アルコール依存症82万人、成人男性の2% 厚労省推計。数え方によって数字なんて何とでも変わるのだけど、それにしてもねぇ。この数字を発表した久里浜式アルコールセンターのページにある
「KAST」(久里浜式アルコール症スクリーニング・テスト)による自己診断だと、「2点以上 きわめて問題が多い 重篤問題飲酒群」という基準のところ、かつてのぼくの飲酒習慣は6.5点と、とてつもないハイスコアーとなってしまう。
薬物依存、あるいは物質依存といってもいいけど、どうもよくわからない。精神依存、肉体依存は違うんだとかいうけど、そんなに截然とわけられるもののように思えない。依存、嗜好品というのは不思議な存在だと思う。
いま読んでいる本から引用。
ワイン大国のイタリアでは、もちろん大量のワインが飲まれている。しかしほとんどが食事の席だけで、ワインにかぎらずアルコール類をそれ以外の場でガブガブ飲む人は非常に少ない。日本語には酒豪などという大酒をなかばほめるようなことばがあるが、わたしの知るかぎり、酒飲みをあらわすどんなイタリア語にもそんな語感を持ついい方はない。一般に食事の滋養から離れた飲酒は、悪徳とまではいわないにしても悪癖(ヴィツィオ)であり、人間的弱点とみなされている。テレビのニュースで政治家などの汚職が報じられるとき、「彼もまた人間だった」というのがしばしばキャスターの結び文句になるように、人間の弱点には理解のあるイタリア人のことだから、飲酒程度の悪癖で人をあからさまに責めたりはしないが、酒飲み人間のことを最低と評しているのを何度も聞いたことがある。
酔っぱらうことはまた美学的にも問題であり、そんな姿をみられるのは不名誉である以上にまことにカッコわるいことだ。だから、女性はもちろんのこと、靴をピカピカに磨き上げたおしゃれなイタリア男がワインを飲み過ぎて酔っぱらうというようなことはまずありえない。ファッションと酩酊はイタリアでは両立しないのである。そのためだろう、若い男たちはあまり酒を飲まない。覚醒の緊張感がカッコがいいのである。わたしのみるかぎり、年齢とともにおしゃれへの関心が低下すると、酒量が増えるようでもある。
ほかにも、酒は飲めても主義で飲まない「アステミオ」とよばれる人たちが、男性にも少なくないことをつけくわえておこう。
野村雅一、「酔わないイタリア、酔うギリシア」『嗜好品の文化人類学』より。
もちろん、このあとに、ギリシア人がいかに飲んべえかという話に続くのだけど。
独酌や連日の飲み会、飲むための飲み会のようなものが、いかに近代日本に特殊な飲酒習慣で、しかも今のところ寛容に受け入れられているか。そして、それがいかに危険なことか。と、そんな証拠を、自分がお酒をやめてしまってからかき集めてるようなところも、ないわけではありません。柳田国男の書いた日本人とお酒の付き合いの歴史なんかを読むと、今みたいな飲酒文化が、いかに近年にはじまったものであるかが、よくわかる。昔の日本人は、いまほどお酒を飲んでない。しょっちゅう飲めるほど豊かでもなかった。