2004/07/02(Fri)
電波を止めてください
NHKの受信料。「見ませんから電波を止めてください」とか何のと言って払わないように払わないようにしてきたけど、ついに合法的にNHKとさようならできた。集金にきたおばさんに向かって「うち、NHKは止めてもらってますから」と言って、お引き取りいただいた。
放送法では、受信機を設置したとたんに受信料の支払い義務が発生すると規定されているので「テレビがある」のに受信料を払わなければ違法となる。
むかし、集金おじさんの「法律なんです! おかしいと思うなら立候補して、まず法律を変えてください」という言葉をさえぎってドアを閉めたことがある。そうしたら、例のNHKシールを貼られるかわりに、「104号はカネを払え!」とドアに書かれた。囚人のような言われよう。借金取りから逃げてると近所に誤解されそうな。まあ違法は違法だ。悪法も法なりなんてことは、まったく思わなかったけど。
罰則規定がないにも関わらず、毎年NHKがめちゃくちゃ黒字ということは、日本人って本当にお人好しというか、すばらしい国民性を持ってるよなと思う。同じシステムをブラジルで施行したら、きっとNHKは明日にも倒産すると思う。
放送法の第32条で、次のように定められている。
第32条(受信契約及び受信料)
協会の放送を受信することのできる受信設備を設置した者は,協会とその放送の受信についての契約をしなければならない。ただし、放送の受信を目的としない受信設備又はラジオ放送(音声その他の音響を送る放送であって、テレビジョン放送及び多重放送に該当しないものをいう。)若しくは多重放送に限り受信することのできる受信設備のみを設置した者については、この限りでない。
この限りではないというのは、たとえばヨドバシカメラの売場にあるテレビ。で、NHKって何様なのさというと、
第7条(日本放送協会の目的)
協会は、公共の福祉のために、あまねく日本全国において受信できるように豊かで、かつ、良い放送番組による国内放送を行い又は当該放送番組を委託して放送させるとともに、放送及びその受信の進歩発達に必要な業務を行い、あわせて国際放送及び委託協会国際放送業務を行うことを目的とする。
ということになっている。時代錯誤だと思う。うーん、他国の公共放送や国営放送はどうなってるんだろうか。「放送と受信の進歩発達」は技術的な部分も指しているんだと思うけど、NHKが技術的になんかすごいことやってるかというと、非常にあやしい。アナログハイビジョンはロクなことないし、いまだに「CGでよみがえる法隆寺!」とか言って、いかにもCG、CGしたダサい映像しか作れないNHKが、他局と比較して遅れているのは業界の常識、という話だ。教育テレビで出てくるCGキャラの動きなんかを見てると、いまどきPS2でだってあんなにダサくないぞと思わせるものがある。年に1度の放送技術展も、子どもだましのようなものばっかり。
いかん。Nのつく3文字の会社は、どれも悪口を言いすぎてしまう。
うちはケーブルテレビなので、個々のチャンネルを受信するかどうかは任意に選択できる。だから、契約の時に「NHKはどうしますか?」と聞かれたときハッとした。ついに技術的にNHK電波をシャットアウトすることが可能になった。で、「NHKは止めてください」と言ったら、すんなり「そうですか」と聞き入れられた。
月額1400円を払って(衛星じゃなくて、地上波の)NHKを見たいか? ほかのチャンネルと冷静に比較したとき、価格と内容から言って、払いたくなるほどの番組を放送してるか? 確かにいい番組も多いけど、1400円と言われると、ちょっと待ってよと思う人も多いんじゃないだろうか。
しかし、止めてくださいといったNHK、ぼくの家では「とりあえずNHKも最初は通しときますから」とか言うことで、なぜか今でも見ることができる。「とりあえず」の意味がよくわからない。
2004/07/06(Tue)
もしもピアノが
井上章一『アダルト・ピアノ---おじさん、ジャズにいどむ』(PHP研究所、2004)、
読了。「ホステスさんにもてたい!」という不純な動機で41歳からほとんど独学でジャズピアノをはじめ、8年に及ぶ努力の末に、中年ジャズ仲間とステージで演奏を披露するまでになった大学教授の奮闘記。写真をみるかぎり、確かにサエない、モテなさそうな、ただのおっさん。
始めたときには楽譜はロクに読めず、楽器経験もなく、練習時間も取れず、家人には疎まれ、初めての発表会では小中学生の子どもたちに「なんやねん、このオッサン」という目で見られ、それでもめげずに何とか人に聞かせるだけの技量にまで到達した。自慢話や苦労話というよりも、おもに関西系の「わて、あほですさかい」的な天然ボケ文章が続く。曰く「おっさんは、かなしい生き物である」。もてたい、その一心でピアノに手を出す大人が増えている。でも、ホンマのところは、楽器業界にいいように踊らされてるだけちゃうんやろうか、という指摘も、かなり自嘲がはいってておじさんの哀愁が漂う。
ちょろりとだけ書かれている戦後日本文化史のなかでのピアノの考察が、ちょっとおもしろい。ありきたりな見方かもしれないけど、ピアノって、階級上昇志向の強い民衆にとって「文化」のシンボルとして日本で広まったわけだけど、それが今どうなってるかといえば、ここ10年ほどは中国をはじめ、経済発展めざましいアジア各国に中古で流れてるそうだ。本棚いっぱいの百科事典とか、無理して子どものために買ったアップライトピアノとか、ぼくが子どもの頃には、まだそういうのって、どこの家庭にもあったものだけど、洋酒のボトルだとか地球儀だとか、そういう白々しい見栄っぱり的アイテムとともに、場所を食うだけの文化装飾品って、日本ではかなり衰退している。
西田敏行が1981年に歌った『もしもピアノが弾けたなら』にはじまり、武田鉄矢の『101回目のプロポーズ』、木村拓哉の『ロング・バケーション』にいたるまでの、ピアノ演奏への羨望をかき立てるピアノ業界の陰謀論も、言われてみれば確かに「ドラマの裏にヤマハあり」という感じがしてこなくもない。子どもたちが弾かなくなったから、業界はこぞって大人たちをそそのかし始めた。いるよいるよ、ぼくの周囲にも30歳を過ぎてヤマハのお姉さんに楽器を習ってる人たちが。
おっさんはバイエルなんてやらんでええ。せやなくて、おっさんなりの、生きてきた時間の重みから来る情感を、メロディーに乗せることをやりゃよろしい。そういう思い切った開き直りの数々を、自分なりの経験談を交えて、次々に読者に提案する。「中年には中年のやり方がある」という。
一般論としての「○○歳の手習い」というものが、ぼくには気になる。楽器でも、語学でも、ジャグリングでも、みんな臨界年齢を口にする。やれ「語学は25歳まで」だの「ピアノはせめて8歳までに始めないと」だのという。一流になるのに英才教育が必要な技術は確かにあるし、プロになるのに必要な修行ができる時間的余裕のある年齢というのもある。でも、臨界年齢を口にする人たちの多くは、問題をすり替えていることが多い。「一流になれる臨界をすぎた」ということを、あたかも「習得できる臨界をすぎた」と思いこむことで、自分の怠慢を年齢のせいにする。
「あざやかな演奏は無理だが、ちょっと聴かせるぐらいのところまでなら、たどりつく。手は届くのである」と、このおっさんは言う。
言うまでもないことだが、私は猛練習をかさねてきた。それは、ダッシュ50本、ウサギ跳び5周という体育会系の練習とも、つうじあう。徹底的に自分の指をいじめぬいてきた。それで、ようやく今日の私がある。トレーニングなしで上達するなどと言うことは、ありえない。
だが、とにかく、中年からでも、まにあうのだ。高のぞみをしなければ、ある程度の水準にまでは、到達しうる。
2004/07/09(Fri)
バタバタ
バタバタと忙しい気分の金曜日。出社前にパチャパチャと1200メートル泳ぐ。ややがんばり気味で泳いで1kmが18分45秒。こういうチョロチョロ水泳では、このぐらいのタイムが限界らしい。
25時に校了。新宿3丁目でのヨーカ会の飲み会へ。珍しく同じ職場の人も何人か誘ってみた。2軒目、移動したオープンエアのテラスな感じのテーブル(正確に描写するなら「タイの街角にありそうな屋台の軒先」)で飲む。暑い日が続くものの、夜は風がきもちいい。ひたすらコーラを飲む。もう1年半になるけど、お酒はまるで飲む気がしない。
明るくなりはじめた明け方、残っていた面々のまえでジャグリングを披露。「おぉ」という場所は個人個人でちがいがあるものの、見ていた人には何らかのワザを「おもしろい」と思ってもらえたようで、うれしい。
自分で自分を撮るためにカメラを回すだけで、できることができなくなると、たいていのジャグラーは言う。自分としては緊張している自覚もなくても、明らかに何かがちがってくる。まして、人前となると、いつも一人の練習でできていることができなくなる。それはわかっていたけど想像以上にできない。おでこでボールをキャッチするというトリックは、見られているという意識が首の柔らかさを奪い、まったくできる気すらしなくなる。技術力の向上もそうだけど、人前で投げることを考えて、そういう練習もしたほうがいいらしい。
ボールを持たせたら、T社Y氏がはしゃぎすぎて激しく転倒。いわゆる年寄りの冷や水……。
2004/07/10(Sat)
ラジオ講座で中国語
赤坂でMIMAの集い。9人ほど集まって食事。2次会で流れた喫茶店の前で、またしてもジャグリングを披露。前日よりも、さらに「できることができない」状態に。どっちにしてもまだ技術力が低すぎる。
道具から入るとか、道具をそろえてから何かを始めるというのは間違ってると常々思っているけど、今回は完全に道具から入ってしまった。投資を回収できる見通しも、継続して続けられる感触も、具体的な計画も何もないまま、「中国語とフランス語やるぞ!」ということで、なかば衝動的に『トークマスター』を購入。新宿南口の紀伊國屋で約2万6000円。一緒に256MBのSDカードを9000円ほどで購入。しめて3万5000円。
 | ラジオ講座で中国語を。 |
トークマスターというのは、語学学習者の間では結構知られている携帯型のMP3プレーヤーで、AM/FMラジオを予約録音できるのがポイント。これほど巷にMP3プレーヤーがあふれているのに、語学学習者に必要なAMラジオ(NHK第2放送)のチューナーが入っていて小型のものは、ぼくが知る限りではこれ1台だけ。テレビ録画向けには“デジタル三種の神器”とか言われてDVD・HDDプレーヤーがあふれかえっているのに、ラジオ録音市場は、そもそも市場すら存在してないような状態。
そういうなかで、このトークマスターは、たいへん貴重な製品として、割と気合いの入った語学学習者に愛用者が多い製品だったりする。デザインはださいし、MP3プレーヤーとしての機能もしょぼくて数世代遅れという印象だけど、ほかに代え難い製品ではある。ハードウェア自体は韓国製で、アメリカや韓国でも買えるらしい。わざわざ個人輸入するほどの価格差もないうえに、ラジオの周波数調整の問題で、国内で買うのがよろしいらしい。日本ではサン電子が売ってますが、きっとあそこの事業部には語学オタクがいるんだと見ています。サン電子は妙なインターネットラジオを出していて、「世界中のラジオが聴ける!」とか言ってますが、そんなことを言うのは、ズバリ語学オタクだけでしょう。
で、このトークマスター。AVコンポで取りためたMDが部屋にあふれかえっていて困っているとか、そういう人が喜んで買うらしい。そういう人にとってはラジオごと持ち運べるうえに、ABリピート機能(区間をボタンでピッ、ピッと指定して繰り返す)やら、外部メモリーカードを利用してン十時間の録音が可能なんてことは、もうゴクラクとしか言いようのないリスニング環境を提供してくれるわけでしょう。しかし、「うっしっし、この道具さえあれば、いよいよオレもラジオ講座で○○語を!」と思っているフトドキな「道具さえあれば」論者に効果があるかどうかは、はなはだ怪しい。道具から入って成功した試しがあんまりないのだよなぁ。
とりあえず使ってみて驚いたのは、会社の席ではAMラジオがまったく聞けないこと。パソコンからのノイズが恐ろしいボリュームで聞こえてくるだけ……。というか、ラジオって、こんなに感度の悪いものだったんだ。ケータイなんて比較にならなくて、窓際に行かないと音さえ拾ってくれない。もっとも、ほとんどの語学講座は、ぼくが寝ている午前7〜10時台に集中しているので問題なさそうだけど。
中国語とフランス語をゆるゆるとはじめてみるつもりではいるけど、果たしていつまで続くのやら。というか、果たして始められるのかどうかが問題だな。
さっそく会社で周囲に見せたら、驚いたことに、すでにこのトークマスターを買うのは職場で4人目だったらしい。みんな口をそろえて言うのは、「いやぁ、録音たまっててね。消化が追いつかなくてね。はっはっは」ということ。Nさんにいたっては、「あたしね、フランス語とイタリア語とスペイン語を録音してるんだけど、どれも全然聞いてないっ★」と楽しそうに言う。
情報を手元に引き寄せたい、置いておきたいという欲望というのは強い。使いもしない高額ソフトをダウンロードして交換し合うワレズ文化とか、一生かかっても見きれない映像コンテンツを交換しあうWinny文化とか、何となく似てるなぁ。そのむかし、オープンリールのテープで「エアチェック」したという話とか。何が人間を「録」に走らせるのだろうか。
いやいや、ぼくはやりますよ、趣味の語学。
……、と上の文章を書いたのは、もう3週間ほど前。トークマスター購入から、すでに3週間経ち、今のところは中国語講座だけを録音していて、消化はひとまず追いついている。予約録音が、こんなに語学講座聴講を楽チンなものにしてくれるとは思わなかった。感覚としては、朝起きると、カバンに突っ込んだままのプレイヤーに20分の講座が勝手に届いている感じ。通勤電車のなかで聞くのにちょうどいい。
と、語学熱が拡散方向へ向かういっぽうで、英語も何とかしようと再び思い始めるこのごろ。
2004/07/11(Sun)
支持政党はありますか
橋本晃和『民意の主役 無党派層の研究』(中央公論新社)、
読了。またしても投票棄権ということで、せめて少しは政治も勉強しようかと手に取った本だけど、あんまりいい本じゃなかったかも。論点整理の手際が悪すぎる。ムダに似たような造語を乱発しすぎ。説明がまだるっこしく、繰り返しが多い。前後の論点の参照が多すぎる。「21世紀の地球社会にあって」的な、ふわふわとした抽象的で無責任な言葉使いが多い。自慢話が多すぎる。はふぅん。
「無党派層」というのは、ずっとむかしには政治に無関心なノンポリ層を指す言葉だった。この本で著者が言う「新・無党派層」は、政治に関心はあるものの、党派心が希薄で、支持政党を選挙ごとに変える、あるいは支持政党が見いだせないときには棄権するという、実は今となってはいちばん分厚い層。この層の分析なしに、日本の政党政治のダイナミズムは読みとけない、という問題意識が根底にある。
著者は日本の有権者の傾向を3つの時期にわけて説明する。
- 1949年からはじまり、1969年ごろまで続く強い「支持政党あり」の時代。
- 1969年から1989年まで続く弱い「支持政党あり」の時代。
- 1989年から2009年ごろまで続くと考えられる政党配分型による、強い「支持政党なし」の時代
強い支持政党がある時代は、イデオロギーの対立と保守・革新の対立軸が、そのまま保革対決の政党構図となっていた。ところが1970年ごろになると、2つの大きな意識変化の契機が訪れる。ひとつは社会主義イデオロギーへの幻滅。もうひとつは、都市部への人口の大移動。
人口大移動が起こって都市部人口が急増する。それまで地方で「おらが先生」に投票してきた人々は、それまで自分が属していた共同体への帰属意識が弱まり、白紙の状態で投票所へ向かうようになった。といって、政権能力のあるのがいつも第一党のみという日本にあっては、この傾向は結局、投票のたびに「与党である自民党を信任するかどうか」という力学を顕在化させていく。信任しない人は投票へ行かない、という傾向が続く。政治社会に「不満」があっても、投票行動に結びつかない。調査では、むしろ政治がうまく行っていないと思う層より、現状に満足している層のほうが投票率が高いという。
政権交代ができるほどの政党がなく、政党政治が日本には根付いていない。政党メカニズムの機能不全がこの「不満がある人が投票に行かない」という一種矛盾した(しかし、統計データに裏付けられた)傾向に拍車をかけている。かつて投票率が下がると与党不利と言われ、その理由として自民党支持者が「オレが入れなくても自民党は大丈夫だから」と思うからというのがあったけど、これはナンセンスで、これはむしろ後に「新・無党派層」となる人々の消極的な不信任表明と理解するべきもの。
1990年になると、冷戦が終わり、湾岸戦争が起こり、日本の経済は停滞する。このへんから、このままじゃイカンと思う層が、ふだんの支持政党とは別に「今回はこいつらに任せてみよう」という票の入れ方をするようになる。1989年の消費税導入時に、「山は動いた」といった社会党のドイタカコが言ったのは、そういう新しい有権者層の「民意」を指してのことだった。ひとつの意図をもって動く集団の票を「浮動票」などと呼ぶのは、言葉の誤用でしかない。民意というものを想定した場合、この層は民意を票によって各政党に分配しているかのように行動する。これが90年代から始まった新しい日本の政治の基本構造で、著者は「いままで20年おきだったから〜」という理由で、2009年ごろまで続くんじゃないかと言う。
いまや、「支持政党なし」の層がいちばん大きくなり、この層は、何々党というより、小泉や田中マキコ、誰それといった支持の仕方をする。あるいは政策を個別に支持・不支持する。そもそも同一党内で、保守・革新が混在していたり、見解がわかれていたりするのに、一体どういう根拠をもって、どの政党に票を入れるというのか、そこらへんが、ぼくにはよくわからない。個別の政策や、政治的問題についてどう思うかと問われれば、まだしもとっかかりがある感じがするけど、さあ政党の名前を書いてくださいと言われても困る。支持政党はないし、支持したくなる政党もない。
ふと思った。政党政治の構造的機能不全が、民意をくみ取ることができていないのだということがあるのだとしたら、逆に民意の構造、もっといえば社会階層の構造が、時間をおいて政党政治の構造に反映されるということが起こるんじゃないだろうか。アメリカのように、社会自体がきっぱり上下に二極分化した感じのある国でなら、政党もきっぱり分かれて政党政治ができもするだろうけど、今のところ日本社会はムラ共同体の崩壊のあと、経済一点張りで来たからか何なのか、どうも社会で利害や意見が対立する軸がキレイな形で存在していないようにも見える。いっけん、右だ左だといろんな議論をしていても、その区分は明確なんだろうかと疑問に思えることが多い。とすると、そういう曖昧な感じが、そのまま政党政治にも反映されてるんだと言えるんじゃないだろうか。政党の再編が、どういう方向で進んでいくのかを見つめることは、今後の日本の社会に現われることになる複数の社会階層の登場を見つめることになるのかも。
2004/07/13(Tue)
防「刀」チョッキ
久しぶりにジャグリングを1時間ほど練習。4ボールで84キャッチ。平均30〜60キャッチ。なかなか100キャッチに届かない。片手の練習をしたほうがいいんだろうか。平均して100キャッチ超えるようになったら「5ボールの練習を始めてもいいでしょう」という中村潤一郎の教えにしたがうつもりでいたので、なんとしてもまず4ボールで100キャッチと思っていたけど、もう待ちきれないので5ボールの練習をゆるゆると開始することにした。いや、すでにゆるゆると始めていると言えば始めているのだけど。久しぶりに5つのボールを投げてみたら、3度に1度くらいは正しい軌道を描いて美しく手元に収まるようになった。
トリックの数とか表現力の豊かさから言えば3ボールで繰り広げられる世界こそがジャグリングの真骨頂じゃないかと、ぼくはそう思っているけど、ジャグリングをやっていると話すと、ほとんどの人は「いくつ投げれるの?」と聞くので、その意味でも5ボールができることはきわめて重要だ(笑)。
クローキャッチカスケード(猫招きのように上からキャッチ)で50キャッチ達成。やや前方に投げるようにすると、逃げるボールを追いかけて手元に引き寄せる動作を高速に繰り返すような不思議な印象に変わるので、軌道を身体の中心に寄せる練習。デジカメで撮影してみたら、しょぼいデジカメでは動きが速すぎて撮れないことが判明。
ミルズメスは、あんまり上達しない。orkutで知り合ったオーストラリアのジャグラーに、ルーベンシュタインズ・リベンジが「予想以上に簡単だったよ」ということなので、そろそろ複雑な動きをするワザのあれこれのバリエーションに挑戦したいけど、何だかちょっと自信がなくなってきた。
プール、2000メートル。久しぶりにスイマーズハイ的な無心状態になった気がする。
東京体育館の室内プールの利用料が450円から600円に3割も値上げされていて、ショック。代々木のオリンピック記念青少年総合センターは、いまだに260円だというのに。大人の趣味としては、どっちも誤差範囲の安さではあるけど、倍の値段というのは、ちょっと納得がいかないものがある。代々木のほうはそもそも25メートルプールしかなくて施設としての「格」が違うといえば違うんだけど。
Eさん、Mさんとアジャンタ。そういえば、ぼくが最初にバイトを始めたときの副編と編集長。あれから10年も経つ。マサラドーサ、キーママタール、マトン、ダール。新社長の印象を聞いたら、端的な3つの答えが返ってきた。それで何となく人となりがわかってしまったような気がする。
Eさんが、あれこれとくだらないようなおもしろい話をたくさん。「リトルの法則」「パレートの法則」とか、世にあるあれこれの法則をもっともらしく解説する単行本を書いてみたいという。物理学、心理学、経済学、社会学とおよそ「学」のつくものから、経営理論、マーケティング理論、ゲーム理論と「理論」関係も法則だらけ。しかも、たいていそのキモは200字ぐらいで説明できちゃったりする。書き手次第ではおもしろい読み物になるような気もする。「〜効果」も入れるといいんじゃないか。「ガルシア効果」「ハロー効果」「ブルース効果」と、世の中にはナントカ効果が腐るほどある。『知らなくてもいい100の法則 〜法則から始める耳学問』という新書はどうか。ダメか。とりあえず、housoku.comだな。いや、ほぼ日で「今日の法則」で連載だな。
読売新聞の気になった見出し。わが子守る「一着」登場、刃物防ぐ素材で4万円。わが子を心配する親の気持ちはわかるけど、何だかよくない傾向じゃないだろうか。
凶悪犯罪は戦後一貫して減少傾向にあって、今の日本は信じられないほど「殺人のない国」となっている。特に14歳〜20歳の若年層では、1960年のピークと比較して、今はわずか1/4という水準で推移していて、増えているという徴候はどこにもない。貧困から来る強盗や殺人が減ったことで、常識人の理解を超える猟奇殺人が相対的に目立っているだけじゃないだろうか。
どうしてメディアは騒ぐのか。騒げば視聴者が喜ぶというのはひとつあるだろうけど、ここには、もうちょっと複雑な構図があるらしい。
法改正や立法は、特定業界に莫大な利権を生み出したり、利権をある団体から別の団体へ移動したりする。法文の句読点の位置を変えるだけで利権が動く、という性質のものらしい。少年法改正によって得をする人々がいる。だから、社会の人々の「漠然とした不安」は、利権獲得のために御しやすいリソースとなる。
いいようにメディアに踊らされ、不安をかき立てられ、「もっと強く守れ! 厳しく取り締まれ!」と世の中が騒ぎだす。これって911テロ以降のアメリカ世論とあんまり構図は変わらない。人々の不安をあおる。つまり、テラーをあおるわけだから、「テロ行為」と名付けてもいいんじゃないだろうか(いいわけがない)。ネオコンが、意図的に社会のセキュリティ不安を利用したのかどうかはわからないけど、一時期のアメリカの世論誘導手法がマッチポンプ的だった印象はぬぐえない。
イラク戦争の場合、その大きな目的が、中東の安定化と、イラクに親米的な政府を作ること、それによる安定した原油供給といったことにあったわけで、これは特定団体や業界ではなく、アメリカの、そしてアメリカを中心とする経済圏にある国々の共通した利益だった。イラクの独裁恐怖政治の圧政にあえぐ人々やフセイン政権の危険性も考え合わせると、多少のアメリカのエゴや押しつけも、トータルで考えれば認めてもいいのじゃないのかと、そういうことをみんなある程度は了解して、踊らされている状態なのかと、少しうがって見ていたけど、最近のアメリカ世論を見ていると、「大量破壊兵器はなかった。アメリカは間違っていた」と本気で反省しているようなので、やっぱり米世論はアホなだけかと思ったりもする。アメリカは間違っていたと言わず、ブッシュが間違っていたとか言うあたり、うまくできてるなとは思うけど。
「少年犯罪凶悪化」と騒ぐ新聞も、それを真に受けて「物騒な世の中ねぇ」と不安を拡大再生産するバカな読者も、無責任だと思う。ちょっと確かめればわかることを、なぜ確認もせずに騒ぐのか。こんな状態じゃ、いつか日本もセキュリティ不安をかき立てられて、戦争でもおっぱじめたりしませんかね。
2004/07/18(Sun)
はじめてのジャグリングショップ
板橋のジャグリングショップ、ナランハへ。思ったよりも、小さなお店で展示されているものの種類も、ホームページから受ける印象よりも少な目。
シリコンボールを投げてみた。思ったよりも、ずっと重たい。さわり心地もゴムみたいで、あんまり心惹かれない。驚くのは、よく弾むこと。ほとんど落とした手の高さまで、ボヨーンと戻ってくる。ボールジャグリングには、ボールを投げあげる「トス・ジャグリング」のほかに、床にボールを投げつけて弾ませる「バウンス・ジャグリング」、手のひらや腕などに接触させたまま、自在にボールを操る「コンタクト・ジャグリング」がある。シリコンボールは、バウンスジャグリングにも適していて、多くのプロが使っているとのこと。シリコンボール、1個で4000円。さすがにホイホイと3つも4つも買える値段じゃない。
透明でツルリンとしたクリスタルボールもさわってみた。素材は何かわからないけど、ガラスとアクリルの中間ぐらいの感じ。コンタクト・ジャグリングの、特にパームロールに興味があるので、ちょっと買ってみたい気もしたけど、これも1個3000円ほどするので、パス。台湾のおみやげやで見た伝統工芸品の、怪しげな「玉」を買っておけば良かったかなと、よく分からない後悔が脳裏をよぎる。
ビデオとDVDは、備え付けのテレビで勝手に見ていいということなので、5本ほど立て続けに見る。1本ぐらいは買うつもりだったけど、どうやらぼくの目はネット上のビデオクリップで相当こえているらしく、どれも買うほどの価値が見いだせない。収穫は、「ファステスト・ジャグリング」と「ピアノ」と呼ばれるトリックの動きをみれたこと。文章の解説だけではわからない、リズムや見た目の印象が、ビデオだと一発でわかる。ファステストジャグリングは、名前のとおり、手の動きが異様に早い。その割に3つのボールが定位置に浮かんでいるような印象になる。想像していたよりも、ずっとずっと動きが速かった。
ともあれ、「あ、ホントにできるんだ」と思えたのは大きな収穫。ジャグリングというのは、不思議なもので、できると思えないものは、絶対にできないし、練習もしないもの。子どものころを振り返ってみて、なぜ自分が4ボールに挑戦しなかったかと言うと、できると思っていなかったからというのが大きい。理屈では複数の4ボールパターンを自分で発見していても、試してみると、当然まったくできない。周囲にジャグラーがいなくて、ジャグリングの知識もないものだから、「たぶん何かやり方が違うんだろう。こんなこと、できるわけがない」と結論して、3ボールで遊ぶだけということになる。これは結構多くのアマチュアジャグラーが言ってることだけど、実際に誰かサーカスに属さない人間がジャグリングをやるのを見るまでは、まさか自分がそんなことをやれると思わなかったという。
ジェイソン・ガーフィールドという天才ジャグラーの教則ビデオが笑える。8ボールの解説で、習得年数がいきなり10〜30年とか出てくるし。
ビデオを見ていたら、3人ほどお客が店を出入りした。いきなりそのへんにおいてある火炎ビンを手にして、ブンブン振り回したり、クラブを投げたりするんだけど、当たり前のようにうまい。デビル・スティックとかディアボロも、狭い店内でいきなり試してみたりする。何となく横目で盗み見ながら、ぼくは来てはイケナイ空間に迷い込んだような気がしてくる。
クラブ(ってボーリングのピンのようなアレ)を初めて握ってみた。そっと1本だけを握って投げてみる。右手から左手へ。1回転。2回転。1本でも思ったより難しい。火炎系とかナイフ系の道具をしげしげと観察。うーん、あんまり興味ない。
いろんなボールを握って投げてみる。大中小、軟硬いろいろ。重さ、色や手触りも違う。結局、大きくて明るい色のステージボールと呼ばれるものを5つ、いつものビーンバッグを4つ購入(各1個800円)。これと、これをくださいと、若いアルバイトらしき店員にボールを手渡すと、その彼が手癖のようにパームロールをした。クルリンとボールが手のひらの上で回るその速さと正確さが、ジャグラーっぽい。
 | まだ4つしか回せないのに、どんどんボールだけは増えていく。 |
2004/07/19(Mon)
森の緑はマグネシウム
桜井弘『元素111の新知識---引いて重宝、読んでおもしろい』(講談社)、
読了。現在までに確認されている111個の元素について、発見の過程、命名の由来、物性、化学的性質、生物との関係、応用など、多くのエピソードを交えて紹介している小事典。
枕元において、1日2〜3個ずつ読むのがこのところの習慣だった。ロジウム(Rn)とかインジウム(In)とかは、魔法のように眠くなる。毒性がちょっとあるとか、カメラ部品のメッキに使われてるだとか、3価のイオンがどうしたとか、どうでもいい話ばかり。これらの元素の重要な特徴は、「その説明を読むと眠くなる」ということに尽きるに決まってる。
いっそ、原子番号109のマイトネリウム(Mt)のように、存在が確認されているものの、性質がぜんぜんわかってなくて、原子量さえ決定されていない元素のほうが潔くていい。そういえば、110番、111番の元素には、まだ名前すらついてないそうだ……、いやそうだったっけかなと思ってWikiPediaで調べたら、2004年現在までに最大118番までの元素がいくつか確認されている。118番の元素名は「ウンウンオクチウム」と、何かちょっとかわいくて冗談のような響き。104番以降は命名を巡って論争中で、暫定的に名前がつけられている。
- 元素記号 Uuu(111番):ウンウンウニウム
- 元素記号 Uub(112番):ウンウンビウム
- 元素記号 Uut(113番):ウンウントリウム
- 元素記号 Uuq(114番):ウンウンクアジウム
- 元素記号 Uup(115番):ウンウンペンチウム
- 元素記号 Uuh(116番):ウンウンヘキシウム
- 元素記号 Uus(117番):ウンウンセプチウム
- 元素記号 Uuo(118番):ウンウンオクチウム
ギリシア語の読みで規則的につけられているので、111が「ウンウンウン+ニウム」でウンウンウニウムとなるらしい。なんかケナゲにがんばってる感じがするなぁ。憎めない。
インジウムやロジウムのように、狙いどおり、すぐに眠くなる元素というのは案外少なくて、どの元素も読み出すと発見がたくさんあっておもしろい。特に人間を含めた生物との関係が興味深い。ものすごく微量なんだけど、人体には多くの必須元素というのが含まれていて、日々食事のなかでそれらの元素を摂取しているという話。たとえば、モリブデン(Mo)。重要な酵素の活性部位に存在していたりする。それどころか、微生物がもつ、窒素分子の固定を行うニトレゲナーゼという酵素にもモリブデンは含まれていて、地球上の総窒素固定量の約70%が、この酵素に依存しているらしい。現在ほとんどの生物はモリブデン依存だけど、初期の生物はタングステン(W)依存だったらしい。不思議な話だ。
モリブデンの隣のテクネチウム(Tc)は、もっと不思議なヤツだ。すべての同位体が放射性元素で安定な核種が存在しない。そのために、比較的若い43番という原子番号なのに、長いあいだ周期表のあるべき場所に発見されず、サイクロトロンで人工的に作り出されるまでは「隠れて」いた。なんだか不思議なのは、天然に存在しないこのテクネチウムを使った錯体が、医薬品や放射線診断薬として医学用途で大活躍していること。
いちばん驚いたのは、マグネシウム(Mg)。マグネシウムは動植物に必須の元素で、多くの酵素にかかせない。植物の光合成を行なうクロロフィルは、マグネシウム元素が中心にある錯体じゃないかと言われているらしい。とすると、葉緑素の緑色、つまり森の緑色、あれはマグネシウムの色だったわけだ! という話を友だちにしたら「だってマグネシウムって緑色じゃないじゃん」と言われたけど、もちろん金属マグネシウムの色じゃなくて、マグネシウムを燃やしたり、マグネシウムイオンを炎にかざしたりして出てくる光の話で、輝線スペクトルの緑色。夜空に開く花火の緑もマグネシウムが使われていると聞いたことがある。花火の緑色と植物の緑が、ともにマグネシウムの色だったとは。
2004/07/21(Wed)
クオリア
茂木健一郎/歌田明弘『脳の中の小さな神々』(柏書房、2004)、
読了。ソニーの茂木さん、というふうに“ソニー”という枕詞がついちゃうんだけど、そんな小さな枠はとっくにはみ出している感じもある人。実際、出井さんも「元うちの研究者にね、モギって人が……」と口にして、後ろから誰かに言われて「あ、まだうちにいるそうです」とか言っちゃうようなことがあったらしい。
雑誌やウェブで見かける茂木さんの発言は、とても興味深くて、おもしろい人だなぁと思ってるんだけど、著書となると、どうも読む気がしない。なぜだろうか。いくらか立ち読みしたことがあるのと、人からもらったまま放ってあった本を眺めたことがある程度だけど、茂木さんの本は、どれも「脳科学入門+クオリアって何?」という程度の話に終わっていたりして、「クオリア」でググれば、5分でわかるようなことしか書かれてない……、ような気がする……、いや、読んでないのになぜわかるというツッコミは無用。読んだことのない本について、その内容を5分で語れるかどうかが、編集者として一人前かどうかの分かれ目だと、ずっと昔に上司に教えられたことがある。いやはや。
“クオリア”の解明こそが人間の意識を解くカギだという主張は、最先端の脳研究者が共有している問題意識を代表している言葉には違いないだろうけど、それだけしか言わないんだったら、何も今さら茂木さん本人じゃなくても書ける人はいくらでもいそうなもの。
茂木さんって、生の発言のほうが100倍おもしろい人なんじゃないかという気がする。たとえば、茂木さんのホームページに置かれている、本人が撮影したとおぼしき不思議なムービーがある。ドラッグでもやってるんじゃないかって感じの、ややイっちゃった目でカメラに向かって、なにやら日本語と英語でもごもご言う。「意識ってのはなぁ、脳内でニューロンの発火があっちこっち起こって、こーうぼわーっとケムリみたいに広がってだなぁ、そういうもんだって言ってんだ、わかってんのくゎぁ おまえは!?」。大丈夫でしょうか……。
ホームページで公開されているオーディオの中に、「どうしてわれわれは主観的体験というものを持つのか」という意識の問題についてどこかの大学で講演したMP3のファイルがある。われわれはまだ何ひとつ分かっちゃいないんだというのが、その趣旨。
「なんでバナナの味を、あんなふうにバナナの味だと感じるのか」というのは、fMRIなど測定機器の発達によって脳の活動を外部から捉えられるようになった今でも、誰にも答えられない難問。バナナを見て触って味わって、それがバナナだと認知する視覚的回路、味覚的回路は解明されうる。でも、その脳内の認知回路が「これはバナナです」と言ったとき、「なるほどバナナか」と入力を受け取る「主体」はどこにあるのか? なぜ同一の経験として「バナナの感じ」という“クオリア”をぼくらは持つのか。
認知回路そのものが意識だとは考えづらい。じゃあ主体的経験を「感じる」意識とは一体どこにいる何者なのか。ホムンクルスのこびとさんは、どこにもいない。われわれは、チャーマーズのゾンビなのか。
茂木さんは、「その答えは誰にもわかってないし、現状われわれには何ひとつ答えられないんです。答えられるんだなんて言ってるのは、バカモノだけです」と言う。あまりにキッパリと「わからない」というので少しすっきりした。
あれ、本の話。
茂木さんのしゃべりは早口でテンポがよい。スッキリ、ハッキリと問題を分類、整理してくれるので、聞いていて楽しい。そういうノリの良さとか、ほどよい脱線具合が、うまいぐあいにインタビュアーによって引き出されている。
それぞれの章が講義という形になっている。いまや脳科学は総力戦の様相を呈していて、「意識とは何か」に関係する学問分野はきわめて広範囲に及ぶ。そういう多数の研究ジャンルを横断的に、時系列で俯瞰するように紹介、料理してくれる手際の良さもいい感じ。インタビュアーの歌田さんの質問具合もいいんだろうな。
たとえば、ペンローズの量子脳理論がどういう文脈で登場して(寝耳に唐突に脈絡なく、なんだけど)、どういうふうに研究者たちが、あるいは茂木さんが捉えているのかというあたりの話を読むと、そのまま脳科学の最先端の案内図となっているようなところがある。ペンローズはマイクロチューブリンの量子論的振る舞いだのゲーデルだの言っていろいろがんばったんだけど、基本的には情けない本を書いた。けれども、たいていの科学革命は、情けない、ぎこちないものからスタートする。脳科学の最先端、「意識とは何か」という場所で、新しい科学革命が胎動している。ただ、まだ先に進める見通しも方法も、何もわかっていない、というところ。機能還元主義的アプローチは明らかに限界があるのに、今のところそれしかできないし、ともかく研究を蓄積していくしない。
天才宇宙物理学者のペンローズが、いきなり意識の問題にかかわるセンセーショナルな本を出し、DNA発見の大御所生物学者クリックも、歳をとってから急に「意識の問題を解こうや」とネイチャーあたりで言い出した。そういう動きやら、諸々の実験データや知見の集積が、90年代になって、脳科学にターニングポイントをもたらした。
えーと(このところ読書感想力尽き気味)。
ひとつだけ。このインタビュー本の後半のほうで、茂木さんは、主体的経験を感じるその主体は何かという疑問にたいして、ひとつの仮説を唱えている。それを「メタ認知的ホムンクルスのモデル」と呼んでいる。えーと。無限後退の起こらない「脳内劇場」。えーと。
最近の脳関係本を“みのもんた脳科学”と批判していたり、ドリルブームを“前頭葉産業”と切り捨てる、そういう社会的な面での発言も、なかなか読み応えがあります。えーと。
2004/07/25(Sun)
おとなキャンプ
平均睡眠時間3時間続き。よっぽどごめんなさいと言ってキャンセルしようと思ったけど、無理に起きて友人らとキャンプへ。なかなか起きられず、待ち合わせにやや遅刻。河口湖湖畔あたりへ。
キャンピングトレーラーとログハウスとパオが林立するキャンプ場。奥地には、テントを張る本気キャンパーたちもいるらしいとは聞いたけど、基本的にはクーラーも浴場も飲める水道もある、快適なキャンプ場。ボーイスカウトの引率で、よくホンモノのキャンプをやっていた友人のNも、「もうできないよね、そういうの。おとなキャンプでいいじゃんね」とか言う。沢まで荷物を下ろすのに、何往復もしたりとか、ご飯を炊くのに1時間かかるとか、もうそういうのじゃなくて、クルマから荷物を下ろしてポン、電子レンジでご飯をチンと、そういうのでいいや、と。
利用したPICAという名のキャンプ場のホームページには、こんな文句が書かれている。
大自然を味わうためには人間の力も必要だと気付きました。
キャンプ場はサバイバルを体験する場所ではありません。
また、誰もが、自然を楽しむ方法を身に備えているわけではありません。
自然を楽しむための環境が、ある程度快適であることで、
また、自然を味わっていただける方法を提供することで、
もっと自然を楽しむゆとりを持てるはず。もっと自然を楽しみたい人が増えるはず。
冷暖房完備の宿泊施設や、清潔なお風呂などの施設の快適さや
釣り・カヌー・森の散歩などの、ネイチャーアトラクションの楽しさに
PICAがこだわる理由です。
ここまでハッキリ書かれてしまうと、何だかちょっと悲しいものがあるんだけど。むかし、手塚治の火の鳥に、こんなのがあった。21世紀の人々を揶揄する内容だったと思う。宇宙旅行から帰った主人公が、自然を求めて周囲の人々に「どこに行けば自然が残ってるか」と聞いて回る。21世紀の世界では、すべてが地球上のすべてが人工物で覆われてしまっている。「そういえば、西のほうに湖が残ってると聞いたよ」と、誰かが言う。で、そこに行ってみると、なんとそこにはプールがあるばかり。プールで泳いでいた人が吐くセリフは、「だってね、底がぬるぬるするもんだから、舗装しちゃったし、プールサイドだって、タイル張りにしたよ」というようなものだった。
手塚治は偉大だったなぁ……。しかし、ぼくはおとなキャンプでいいのだ。21世紀人類なのだ。
食ったり、ボールで遊んだり、まったりしたり。涼しい森で過ごすノンビリした午後。無理して起きてみるもんだなと思ったり。
翌日は富士急ハイランドへ。ドトンパ、フジヤマ、慈急総合病院(って、いわゆるお化け屋敷)を含め、めぼしいアトラクションは、ほぼ制覇。ドトンパがスゴイ。スタートダッシュの1.8秒間で176km/hまで加速するあの感覚は、ほかではたぶん味わえないし、たぶんふつうの人が一生の間に体験する最大のGだと思う。4.2Gだそうで、それって3G程度と言われるスペースシャトル打ち上げ時より大きいんだとか。一瞬だから訓練を受けていない凡人にも耐えられるんだろうけど、あの加速度が1分ほど続いたら、たぶん危ないんだろうなぁ。4.2Gが1分続くと、時速6000kmぐらいに到達する。
 | これはふつうのフリーフォール。意外に怖い乗り物だと思うけど、さすがに2度も3度も乗ると怖さは減ってしまう。 |
2004/07/27(Tue)
たくましく生きる
グレッグ・ジラード/イアン・ランボット、尾原美保訳『九龍城探訪---魔窟で暮らす人々』(イースト・プレス)、
読了。取り壊し直前の九龍城で、住人たちに、彼らの生活の様子や人生について聞いてまわった写真集ベースのインタビュー集。
 | 取り壊し直前の撮りおろしインタビュー集。グレッグ・ジラード/イアン・ランボット、尾原美保訳『九龍城探訪---魔窟で暮らす人々』(イースト・プレス)。 |
九龍城といえば、多くのアーティストのイマジネーションをかき立てて、写真集、アニメ、映画、ゲームに「未来の廃墟都市」として描かれるスラム街だけど、このインタビュー集を読むと、外部者から与えられる「無法地帯、犯罪の温床、暗黒都市」というイメージとは裏腹に、そこに生活の根をおろす住人たちにとっては、かけがえがなく、暖かく、活気のある都市空間だったということがよくわかる。
九龍城は、空から見ると、中心部にややくぼんだ中庭らしき空間が見えるものの、全体としてひとつのグチャっとした塊に見える。でもそれは、350もの建物が縦横200メートル足らずの狭い領域にもたれあって建ち並ぶ、文字通り城のような空間。そこに3万3000人。内部のほとんどの空間は太陽の光さえ届かない迷宮となっている。設計図なしのラフスケッチだけで増築に増築を重ねた結果、10階から14階のでこぼこの建物は隣の階と高さが合わないのが当たり前。フロアという概念すらないような状態。インタビューに答えたある住人によると、もたれあうように建物を建てるのにもやっぱりノウハウはあったなんて話で、それはそれでうまく行っていたということ。究極の自由だ。郵便を届けた郵便局員や、電気を引いたエンジニアの苦労話がちょっと面白い。
廃墟マニア的好奇心をくすぐられて読んだ本だけど、実際に住人たちの声をきいてみると、九龍城にまつわる暗く、じめじめとした魔窟といったイメージとは違った姿が浮かび上がってくる。多くの住人が口をそろえて言うのは、「犯罪の温床のように見られるけど、そうでもないよ」ということ。「子どもたちもふつうに遊ぶし、みんな顔見知りだから鍵だって閉めなかったもんさ」という人もいる。犯罪都市としてその悪名を世界中にとどろかせていた1960年代ですら、組織的に犯罪にかかわるほとんど人間は外部からの来訪者で、九龍城の住人そのものは、アヘン中毒による死者が多く出たというようなことはあるものの、直接犯罪を組織しているというようなことはなかったようだ。警察さえ踏み込めない無法地帯という場所を利用して、売春、賭博、麻薬で商売をしていたのは外部から来た人間で、客の多くも外部からの来訪者だったという。
無法地帯で生きるたくましさ、自然発生的に生まれる連帯感や助け合い、暗黙のルール。暗い建物の中で完結する生活のなかの意外な楽しみ。そこで生活する住人にとっては、かけがえのない生活空間だったんだなということがよくわかる。住むべきところも見つけられないままに集まった貧しい人々が、肩を寄せ合って、たくましく生活をしていた。水や電気の確保、外部からの物資の仕入れ、製品の出荷、学校、病院、床屋、商店、不動産仲介屋、老人の施設と、なんやかんやとそれなりにやっていけてしまったりする。ともかく法律がないもんだから、とうぜん商売をするための認可も要らなければ税金もかからない。
インタビューは、取り壊しが決まってからだったので、住人はみんな立ち退きに関する不安を口にする。政府との立ち退き交渉で、補償金額に不満を持っていた住人が多い。でも、彼らはみんなたくましい。50歳を過ぎた無許可の西洋医学の医者が「われわれは外部世界じゃ医者としてやってけないよ」とか言うんだけど、そういいながらも、彼らを見ていると、またどこかで何か商売をして生きていくんだろうなという感じが伝わってくる。あめ玉を作るのか、定規を作るのか、餃子の皮を作るのか、床屋になるのか。あのころ寝る間もないほど働いて儲かったような時代がまた来るのか。
生活を切り開き、人生を切り開くために精一杯知恵を使って、精一杯働く、そういう感じって、いまの日本にはない。ハングリー精神といっていいのかもしれないけど。頭脳は使うけど、それは決められたパスを進んでいくために使うのがふつうで、たとえばナントカ試験がどうだとか、社内政治がどうだとか、そういう話。誰も通ったことのない場所を、ほかに行くべき道が見あたらないから自分で切り開くというような、そういうパワーは、いまの日本人には幸か不幸か、あんまり必要ない。そこそこで、そこそこにやっていけて、そこそこ幸せで、という、それはそれでスゴイことなんだろうと思うけど。
香港マニアの上司に、九龍城の話を振ったら、本に書かれてなかった歴史的最後の部分を教えてくれた。1993年の取り壊し時に、最後の最後まで居座った住人たちは、上下水道を止められて、それで追い出されたそうだ。糞詰まりにされちゃったそうだ。
2004/07/28(Wed)
長く楽しい道のり
久しぶりに2時間ほどジャグリングの練習。4ボールでシンクロファウンテンからアシンクロファウンテンへ、あるいはその逆に移行するのに何度か成功。思わずガッツポーズ。別に大したことではないけど、だいぶ4ボールが安定してきた証拠ではある。ファウンテンは119キャッチ。
5ボールの練習。テイクオフから1巡してストップするという5ボールフラッシュは、ほとんど8割以上の確率で成功するようになった。さらに調子に乗って6キャッチを試したら、8キャッチほど続いたような気がする。ボールが多すぎて数えられない。初めて5ボールの感触が自分の手でわかった気がする。常に3つのボールが頭上に浮かんでいる感じとか、手にキャッチしたボールを、どこをめがけてどういう軌道で投げるのかとか、なぜか5個が地面に落ちずにパターンを描き続けるという不思議な感じとかが、ほんの少しわかった気がして、すごい快感。
思った以上に今後の困難が予測される事態が2つ。5個ボールだと相対的に空間が狭くなって、1個でもヘンな方向にボールが飛ぶと、たちまち空中で衝突してしまうこと。もうひとつは、ボールの軌道を同一平面内に抑えることが、さらに難しいこと。ボールが前後に大きくブレる。ボールが顔面に次々と降ってくる。ジャグリングの軌道は2次元平面内だから、解説も理論も2次元で完結しているけど、実際のボールの動きは3次元だ。
出社前に2000メートル。東京体育館のプールは水が冷たくて気持ちいい。あと3200で今月は20km。
2004/07/30(Fri)
顔は内臓が外部化したもの
西原克成『顔の科学---生命進化を顔で見る』、日本教文社、1996、
読了。出版年を調べるために奥付を開くと、その次のページに自社出版物の広告が掲載されている。書名、サブタイトル、要約からキーワードを抜き出してみると、こんな感じ。「奇跡、テレパシー、生命の謎、癒す力の科学、超常現象博物誌、相対性理論と量子論とカオス理論を精緻に検証したポストモダンサイエンスの書」。大丈夫か、この出版社。
この本の内容も、大丈夫なのか……、という疑いなしに読めないものだったりする。少なくとも、正統派の進化論や生物学的常識からは、けっこう隔たった地点で、かなり大胆なコトを言ってるということだけはわかる。生物関係の本で、自分の理論が画期的だという著者って、どうして、みんなこうも「ダーウィンが元凶だった」と蛇蝎のごとく吐き捨てるのかしら。
なぜ、ラマルクやヘッケル、ルーなどの説いた正統な生物学が、ダーウィニズムというイデオロギーに淘汰されたのか、どのようにして二〇世紀の生物学が暗黒の中世のようになってしまったのかを考えてみなければならない。
最初の躓きは、ウォーレスが、マルサスの人口論から生存競争を進化の原因として導入したことにある。つまりダーウィニズムは、はじめから社会科学の発想にもとづいていたのである。ラマルクの「用不用説」のように詳細な“観察”にもとづく経験的法則性の体系、つまり自然科学の手法を執っていなかったのである。
それゆえにこの観念論は、マルクスのイデオロギーと同様に二〇世紀の人類を圧倒し、学問的真実を伝えようとした者を抹殺したのである。
ダーウィニズムは、人類はこの地上で限りなく適応した者(適者)だと誤解したのである。「適者生存」というのは、大いなる誤解だったのである。
こうも正面切ってダーウィニズムを「イデオロギー」「観念論」「大いなる誤解だった」と切り捨てられてしまっては、いかに門外漢でも違和感は感じざるを得ない。ダーウィニズム批判の部分でのトーンがやや粘着質なこともあって、頭を抱えてしまう。合理性や説明の経済性から真摯に批判すればいいものを、勇み足で、こんなことまで言ってしまう。
生命現象は、物質の界面と界面で生ずる電気現象の自己創発的な反応系と考えることができる。これはまた時間と時空とエネルギーとを一定期間、私的に占有する“現象系”でもある。
こういうことを考えると、共産主義思想などは、生命存立の基本概念に抵触するものであり、このような誤ったユートピア思想では、生命感の躍動する社会はとうてい望めそうにもない。
これはヒドイんじゃないかと思う。
ただ、根底を貫く著者の主張はすごく興味深い。「現代の生物学と医学には、根本的に生体力学が根づいていない」という。生物というのは、主に重力環境によってみずからの身体を力学的に個体レベルで自然に変形し、それが遺伝現象にも取り込まれる。進化の方向性というのは、適応、不適応といった軸を巡って生存競争によって決まるのではなく、力学的な必要性による変形によって決まるという。言われてみれば、進化論の本を読んでいても、遺伝子と突然変異、ゲーム理論的と適応ですべて説明されていて、生物の条件を決定づけているハズの形態論が欠落している印象は、確かにある。海から陸に上がったとき、変化した力学的諸条件に適応した進化は、突然変異だけで説明できるのか? 遺伝子上のすべての突然変異が中立的に起こるものなら、なぜいきなり背中に羽などという合目的的なモノがニョキニョキ生えてくるのか? 素人考えでも、ネオ・ダーウィニズムでは決定的に説明できない進化原理があるように思われる。現在の進化論や生物学は、あまりにも力学を忘れてしまった、ど忘れ生物学だと著者は揶揄する。いまの生物学や進化論に足りていないのは、「生体力学」だという。
言われてみれば、ヘッケルの例の系統発生と個体発生のアナロジーも、単なる偶然と片づけるほうが、やっぱりちょっとどうかしていて、どう見ても「個体発生は、系統発生の短い反復である」と考えるほうが自然じゃないだろうか。進化の根底に形態の変化があるのなら、個体発生のときに、胚がその道筋を通るのもなるほどありそうな話じゃないだろうか。
理屈がどうあれ、ともかくこの著者の研究は実を結んでいる。「生物の形態は環境や重力に従って動的に変化する」という視点から、画期的な人工歯根の作成に成功していて、世の中の役にたっている。人工歯根を植え付けると、その表面にセメント芽細胞というのが誘導されるという。完全な人工臓器じゃなく、きっかけを作ってあげることで、生物の遺伝子は発現するのだという。この業績で人工臓器学会の受賞歴もあるというから、ともかく立派な業績をもった研究者であることは間違いない。
著者は、もともとは歯の専門家だったらしい。かみ合わせの不具合で「顔」がゆがむような症状などを研究するうちに顔そのものの研究をはじめ、原始的な生物から筒のような半策類、円口類、古代魚、脊椎動物、ほ乳類に連なる進化の段階で、そもそもどうやって「顔」と呼ばれる部位ができあがってきたか、あるいは今あるような形になったかについて、研究を進めたということらしい。
おもしろいので、あれこれメモ。
端的に言うと、ぼくらが生物の顔だと思っている部分は、ベローンと外にめくれだした内臓と言うべきもので、解剖学的には「顔面頭蓋」と呼ばれる。顔のパーツは、元々なんだったかというと、原始生物の養分取り込み口の周囲にあった各種の化学・物理センサーだった。おむすびに口がついただけというようなシンプルな形の「生きる化石」、ホヤは、脊椎動物の原形と呼べるようなものらしいけど、あのホヤの口のすぐ内側にはエラ孔がある。エラ孔を取りかこむようにセンサーがあり、循環器系がある。酸素や養分を取り込んで、分解、循環するための内臓と血液循環系がある。内呼吸と外呼吸が未分化ではあるものの、基本的に脊椎動物と同じ要素は備えている。
養分のある水が流れてくると、ぴくぴく動く原始生物と、おいしいものを食べてニコニコする人間というのは、基本的には同じ原理でエネルギーに反応しているのであり、内臓が喜ぶのと顔に喜びを浮かべることは同じコト。人間の顔は、体壁系筋肉と内臓系筋肉の両方からなっている唯一の場所で、これはエラを動かす内臓筋の名残。がーん。顔って、内臓だったのか、エラだったのか。エラは鰓と書き、これはもともと「魚が思う」ということだった。顔や表情がなぜ大切な情報かといえば、それは生命現象のいちばん中枢部の呼吸の状態を示すものだから。
このホヤが岩からはがれて海の中を漂うようになると、やがて頭とお尻の明確な区別がつき、何億年か頭進を続けると、棘魚類になる。棘魚類がさらに頭進を続けると、それは最終的にはサメになる。腸管のみの原始的な生物では他動的な波のリズムに頼っていた呼吸は、やがて腸の蠕動運動や、循環系の鼓動、エラの呼吸となる。だから、生物の鼓動、呼吸は波のリズムが源だという話もある。
「水棲のものが陸に上がれば、エラ呼吸は肺呼吸に移り、造血巣は腸管を離れて骨髄へ移る。そしてこの一連の変化が遺伝現象に取り込まれる」。ホントにそんなこと起こるのかよーと言いたくなるけど、生物の骨格や筋肉の説明図を眺めていると、確かに遺伝ありき、遺伝の変異ありきのネオダーウィニズム的な進化観が、急に無理な説明に思えてきた。
2004/07/31(Sat)
ハズレ映画続き
ディープブルー、思い切り期待はずれ。30分のテレビ番組で十分の内容。ほとんど全部見たことある映像じゃん。今どきの視聴者をナメすぎじゃないでしょうか。
- コウテイペンギンが猛烈なスピードで水中を泳ぎ、ジャンプして氷に飛び乗る(みたことあるー)
- コウテイペンギンの雄が氷点下50度のなか、スクラムを組んで冬を堪え忍ぶ(みたみたー)
- クジラがイワシの群れに大口を開けて突っ込む(みたよ、どっかで)
- 海鳥がイワシの群れにダイブ。潜る潜る(へぇ、そんなに深く潜るんだ。でも、良くあるシーンだよね)
- 浅瀬の波間からシャチがヌッと現われて、アザラシの 赤ちゃんを! (そういえば、みたよな、これも)
- 鮫の群れ、大量(ディスカバリーの鮫特集のほうが100倍スゴかった)
- マンボウ(が、どうしたの?)
- マンタ(が、どうしたの?)
- ウミガメ(が、何なのさ!)
- カジキマグロ(が、だから何だっていうの?)
- クラゲがきらきら(980円のカレンダーかよ!)
これでもかというほど白々しい効果音(海のなかでそんな音するかっ!)、「感動しろ」と言わんばかりのやかましいBGM、ミスリーディングなCG(マリアナ海溝とか、深海魚の光とか。映像のタイムスケールも何の説明もなしに変えるし)、ほとんど何の解説もないので、名前も生態もわからないままの生物、驚けよと言わんばかりのもったいぶった演出のところ、ほとんど常識的な話ばっか(硫化水素の噴出する熱水に生物がいることぐらいで今さら誰か驚くか?)。
後ろを見たら子どもは寝ちゃってるし。一体これ、誰のための映画? わからんよ。ディスカバリーチャネルのほうが映像の構成力もストーリーづけも、解説力も、新規性も全部うえ。
最後のシーンで脈絡もなく暗に捕鯨を非難しているナレーションが出てきて、もうお口あんぐり。人間(捕鯨)は大自然を傷つけているという、もう百万年前から聞き飽きた素朴なクリシェですよ。独善的でやらせ的で商売的で政治的な自然礼賛のスタンスがすっかり見え透いちゃったようで、興ざめは最高潮へ。日本の観客はよくブーイングしないもんだと思った。
イルカ好きのぼくとしては、彼らが泳ぐ美しい姿を画面いっぱいに見られただけでいいんだけど。うーん、いや、2、3のシーンは見応えがあるのは確か。それを10分の短い映像で見せてくれたら「必見!」といって興奮したかも。しかし、ムダに長くもったいぶった映画だった。ていうか、これ映画? ドキュメンタリーですらないように思うけど。
NISHIMURA Ken <nis@bigfoot.com>