たして「地」なのか、それも展示なのかがよくわからない。というより、浅草という街全体が江戸の面影を残す街とみるべきなのか、もはや観光客向けの巨大な江戸テーマパークとなっているとみるべきなのか、よくわからなかったりして。商店街でおもちゃの日本刀とかいっぱい売ってるし。
しかし、懐かしい町並み。江戸じゃなく、昭和の香り。散歩していた一同、なんでもない「食堂」のサンプル食品の前で、「懐かしいー、こういうのあったよね、エビフライの蝋細工」と連発してたりして。純喫茶とか、洋食屋とか、20年前の日本の風景ってこんな感じだったよなという。
夕暮れ時の浅草寺へ。きょうは快晴の1日だったので、澄み渡る空。見る見る色を変えながら暮れてゆく。小さいながらもきりりと浮かぶ三日月が冴え冴えと美しい。見上げると、五重塔をはさんで月と宵の明星がならぶ。千年前の日本人も、こうして同じ光景を見上げたのかなと思うと感慨深い。もっとも建立自体は千年前でも、何度か火災で焼失しては再建されてきたらしいけど。
夕暮れの空に浮かぶ浅草寺五重塔
2003/12/29(Mon)
図解、早わかり、徹底解説
別冊宝島のムックを3冊。『業界再編と新系列地図』『私でも面白いほどわかる決算書』『この仕事の儲かるしくみ』、
読了 。どれも、図解、早わかり、徹底解説系。この手のムック、バカにできません。よくできてます。
業界再編と新系列地図。35業界、1715社+10グループの業界地図。パワーポイントで描いたような箱と矢印だけの図がちょっと寂しいけど、ざーっと見渡せて楽しい。ふだん気にもとめない業種でも、やっぱり倒産、M&A、外資の進出劇なんかがいっぱいあって「へぇへぇへぇ」とか言いながら読んでしまった。で、出版業界はと思ってページを繰ると、そんなページはもちろんない。まあ全体で2兆円しかないしな、出版市場。ソニーだけでも連結売上高は7兆円。パチンコ市場は合法的なお金だけで30兆。
面白いほどわかる決算書。あっちとこっちを足したり割ったりと、決算書の読み方を知るのは楽しいんだけど、実践的な経験がないと読めるようになんてなりっこないし、そういう意味では、ぼくは決算書は読めるようになりそうもない。株でもやってれば、会社四季報で実際の財務諸表も見るようになるのかもしれないけど、ふつうに考えれば時間の無駄だよな、やっぱり。書名のサブタイトルに「生き残るサラリーマンの武器」とあって、あたかも決算書リテラシー獲得が、沈み行く船と一緒に沈まないための唯一の方策のように煽っているけど、そんなわけないだろう。
この仕事の儲かるしくみ。適当なフリーライターをつかまえて、宝島の社内ライブラリに1週間こもらせて一気に書かせたような本だ。なんてお気楽な企画。しかし、なかなか図もわかりやすいし、うまく構成されている。市議会議員、警察官、自衛官といったオカタイ商売の人たちから、タクシー運転手、大工、大学教授など、ちょっと気になる職業まで170職種。クイックマッサージ、ラブホテル経営といったマイナーだけど儲かりそうなヤツとか、探偵、パチプロ、ソープ嬢、ジャンゴロ、拳銃売買、ダフ屋、偽造結婚などとダークな職種までカバーしてるのが宝島っぽさ全開。
この手の本で必ずやるのが、自分のよく知る職業はどうだろというチェック。「編集者−−収入△、拘束時間×、福利厚生×、役得×、年収200〜2000万と幅がある。正社員のリストラ、減給進行中」。なんだか当たってるような気もする……。「パイロット−−収入◎、拘束時間○、福利厚生○、役得○、平均賃金は41.3歳で月額129万円」。パパ! やっぱりパパが「親子で一緒に空を飛ぼう」といったときに、ぼくは首を縦に振るべきだったよ!! ぼくがバカだったよ! 今からパイロットになるよ! いまブンブン首を振ってるよ! ……、定年後に再就職した小さなベンチャー航空会社の劣悪な労働条件に憤っている父親は、やっぱり現役時代は恵まれた職種の恵まれた大企業にいたんだなと思う。
「税理士−−年収3000万円は当たり前!」。うっ、兄貴の言葉はホラじゃなかった。やっぱり強い、サムライ業。「弁理士−−収入◎、拘束時間△、福利厚生△、役得○、開業3〜4年の平均月収は200万円」。ああ、ぼくの年収4倍増計画が……。
2003/12/30(Tue)
代々木競技場って美しいか?
ある人に「いま日本でいちばん勉強している人たちは誰かわかる?」と聞かれた。なぞなぞじゃないけど、当たり前の答えが用意されてる場合、人はこういう問の立て方をしない。こういう場合、3秒で気の利いた答えができないなら、むしろ黙って相手が用意している答えを聞いて「なるほどぉ」と感心してあげるのがマナーだ。
答えは小学生。ゆとり学習という評判の悪い話もあるけど、かつての知識詰め込み教育の反省から、今は生徒が自ら一生懸命ものを考え、調べモノをしながら学習するようなスタイルも結構行き渡っている。今の小学生は、歴史、科学、数学、美術と本当によく勉強しているというわけ(ここで「なるほどぉ」と目を輝かせると、質問者は安心してフフンと鼻を鳴らすことができる)。それに比べたら「若い頃勉強しておくんだった」と嘆いたり「なにがゆとり教育だ! 子どもは勉強しろ!」と憤慨している大人は、日本でもっとも勉強してない人種だったりする。
宮崎興二『かたちのパノラマ』(丸善)、
読了 。読みながら、そういえば幾何学なんてもう20年ぐらい勉強してないなぁと思った。垂線だとか包絡線がどうしてこうして、内接円と外接円をどうにかして辺の中点を結ぶとAB:CDが黄金比になるだとか、そういう話。
この世は「円と正方形からできている」という古今東西の文化史的な話からときおこして、2次元から3次元、最後の章には4次元多面体の話が出てくるというのが本の構成だけど、だんぜん3次元の話がぼくには面白い。建築や伝統工芸、自然界に見られる形への言及よりも、純粋に幾何学的な形状の探求が面白い。
小学4年生だか5年生のとき、塾の算数の授業でプラトンの立体と呼ばれる正多面体が、たった5つしか存在しないことを知った。と、その直後、「今からそれを証明してみましょう」と先生が切り出したのに驚いた。そんなこと、どうやって証明できるのか、さっぱり予想がつかなかった。わずか3分ほどで証明が終わったときには、ぼくはもっと驚いていた。正多角形は無限にたくさんあるのに、正多面体は確かにたった5つしか作れない。
この「かたちのパノラマ」という本で、そういう小学生のときの感動のようなものが、またたくさん味わえた。正多面体から、少し条件を緩くしたような準正多面体や半正多面体といった古代ギリシアから知られる多面体を皮切りに、ジオデシック多面体、アルキメデスの立体、デルタ多面体、正多角多面体、ゾーン多面体といった、対象性の高い立体の性質や分類の話が次々登場する。凸多面体から凹多面体に話が進むと、一気に形のバリエーションは増えて、不思議な視覚的性質をもった立体が登場する。準周期的なタイル張りパターンとして有名なペンローズ・パターンの3次元版のような、空間を充填する立体の考察なんかも面白い。
正多面体は周期的に積み上げることで空間を埋め尽くすことができる。いっぽう正多面体を使って、準周期的だったり非周期的な積み上げ方もできる。じゃあ、少ないユニットを使った非周期的な積み上げ方で空間を埋め尽くすようなことはできるか。というので、対角線が黄金比となる菱形を構成面として「黄金等稜ゾーン多面体」というのがあるらしい。かなり不思議な多面体だ。
黄金等稜ゾーン多面体をくみあげると空間を埋め尽くす不思議なパターンが現れる。
あれこれ検索したら、Geroge W.Hartの
多面体のすばらしいサイト 発見。このおじさんは多面体に取り憑かれまくってるよ。
ところで、この本によると「現代のわが国の圧倒的多数の建築家により、紀元後2000年間にわが国で建てられた最高傑作の二十一世紀に伝えるべき建築」とされ、「この建築に比べると桂離宮や伊勢神宮などまったく取るに足りない」と評されたというのが代々木国立競技場なんですが、これ、信じられますか。こういう幾何学的な建築って「なんかモダンかもしんないけど、無味乾燥ってか人工的ってか、極端にアグリーだよ」と言うのがワビサビを解する日本人ということになってませんかね。著者は、「なぜわが国では幾何学を避けたがるのだろうか」と疑問を呈しているけど。ガウディぐらい幾何学の原理がパッと見わかりづらいとオーケーなんだろうな、きっと。サグラダファミリアなんかも、実は楕円放物線面と双曲放物線面というきわめてシンプルな幾何学パターンの組み合わせということです。
東京・代々木の国立競技場。極小曲面の原理の被膜構造だかなんだか。
NISHIMURA Ken <nis@bigfoot.com>